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2016年08月08日 (月)
ひとりひとりが主役のダイバーシティー(多様性)な地域へ④【社会学者・萩原なつ子さん】
ひとりひとりが主役のダイバーシティー(多様性)な地域へ③はこちらから
「自分たちの地域を、自分たちで良くするにはどうすればいいのか…」。
「としまF1会議」のメンバーたちは、“緩やかなつながり”を持ちながら、“予算ゼロからのアイデアだし”を自由に行っていくなど、非常に柔軟で闊達な実践を続けました。そうした取り組みのなかで、メンバーたちはどんどん前向きに変わっていきます。
--住民の意見を積極的に取り上げていこうとか、「官民連携」といった取り組みは、全国各地でも立ち上がり始めていますよね。
萩原氏 まずはスピードですね。それから行政職員に加わってもらってたとしても、“お客さん”のような参加の仕方では難しいですね。もう14年ほど前になりますが、かつて私は宮城県庁で「食育の里づくり」という取り組みをやったことがあります。その時お金は県が出したんです。ところが県からお金もらうと自由にならないっていう話を、市長や基礎自治体からいっぱい聞いていたんです。そうじゃないお金の付け方ってあるよなと思って。それで提案したのが、県には実行委員として入ってもらうというかたちでした。「目標はこうです」としておきますが「お金は皆さんでご自由にどうぞ」と。そして「みなさんで自分たちの地域を見直していきましょう」と。使える予算は300万円。このお金だとあちこちでやるわけにはいかず、1か所に絞って取り組むことにしました。
その舞台となったのが、当時の北上町。(現・石巻市北上町)。後の東日本大震災の津波で、大きな被害を受けたまちです。北上町にお住まいの漁協の方とか女性たちとか、町の企画課長や小学校とか、とにかくいろいろな人たちと同じ立場で、県の方にも同じテーブルについてもらいました。
そしてアドバイザーには、結城登美雄さん(自分たちの地域を変えていく大きなヒントに。【民俗学者・結城登美雄さん】)に入ってもらいました。結城登美雄さんって「地元学」ですごく有名な方で、私は宮城に行くときに結城さんのまとめた報告書を一冊だけ持っていったんです。取り組み期間は二年間しかなかったので、「一緒に仕事をするならこの人」と決めていましたので。北上町でやることになったのも、結城さんの提案を受けてのことでした。結城さんが「じゃあ、宮城県庁の人たちでもあんまりよく知らない北上町でやろう」って。
そこでまずは、北上町の人たちに「北上町ってどういう町でしょうか?」って聞いていったんです。そうしたらみんな「なーんにもねえ」って言うんですよ。「おらほ(私たち)の町にはなんにもねえ」って。私は「何がねえんですか?」って聞いたの。そうしたら「コンビニがねえ」って。私は「コンビニがねえすか。じゃあ皆さん、コンビニがなくても生きていけてるってことじゃねえすか」って言ったの。そうしたら、「あ、そっか!」って言われたんです。
コンビニがなくても生きていけるっていうのは、つまり“何でもある”っていうことなんですよ。それに気付いてもらうために次に結城さんと仕掛けたのが、この北上町にどれぐらい食べるものがあるかを、自分たちで調べてもらうことでした。女性たちと話をしていた時に、あ、面白いなと思ったことがあって、よそからお嫁に来た人が「ここではお金がなくても生きていける」って言ったんです。私が「すごいことですね、それ」と返したら「すごいことかしら??」と言うので、「いやいや、すごいことでしょう!」って。
じゃあ、どれくらい食べ物があるのかって尋ねたら、「食べ物は物々交換している」って言ったんです。海辺のとある家に行ってみたら、一坪ぐらいの冷凍庫があるんですよ。そこにね、イクラから何から全部入っているんですよ。「何にもねえけど」アワビが出てくる。「何にもねえけど」イクラが出てくるウニが出てくる。これって何にもなくないよね!って。すごいことですよ。その海産物を、野菜と物々交換するというんですよね。昔からの物々交換が生きていて、足らないものはそうやって手に入れられる。お金じゃないんですよ。お金で買うわけじゃなくて、モノとモノ。そういうことで生きているんだっていうことが、わかったんですよね。どんどん調べていったら、北上町には400種類ぐらいの食べ物があるっていうことがわかったんです。そのことに地元の方々が自ら気付いてからは、すごかったですよ。「すごいな、おらほの町は!」ってなったんですよ。見直しちゃったんですよ、自分たちの町を。そこからすごかったですね。
やっぱり地域づくりで一番重要なのは、自分たちの町の良さを、自分たちが発見することです。そのきっかけのひとつが、ちょっとしたよそ者、あるいは何かの刺激。今回は私たちがそういうきかっけになったんですね。結局「食育の里づくり」は、その時限りではなくて、そこから5年は続きました。地元の一人ひとりが誇りを持つ。何にもないっ思っていたけれど、何にもなくはなかった。よその人たちも「すごいじゃん」って言ってくれる。各地域の人たちからどんどん手が挙がってきて。「食育の里づくり」は300万の予算から始まったのですが、300万円でもって地域がすっかり変わっちゃったんですよね。
基本は、そこに暮らしている方たち、あるいは豊島区の「FI会議」でいうと在学生だったり、在勤の方も含めて「ここに来ると、こんなことができるよね」とか、「自分たちの意見も反映されるよね」という楽しさと手応え。そういうことを実感できるかどうかじゃないですかね。そこへの行政職員の関わり方は、ただいるだけのお客さんであってはダメだし、相対する存在となってしまってもダメ。お互いに対等の立場として、一緒にこの町をどうするかっていうことを考える主体として、気持ちを通わせる。それができるかできないかっていうことです。
「としま100人女子会」では、区役所の女性管理職がずらっと並んで(当時はずらっというほどは数がいませんでしたが…)、「いらっしゃいませ」とか言って受付けをやっていましたよ。「としま100人女子会」や「としまF1会議」に参加したメンバーたちは、区のいろいろな審議会のメンバーにもなっています。それぞれの地域での活動もしていますね。これまでだったら「意見を聞けって、どうやったらいいの?」となりますが、ワールドカフェ方式の「としま100人女子会」や「としまF1会議」を経験したことでこういうやり方があると知ったわけで、できちゃうんですね。こうしてノウハウが移転していくっていうのは非常によいことで、皆さんそれぞれでやっています。やっぱり手法をきちんと移転しないと。ただ意見をくださいじゃ困るわけで、そのためにどうデザインするかという、プロセスデザインが一番大事だと思っています。
--そのプロセスデザインをするのが、萩原さんの役割ということですね。
萩原氏 「としまF1会議」についてはそのような役割を担ったわけです。その際に役だったのは、宮城県庁での行政経験でした。行政の仕組みについては、住民はあまり知らないですよね。知ろうという気持ちもあまりなかったりする。私もそうでした。宮城県庁に行くまでも、行政のことはほとんど知らなくて、ただ批判することのほうが多かったですよね。「もう!行政って決断が遅い」とか、「なんて優柔不断なんだ」とかって。けれども、自分がいざ県庁に入ってみて「ちょっと待った。ものごとを決定するのは議会じゃん。行政は決定されたことを粛々と執行するから執行部なんだ!」と、まず改めて気づくわけです。つまり議会で予算が決まる2月や3月ぐらいに何か言ったって、全然ダメ。10月までにもう決まっちゃうんだっていうのを実感した。そういう仕組みすらちゃんと把握していなかった。「食育の里づくり」を企画する際も当時の浅野史郎知事から「早く提案を出せ!」と言われたんです。その時は「え?」と思ったんですが「10月だぞ、勝負は」って。だから期間は2年間だったのですが、実質できるのは1年間だけなんですよね。行った時には、その年の予算はもう決まっていて、次の年度の提案をもうとにかく作れという話になった。
それから、やるにあたっては、県庁内部で手を挙げてもらって若い人を集めました。「こういうことをやるんだけど、関心のある人いないか」と。「食育の里づくり」は、環境生活部で、その中でも生活文化課が担当だったのですけれど、課ではなくて部の全体の中から関心のある若手を集めたんです。
そして、結城登美雄さんのところに行って、まず「食育の里づくり」だから、宮城県にはどんな食べ物があるのかを調査。全部、壁に貼り出して、手に入れては食べていって。結城さんからいろいろと教えてもらって、「じゃあ今度はあそこへ食べに行こう」とか。
その後、提案を知事にレクチャーする「知事レク」というのがあって、これは課長がするんですけれど、そのときは「食育の里づくり」の若手の担当者にしてもらったんです。ふつうの知事レクでは課長しか入れないんですけれども、一番良く知っているのは現場で取り組んでいる人たちですよねということで、彼らにやってもらいました。大事なのは、一番知っている人たちは誰なのかということですよ。その知っている人たちの考えと思いを、どう言語化するのか。あるいは概念整理して、理論構築していくのか。一応、私も研究者なので、「これってこういうこと?」とか「こういうことじゃないの?」とか、提案を聞きながら進めていきました。でもそれができたのは、現場の彼ら彼女らが、きちっと調査してきてくれているからであって、そのベースがあったからこそ、進めていくためのシステムをデザインすることができたのです。
ひとりひとりが主役のダイバーシティー(多様性)な地域へ⑤に続きます。