日本中に衝撃 山本五十六長官の死とアッツ島“玉砕”

人々はあいつぐ戦死とどう向き合った?

1943年(昭和18年)5月、2つのニュースが日本を揺るがしました。真珠湾攻撃を成功させ国民的英雄となっていた山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死とアッツ島守備隊2600人の「全員玉砕」です。戦争の前途に暗い影を差す悲報でしたが、その原因は追求されず、「山本元帥に続け」「英霊に応えよ」と戦意を高めるキャンペーンが行われました。

真珠湾攻撃 立役者の死

ソロモン諸島にあるガダルカナル島の戦いで敗北した日本は、ニューギニアやソロモン諸島にある連合国軍の前線に航空機による空襲をかける作戦を展開、劣勢の挽回を試みます。山本長官自ら攻撃拠点となったラバウルに出向き、指導にあたりました。

(参考:ガダルカナル島の戦いについて知る

ラバウルの日本軍の基地(日本ニュース第194号)

4月18日、山本長官は最前線に近いブーゲンビル島南端周辺の基地へ視察に向かいます。苦しい戦いを続ける将兵を激励する目的だったと言われています。山本長官らが乗る2機の爆撃機(一式陸上攻撃機)と護衛の零戦6機がラバウルを飛び立ちました。

ところが、あとわずかで目的地というところで、16機ものアメリカの戦闘機が現われ、2機の爆撃機に集中砲火を浴びせました。山本長官の乗った爆撃機はジャングルに墜落。翌日、軍刀を手にしたままの姿で絶命している山本長官が日本軍の捜索隊によって発見されました。

ブーゲンビル島にいまも残る山本五十六長官が乗っていた爆撃機の残骸

解読されていた暗号

この攻撃は周到に計画されたものでした。アメリカ軍は日本海軍の通信を傍受、暗号を解読し視察のスケジュールを詳細につかんでいたのです。アメリカの情報参謀は「日本海軍は時間に正確だ。ヤマモトは日本の特急のように必ず時間通りにやって来る」と確信したと後に語っています(1982年放送「歴史への招待 日米暗号戦争(1)山本五十六の最期」)。

しかし、アメリカ軍はジレンマに陥りました。山本長官を正確に攻撃すれば、アメリカ軍が暗号を解読したことを日本に覚られ、暗号を変えられてしまう可能性があるからです。ミッドウェー海戦での勝利が暗号の解読によってもたらされたように、情報は戦争のゆくえを左右します。日本海軍の情報を得られなくなるリスクを冒してでも、山本長官の攻撃に踏み切るか、議論となりました。前出の情報参謀は「ヤマモトに代わりうる者はおらず、殺害すれば日本海軍の士気に大きな影響を与えられる」と上官に進言、攻撃が実行されることになりました。

山本長官の死は1か月伏せられ、5月21日に発表されました。ある村では「山本元帥の戦死!!(略)間違いではないか!!」という回覧板が配られるほど衝撃的な出来事でした。

当時のニュースで伝えられた山本長官の死(日本ニュース第155号)

アッツ島の「玉砕」

山本長官の戦死が伝えられた頃、アリューシャン列島のアッツ島では絶望的な戦いが続いていました。アッツ島はアメリカ領で、山本長官が推し進めたミッドウェー作戦に連動する形で1942年6月に日本軍が占領しました。その目的は、北方の守りを固めるというものでしたが、濃霧や暴風、マイナス10度にもなる気象条件の悪さと資材不足から、飛行場建設は遅々として進みませんでした。

アッツ島に上陸した日本兵(日本ニュース第108号)

1943年5月、アッツ島守備隊のおよそ4倍となる1万人あまりのアメリカ軍が島に上陸してきました。弾薬も食糧も不足するなか守備隊は頑強に抵抗しましたが、やがて一方的な攻撃にさらされていきました。島の周辺もアメリカ軍の制圧下に置かれ、作戦を指導する大本営では「アッツにはお気の毒なるもこれに悪アガキをして得る所もなく戦力を消耗しては大変である」といった意見があがります。結局、増援部隊の派遣や補給は行われず、守備隊は孤立無援となりました。

こうした中でも、守備隊の2600人は死ぬまで戦うことを求められました。日本軍は降伏して捕虜になることを禁じていたからです。兵士は銃剣や手りゅう弾を手に、夜間突撃を繰り返しました。

ケガで動けない兵士には自決が命じられ、29日に残った100人ほどが最後の突撃を敢行。守備隊は全滅しました。

尚、27人が意識を失うなどしてアメリカ軍に捕らえられ、戦後に帰国しています(防衛省防衛研究所所蔵「アッツ島陸軍関係戦没者連名簿(附生還者連名簿)」)。

アメリカ軍が記録したアッツ島守備隊の最期

戦死が戦意の高揚に…

山本長官の死、アッツ島守備隊の全滅は、日本軍の置かれた厳しい現実を突きつけるものでした。ところが海軍は、山本長官機撃墜は偶発的な交戦によるもので、暗号は解読されていないと結論づけました。また、アッツ島守備隊の全滅は、補給を軽視した作戦が原因でしたが、大本営の作戦指導が厳しく問われることはありませんでした。

それまで敗北を伏せる傾向にあった大本営は、守備隊が補給を求めずに自ら「玉砕」し、皇軍(日本軍)の神髄を発揮したと、新聞やラジオで大々的に発表しました。国葬や慰霊祭が執り行われ、山本長官やアッツ島守備隊につづけと、一般市民にも死ぬまで戦うことを求めるようになっていったのです。

アッツ島守備隊の慰霊祭(日本ニュース第174号)

23歳の鉄道職員の男性は「容易ならざる戦争の前途」と日記に記す一方で「陛下の捨て石とならん」「若者の血は逆流して邪を挫かんと燃えたつのである」と敵愾心を燃やしています。

その後、アッツ島のように孤立して「玉砕」する部隊が相次ぎました。そして、サイパン島や沖縄で、死ぬまで抵抗することを求められた市民たちが、悲惨な最期を遂げることにつながっていくのです。

参考資料

  • 『山本五十六』田中宏巳
  • 『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>アッツの玉砕』防衛庁防衛研修所 戦史室
  • 『戦史叢書 大本営陸軍部<6>』防衛庁防衛研修所 戦史室
  • 「太平洋戦争における戦意動揺期の民衆意識」川島高峰
  • 小長谷三郎さんの日記

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