原爆が使用されたのはなぜ?どのような被害があった?

原爆は世界のあり方を根本から変えた

原子爆弾(原爆)は1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられました。

ドイツが降伏し日本への投下が決まった

原爆は当初、日本への使用を想定して開発されたものではありませんでした。ナチス・ドイツの原爆開発を恐れたアインシュタイン博士らが、アメリカのルーズベルト大統領に研究を進言、1942年に大統領が開発計画を承認しました。原爆が完成する前にドイツが降伏したため、日本への使用が決まったのです。

広島への空襲を控えていたアメリカ その理由とは

アメリカは投下する都市を絞り込み、広島市が第一目標となりました。当時アメリカは焼夷弾による空襲を行い、東京、大阪から中小都市にいたるまで壊滅的な被害を与えていましたが、広島への空襲を控えました。原爆の威力を測定するために“温存”したのです。

原爆投下前の広島市内(1936年撮影)
(資料提供:広島平和記念資料館 撮影:河崎源次郎 画像の無断使用を禁じます)

8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機が広島市に原爆を投下、上空600メートルで炸裂させました。広島は広大な軍事施設を抱える軍都でしたが、およそ35万人が生活する街でもありました。その人々を、爆風、熱線、放射線が襲ったのです。

アメリカ軍が撮影した広島への原爆投下の映像

至近距離で被爆した中学生たち

原爆がどのような被害をもたらしたのか、ある中学校を例にみていきます。

爆心地から900メートルにあった旧制広島県立広島第一中学校

広島県立第一中学校の1年生の307人のうち、半数のおよそ150人は、原爆がさく裂した地点(爆心地)から900メートルほどの屋外で作業をしていました。強烈な熱線で生徒の皮膚は焼けただれ、全身に致命的なやけどを負いました。さらに、爆風によって地面に叩きつけられたり、飛んできたがれきによって傷つけられたりしました。また、この地点には致死量の放射線が降り注いでもいました。生存できた生徒は1人もいません。

もう半数の150人は、爆心地から900メートル弱の場所にあった校舎で自習をしていました。爆風で木造の建物は押しつぶされ、生徒たちは下敷きになりました。熱線によって、崩れた建物に火がつき、生徒は「お母さん」「天皇陛下万歳」などと叫びながら焼かれていきました。

下敷きになった150人のうち、数十人は何とか脱出し家族のもとに帰ることができましたが、1週間ほど経つと頭髪が抜け、歯ぐきから出血するなどの症状が現れました。建物を通り抜けた放射線が、生徒たちの細胞を傷つけていたためです。白血球がつくれなくなるなどして、免疫機能が極度に低下し、感染症に襲われました。また、全身で内出血が起こって体中に斑点が生じ、腸の内部が崩れるなどして、下血が始まりました。生徒たちは衰弱し、亡くなっていきました。

原爆では、行方不明となった人も大勢います。軍隊、役場、警察、医療機関などが壊滅的な被害を受けたために、いつ、どこで、誰が亡くなったのか、記録もほとんどないのです。広島市の原爆供養塔には、引き取り手のない7万柱の遺骨がいまも安置されています。

(参考:終戦後の広島の映像を見る

被爆の苦しみは一生続いた

原爆を受けた人々の苦しみは、戦後もつづきました。先ほどの中学校で一命をとりとめた1年生は、307人のうち19人でした。孤児となった者、顔にやけどの跡が残った者、原爆の強烈な光で目を傷め医師の道をあきらめた者など、生徒たちの苦難は続きました。心の傷から、明るかった人柄が一変した人もいました。

19人は、生命の設計図と呼ばれるDNAを、放射線によって深く傷つけられていました。1人は高校3年生の時に出血が止まらなくなり、1人は大学4年生で血液の異常のために亡くなりました。30代、40代になると白血病やがんで次々と倒れていき、8人が65歳までに亡くなりました。手術をしても、全身の細胞が放射線によってダメージを受けているために、さまざまな臓器ががんに侵されていきました。十数度の手術を繰り返した人もいます。被爆の苦しみは一生涯つづいたのです。

国によって大きくわかれる原爆投下への評価

原爆投下は、軍事的な目的に加え、戦後の国際秩序を睨んだアメリカの戦略の一環とも指摘されています。アメリカは、ソビエト連邦とともに連合国としてドイツや日本と戦いましたが、特にヨーロッパにおいて戦後の主導権をめぐって対立を深めていました。アメリカは原爆の威力をソビエトに見せつけ、軍事的優位を示そうとしたと考えられています。

また一般市民への無差別攻撃は、当時としても戦時国際法違反として問題視されるものでした。当時の日本政府は「無差別性、残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新なる罪悪なり」「非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」とアメリカに抗議しています。

一方で、アメリカや、日本の統治下や占領下にあったアジアの国々などでは、原爆が戦争を終わらせ、結果として多くの人の命を救った、原爆が日本の支配から解放したと、多くの人が考えています。

戦後、原爆やその千倍以上の威力を持つ水爆が開発され、核兵器を保有する国も増えていきました。こうした中、原爆によって多くの苦難を背負わされた広島や長崎の人々は、「目には目を」という報復や、憎しみを訴えることはありませんでした。むしろ、自分たちの苦しみをほかの誰にも遭わせてはいけないと、「核兵器廃絶」を求めたのです。

被爆者の平均年齢が84歳を超えたいま、広島や長崎の人々の思いをどう受け止め、現実に活かしていくのかが問われています。

参考資料

  • 広島平和記念資料館『ヒロシマを世界に』
  • 広島市役所『広島原爆戦災誌』
  • NHKスペシャル「被爆者 命の記録」(2005年8月6日放送)
  • 国立公文書館アジア歴史資料センター所収「米機ノ新型爆弾ニ依ル攻撃ニ對スル抗議文」

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