太平洋戦争 なぜ開戦したの?
日中戦争が太平洋戦争へとつながり、日本人だけでおよそ310万人が亡くなった
太平洋戦争は、中国や東南アジアへ軍隊を進めた日本と、これに反対するアメリカ・イギリスなどの対立がきっかけで起きた戦争です。1941年12月8日(日本時間)、日本軍はイギリスの植民地であったマレー半島、アメリカ海軍の基地があるハワイの真珠湾を奇襲し、アジア・太平洋の広大な範囲を勢力圏に収めていきました。

この戦争を、当時の日本政府は「大東亜戦争」と呼びました(大東亜は、東アジアから東南アジアにかけての地域を指す)。戦後、日本を占領した連合国は「太平洋戦争」と呼び、その後、この名称が定着していきました。研究者の中には、中国や東南アジアも戦場になっていたことから、「アジア・太平洋戦争」が実態を反映した呼び方だと指摘する人もいます。
太平洋戦争へとつながった日中戦争の泥沼化
どのようにして太平洋戦争へと至ったのか、少し詳しく見ていきましょう。太平洋戦争開戦のちょうど10年前、日本軍は中国の東北部を占領し(満州事変)、その影響下のもと満州国を建国します。その後、中国側とたびたび武力衝突が起こり、1937年ついに中国との全面戦争へと発展しました。

こうした日本の動きに反対したのが、アメリカやイギリスです。両国は中国の国民政府に武器を供与するなどの支援を行い、日本軍の戦死者は増えていきました。日本政府や日本軍は、日中戦争(当時の呼び方は支那事変)が解決しないのは、中国を支えるアメリカ・イギリスのせいだと考えるようになりました。
第二次世界大戦がはじまり日米の対立が決定的に
その後、世界情勢が急変する中、事態はいっそう深刻化していきます。1939年、ヒトラー率いるドイツと、イギリス・フランスとの間で戦争が始まりました(第二次世界大戦)。日本はドイツ・イタリアと同盟を結び、東南アジアの資源を確保するためフランス領インドシナ北部(現在のベトナム)に軍を進めました(北部仏印進駐)。日独伊三国同盟と、イギリス・アメリカとの対立は決定的となりました。

アメリカの経済制裁 そして戦争へ
その後さらに日本がフランス領インドシナの南部にまで軍を進めると(南部仏印進駐)、アメリカは態度を硬化させます。日本に対しフランス領インドシナ、そして中国からの軍の撤退を強く要求し、石油やくず鉄の輸出を禁じる経済制裁を発動したのです。石油の7割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとっては、大変な衝撃でした。経済的な打撃と同時に、艦隊や軍用機が動かせなくなるため、軍事的にも大きな打撃を受けることになるからです。
海軍の作戦計画を担う軍令部のトップは、このまま石油がなくなれば艦隊を動かせなくなるとして「むしろこの際、打って出るのほかなし」と昭和天皇に伝えました。また、日中戦争では十数万の死者が出ていたことから、東條英機陸軍大臣(開戦時は総理大臣)は、「米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ」と、アメリカが求める中国からの撤兵に反対しました(参考:防衛庁防衛研修所『戦史叢書』)。
日本とアメリカは外交交渉をつづけていましたが、1941年11月、アメリカからさらに厳しい要求が出されると、日本側は交渉妥結の見込みはないと判断して、最終的に開戦を決定したのです。

マレー半島上陸と真珠湾攻撃によって戦争を始めた日本軍は、石油を産出するオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するなどして、“自給自足”の体制をつくりアメリカ・イギリスに対抗しようとしました。
日本は戦争の目的として「自存自衛」、ついで「大東亜共栄圏」の建設を掲げました。
(参考:日本海軍が撮影した真珠湾攻撃の映像を見る)
勝利の見通しをもてないまま開戦した日本
戦争を始めた日本でしたが、アメリカ・イギリスの二大大国と戦って勝てるという明確な見通しをもっていませんでした。昭和天皇に「絶対に勝てるか」と問われた海軍軍令部のトップは「絶対とは申しかねます」と返答しています(参考:防衛庁防衛研修所『戦史叢書』)。多くの指導者たちは、日本軍が優勢を保っている間に、ドイツがイギリスに勝利すれば、有利な条件で講和できるだろう、と考えていたのです。
実際には、日本が戦端を開いたことにより、アメリカが全面的にヨーロッパ戦線にも参戦、1941年6月に始まっていたドイツとソビエト連邦の戦争でも、ソビエトが攻勢に転じるなど、日本のもくろみは崩れていきました。最終的には日中戦争も含めておよそ310万人の死者を出し、アメリカなどの連合国に降伏することになります。

参考資料
- 『戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯』防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
- 『昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社
- 『昭和の歴史5 日中全面戦争』藤原彰 小学館
- 『昭和の歴史6 太平洋戦争』木坂順一郎 小学館