真珠湾攻撃とは

日本は熱狂しアメリカは激怒した

1941年12月8日(日本時間)、日本軍はハワイにあるアメリカ太平洋艦隊の拠点を突如空襲しました。これが「真珠湾攻撃」です。そのおよそ1時間前には、イギリス領だったマレー半島(現在のマレーシア)にも上陸、日本はアメリカ・イギリスという大国との戦争に踏み込んでいったのです。

ハワイ真珠湾とマレー半島への奇襲

真珠湾攻撃はアメリカ側の虚を突くための極秘作戦でした。現在の北方領土・択捉島を出航した大型空母6隻を中心とした大艦隊は、航海中に発見されないよう、気象条件の悪い北方の航路を進み、無線の使用も禁止しました。12日後、ハワイの北方426キロほどの地点に到達。空母から攻撃隊が真珠湾に向けて飛び立ちました。

真珠湾にはアメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻など、85隻が停泊していました。日本の攻撃隊は魚雷などで戦艦4隻を撃沈、その他の戦艦・巡洋艦などに大損害を与え、188機の航空機を完全に破壊しました。

虚を突かれたアメリカ側は有効な反撃ができず、死者は民間人含め2402人にのぼりました。アメリカ兵は「手の施しようがないように見えた。皮膚は焼け、重油まみれのぐちゃぐちゃになった傷口からは骨が見えていた。何人かは骨から生肉がぶら下がっていた」とその惨状を証言しています(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1941 開戦」2021年放送より)。

炎に包まれる真珠湾のアメリカ海軍施設(アメリカ国立公文書館)

真珠湾攻撃の1時間前、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍の拠点があったシンガポールに向けて進軍を開始しました。その2日後には海軍が、イギリスが誇る2隻の戦艦を航空機からの攻撃で沈めました。当時のイギリスは、世界中に多くの植民地を持つ巨大な帝国で、この敗北のショックは計り知れないものでした。チャーチル首相は「(戦争中)私はこれ以上の直接の衝撃を受けたことはなかった」と回想しています(ウィンストン・チャーチル『第二次大戦回顧録』毎日新聞社)。

喜びに沸く日本社会

12月8日は月曜日でした。出勤や登校の準備に慌ただしい朝、ラジオから臨時ニュースを告げるチャイムが流れました。「帝国陸海軍は、今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。この後、繰り返し臨時ニュースが流れて大戦果が報じられ、日本社会の空気は一変しました。

(参考:開戦を伝えるラジオの臨時ニュースを聞く

大通りにあるラジオで開戦の知らせを聞く人々(日本ニュース第79号)

開戦前、社会には閉塞感が漂っていました。中国との戦争は4年以上経っても出口が見えず、国内でも食料や生活必需品が不足、中国を支援するアメリカやイギリスに対する不満が募っていました。米英との戦争は、重苦しい空気を振り払う新しい変化と受け止められたのです。

生まれたばかりの子を育てていた30歳の金原まさ子さんは、日記の中でわが子にこう呼びかけています。「血沸き肉躍る思いに胸が一杯になる。(略)しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いで一杯だ。大変なのよ住代ちゃん、しっかりしてね」(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1941 開戦」2021年放送より)

金原まさ子さんと住代さん

一方で、行く末に不安を持つ人もいました。作家の半藤一利さんの父親は「バカな戦争なんかはじめやがって。いったいなにを考えているんだ、この国は」と怒っていたといいます(半藤一利 塚本やすし『焼けあとのちかい』大月書店)。しかし、そうした反戦的な言動は法律で罰せられるようになっていました。「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」などによって、「人心を惑乱」する言動は禁じられました。

“だまし討ち”と激怒したアメリカ

真珠湾攻撃が行われる前まで、日本はアメリカとの衝突を避けるため、日米交渉をつづけていました。攻撃の30分前に交渉打ち切りがアメリカ側に通告される予定でしたが、実際に文書が手渡されたのは真珠湾攻撃後のこと。日本大使館による文書作成の不手際によるものとされていますが、詳しい経緯はわかっていません。尚、イギリスに対しては事前の交渉がないまま攻撃を始めています。

ハワイやアメリカ本土では、日本軍による次の攻撃があるのではないかと恐怖と混乱が広がりました。各地で空襲警報が鳴り響き、食料買い占めなどのパニックが起こりました。

攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は議会で、日本側の通告には「戦争や武力攻撃への警告や示唆はなかった」、日本側は対話をつづけた裏で周到に攻撃を準備していたと激しく非難しました。真珠湾攻撃は「だまし討ち」として、アメリカ国民の激しい怒りを招くことになったのです。一方で大統領は、日米関係の緊張の高まりから、戦争になるおそれを認識していました。ただ、攻撃の日時や場所までは把握できていなかったと、多くの専門家は考えています。

演説するルーズベルト大統領

ヨーロッパではすでに、日本の同盟国であるドイツ・イタリアとイギリス・ソビエト連邦との戦争が始まっていました。真珠湾攻撃を機に、アメリカが英ソ側に加わって「連合国」を形成し、戦場はヨーロッパからアジア・太平洋に広がる文字通りの世界大戦となりました。

東南アジアの大部分を勢力下に

真珠湾攻撃の後も、日本軍の快進撃が続きました。12月25日に香港を、翌年の2月15日にシンガポールを占領、5月までにジャワ(オランダ領)、ビルマ(イギリス領)、フィリピン(アメリカ自治領)と、東南アジアの大部分を勢力下に収めました。

シンガポール占領を祝い全国各地で祝賀行事が催された(日本ニュース第90号)

一方で、戦果の陰には凄惨な現実がありました。マレー作戦に従軍し、重傷を負った陸軍第五師団所属の三好正顕中尉は「負傷患者達はあちこちよりうめき声盛んにきこゆ。自分の隣に並んで収容されていた兵も「お母さんお母さん」と唸って居たが夜半頃は動かなくなった」と記しました(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争 1941 開戦」2021年放送より)。また、シンガポールでは、多くの中国系の住民を「抗日分子」として殺害したと、戦後に元憲兵が証言しています。しかし、こうした現実が国内の人々に伝えられることはありませんでした。

三好中尉は「何とか早期に平和が訪れないものであろうか」と願いましたが、戦争はその後4年近くつづき、多くの将兵たちが飢えや病とも戦いながら、命を落としていきました。そして、銃後の人々も戦火にさらされることになるのです。

参考資料

  • 『戦史叢書 ハワイ作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
  • 『戦史叢書 マレー進攻作成』防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
  • 『昭和の歴史6 太平洋戦争』木坂順一郎 小学館
  • 『太平洋の試練 上』イアン・トール著 村上和久訳 文藝春秋
  • 『アジア・太平洋戦争』吉田裕 森茂樹 吉川弘文館

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