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歌に生きて 淡谷のり子の素顔

発見!あおもり深世界
  • 2023年12月28日

ブルースの女王・淡谷のり子は毒舌だった!?

連続テレビ小説「ブギウギ」の茨田りつ子のモデルになったのが、「ブルースの女王」こと、 
青森市出身の歌手・淡谷のり子です。

NHKでテレビ放送が始まった1953年(昭和28年)、すでに歌謡界の重鎮になっていたのり子は、第4回紅白歌合戦に初出場、そしてトリをまかされます。

85歳まで歌手活動をつづけながら、多くのテレビ番組にも出演。 
その歯に衣着せぬ物言いは、のり子のトレードマークにもなっていきました。

長年、のり子さんと交流があった美川憲一さんは 

「それがひとつの自分のカラーだから、毒を吐くことでみんなが喜ぶということがわかっていらしたのよ」

と語ります。

 

実家は青森市の呉服店 子どものころから“からきじ”

淡谷のり子さんは青森市の中心部で生まれ育ちました。青森県立郷土館の学芸員 太田原慶子さんにのり子の生家があった場所を案内してもらいました。

太田原慶子さん 
「寺町、お寺さんがあって、その前あたりに呉服屋さんが何軒かあったとは言われているんですけれども、のり子の大五阿波屋はこのあたりにあったといわれています。従業員は30人から40人いたという風に記録されています」

のり子の実家は、市内で1、2を争う大きな呉服店として知られていました。 
裕福な家庭に生まれたのり子は、何不自由なく、ぜいたくな幼少期を過ごしました。毎日、用意される重箱には、チョコレートやマシュマロなどの高級菓子が入っていました。菓子がそろっていないとすぐに機嫌を悪くしたといいます。

淡谷のり子/1992年放送「歌に恋して85年」より 
「うちは呉服屋でしょ、芸者さんとか半玉さんが買い物にくるでしょ。まあぁ眺めていましたね。かわいいしね、芸者さんはきれいだし、半玉さんもかわいくてね。自分でなりたいと思いましたからね」

のり子が3歳のとき、未曽有の火災が青森市を襲います。青森大火です。強い西風にあおられて、4500戸以上が被災。のり子の実家、大五阿波屋(だいごあわや)も焼失してしまいました。実家は災難に見舞われましたが、のり子は無事、女学校に進学することができました。

太田原慶子さん 
「ここはのり子が通った学校の跡地になります。こちらに青森県立青森高等女学校、ここがのり子さんがかよかった女学校の跡地。そうなんですよ」

現在「リンクステーションホール青森」がある場所にあたります。 
ここに、かつてのり子が通った青森高等女学校がありました。         
高校生になったのり子は、革靴にはかま、という当時最先端の格好をし、自分のスタイルにはとことんこだわるタイプでした。

淡谷のり子/1992年放送「歌に恋して85年」より

アナウンサー「なかなか芯の強いお子だったそうですね?」

淡谷のり子「芯が強いというか、“からきじ”。これは強情っぱりの上ですよ。強情っぱりはね、ある程度、強情をはっても妥協性があるんですけれども、“からきじ”というのは最後まで妥協しないそうです。それを通すんだと」

 

親子3人で上京 貧困、震災を乗り越え流行歌手へ

1923年。のり子の母、みねは子どもたちを連れ、突然上京します。実家の再建がうまくいかず、父との関係が悪くなってしまったためでした。母のすすめで、のり子は東洋音楽学校に入学。ここで初めて本格的に音楽を学び始めます。ところが入学から半年、関東大震災が起きます。家は無事でしたが、母の収入が途絶え、暮らしは行き詰まります。

淡谷のり子/1979年放送「お達者ですか」より 
「二年ぐらいは大丈夫かなと思っていたら、蓄えがもう半年でないんですものね。いちばん貧乏したときは二十日間ぐらい米粒が口に入りませんでしたね。よく生きてこられたなと思いますね」

さらに妹・とし子が栄養失調のため失明の危機に陥ります。のり子は治療費と学費を得るため、ある決断をします。ヌードモデルです。当時では考えられない行動でした。

淡谷のり子/1983年放送「とっておきショータイム」より 
「母を稼がせる、働かせるというのがとっても嫌で、それで親子3人で死んだほうがマシじゃないのって、母と妹と3人で死んだ方がいいんじゃないって言ったんです。ところがね、死ぬ気だったら何かできるとこう思ったんですね。それで裸になったんです」

1929年、のり子は大学を首席で卒業。10年にひとりのソプラノ歌手と呼ばれました。   
しかし、家族を支えるため、稼ぎのいい流行歌手の道を選びます。この選択はその後、のり子を苦しめることになります。当時、流行歌手は世間からさげすまれ、「鑑札」という営業許可書がないと人前で興行できない仕事だったのです。

淡谷のり子/1979年放送「お達者ですか」より 
「(鑑札の)遊芸稼人・八等技芸士、本当は屋根のあるところではできないんだよというような感じです。大変バカにされましたね。だから、(音楽大学の)名簿から除外されました」

 

“別れのブルース”ヒットの背景

1937年、ある歌が発表されます。「別れのブルース」です。ところが、発売当初はまったくと言っていいほど売れませんでした。同じ年に盧溝橋事件を発端として、日中戦争が勃発。時勢に合わせた、国民を鼓舞するような歌が求められ、ブルースのようなセンチメンタルな曲は避けられたのです。

この曲をてがけたのは、当時、新進気鋭の作曲家だった服部良一です。 
この曲のため、わざわざのり子を起用。ヒットをねらった肝いりの新曲でした。

服部良一/1975年放送「ビッグショー」より 
「一年半くらいは結局流行らなくて、やっぱり僕の企画はダメだっだと思ったら、ぺロケ・ダンスホールというのが大連にあって、向こうで別れのブルースをしょっちゅうやっている、それから長崎、神戸、横浜に上陸した。1年半ぐらい港々を」

どうして「別れのブルース」は戦地からブームが始まったのか?ブギウギの風俗考証を担当する、日本大学の刑部芳則教授に聞きました。

日本大学・刑部芳則教授 
「別れのブルースの中のフレーズに “二度と逢えない心と心”ってのが出てくるんですね。これを隊員たちが聞いたときに、これが今生の別れだと、自分の母親だとかあるいは妻だとか恋人だとか娘だとか もう二度と会えないんだと。国のためにこれで散っていくというような そういうような最期の別れのブルースと言うような形で聴いたんじゃないかなと思いますね」

 

モンペは拒否 歌で送った特攻隊員

日中戦争・太平洋戦争の時代、連続テレビ小説「「ブギウギ」でも描かれているように、ぜいたくは敵だとされ、華やかなファッションは街から消えていきました。

淡谷のり子/1979年放送「お達者ですか」より 
「絶対モンペ履きませんでした。せめてステージのときくらいね、お聞きになっていらっしゃる方たちもね、夢をもっていただきたい、そのときだけでも心配ごとでもなんでも、嫌なことでも忘れてもらいたい。私はね、とにかく歌うたうためには、いろんなことを犠牲にする女だから、あなたがたが何とおっしゃってもね、その言葉は私の耳には入りません。ずいぶん言われましたよ。とにかく反発しましたわよ」

淡谷のり子/1992年放送「歌に恋して85年」より 
「特攻隊のときだけは、わたし初めて舞台の上で泣きました。行ったらね、固まっている兵隊さんがいたんですよ。固まっている兵隊さんを見て、ちょっと不思議なんですね。子どもさんじゃないかと思って、あれは特攻隊で命令が来たら飛びますから、平均年齢が16歳ですって、みんな白ハチマキしてね、はぁ~命令が来なきゃいいなと思って、歌っている間に来たらごめんなさいって言うんですよ。来なきゃいいですねと思っていたら、来ましたね。すっと立っていくのかと思ったら、その兵隊さんが笑顔で私にこうやって、あいさつしていなくなる。そのときくらい悲しいと思ったことはないですね。二度と再び帰らないと思ったらもう胸がせつなくて歌えなくなっちゃって、ちょっとまってください歌わせてください、待っていただいて、それで(歌って)送り出しました」

 

淡谷のり子の素顔

のり子の素顔を知る数少ない人物がいます。おじの淡谷悠蔵です。 
元国会議員で、文学者でもあった悠蔵とのり子はまるで実のきょうだいのような関係でした。 

のり子が50歳のとき、悠蔵が代筆するかたちで、初の自伝が出版されました。 
最後の章に、語りかけるような文体でこう書かれています。

ああ、淡谷のり子よ 
気が弱いくせに、負けず嫌いで、 
お人よしのくせに、意地わるだ。 
辛いこと、悲しいことが重なって、 
なきたくなっても、 
人前ではふざけてみせる。 

お前は切ないあまのじゃくだ。

悠蔵の娘、三野亜沙子さんは、これは悠蔵からのり子へのねぎらいと励ましの言葉だったと考えています。

悠蔵の娘・いとこ 三野亜沙子さん 
「実はこの本は私の父が書いたわけです。いよいよ完成するときになって最後の章にきたんです。そのときはたまたままた私も居たんですけれども、のり子さんが泣いたんですよ。私はびっくりしてしまった大人が泣くのは初めて見ました。当たってたんじゃないですかやっぱり書いてあることが。必死にこらえて生きてきたんでしょうから」

もうひとり素顔ののり子を知っている人がいます。30年以上のり子と親交があった歌手の美川憲一さんです。

歌手・美川憲一さん 
「内面はとってもかわいい人でした。 少女のようなそういう気持ちもある人でした。でも仕事場に出たら淡谷のり子でいなきゃいけない、微動だともせずに戦う精神につもりで歌っていらっしゃったと思う」

1996年、美川さんたちが企画してのり子の米寿を祝う会がひられました。療養中だったため歌手活動は控えていました。最後、みんなでのり子が好きだった「バラ色の人生」の大合唱となりました。マイクを向けましたが、それを避けるような合図を見せます。お客さまには、きちんとした歌を聞かせるべき。歌手・淡谷のり子のプライドでした。

すべて歌のためだけに生きてきたのり子。のり子を支え、自身も最も大切にしていたのが、家族でした。中でもひとり娘の奈々子さんは特別な存在でした。そこにはこれまで明かされてこなかったある事情がありました。実は奈々子さんは、望まない出産をした学生時代の友人の子どもでした。奈々子さんは、のちに親戚から本当のことを知らされますが、のり子は決して真実を明かしませんでした。

のり子のいとこ・三野亜沙子さん 
「似てないでしょ のり子さんと奈々子さん。奈々子さんは美人だし。お友達の娘さんです お友達の娘さん引き取ってそれであの育てたんですね。やっぱりのり子さんにとっても拠り所だったんじゃないでしょうか、精神的な。 一方的に奈々子さんを支えてね育て上げるっていうのじゃなくてやっぱり核のようなものだったんだろうと思います」

歌手・美川憲一さん 
「内面は本当に繊細な方だから 自分で悩めること悩むこともたくさんあっただろうし そういう意味では、その戦いだったんじゃないかな、寂しさと強さ、弱さを見せちゃいけないっていうものが淡谷さんの中にスタイルとして出てきたんだと思う。だから別れのブルースとか雨のブルースとかがヒットしたのは、淡々と歌うその強さの中にせつなさが出てきたんじゃないですか」

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