ブギウギ「茨田りつ子」のモデルって誰?(前編)
- 2023年11月10日
現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」。
この中で、主人公・福来スズ子の生涯のライバルとして登場するのが菊地凛子さん演じる「茨田りつ子」です。
モデルとなったのは、青森市出身の歌手で“ブルースの女王”とも呼ばれた「淡谷のり子」さんです。
その生涯は、どのようなものだったのでしょうか。
2007年放送のクローズアップあおもり「津軽 じょっぱりの歌姫」の放送記録などから、青森から東京で歌手デビューするまでの前編と「別れのブルース」がヒットして以降の後編に分けてお伝えします。
青森大火で一変した人生
明治40年(1907年)8月。
青森市で1・2を争う老舗呉服屋の長女として生まれた淡谷のり子さん。
祖母のちょう愛を受けながら育ちました。
しかし、淡谷さんが3歳の時に、「青森大火」によって、淡谷さんの家は跡形もなく焼き尽くされ、家業は倒産してしまいます。
再建を試みるも放とうを続ける父に淡谷さんの母が愛想を尽かし、母と妹と淡谷さんの3人で、東京に出ることになります。
歌手で生きる決心
東京では画学生だった母の弟を頼っての借家暮らし。
質屋に通いながらの貧しい日々が始まりました。
それでも母は、娘たちに自立する女性になってほしいと学校に通わせました。
母のすすめで淡谷さんには大正10年(1923)名門・東洋音楽学校(現:東京音楽大学)に入りました。
毎日のように耳にする一流の歌手の歌に、淡谷さんの心は大きく揺さぶられます。
「私も歌で感動を与えたい」
歌手として生きていくことを決断し、ソプラノを極めようと猛練習に打ち込みます。
しかし、家計は厳しい状態が続いていました。
ついには、一緒に暮らしていた妹が栄養失調が原因で目の病気を患い、失明の危機に陥ります。
淡谷さんは、家計を支えようと誰にも相談せず、絵画のヌードモデルになりました。
羞恥心を捨て、妹のために1年間モデルを続けたといいます。
戦争の足音 流行歌手への道
昭和4年(1929)、淡谷さんは、音楽学校を首席で卒業。
ソプラノの腕前は10年に1人の逸材と噂されるほどずば抜けていました。
しかし、貧しい生活から抜け出すことはできません。
クラシックの演奏会だけでは十分な収入が得られず、淡谷さんは、悩みながらも高い収入が得られる「流行歌手」への転身を決意します。
流行歌手は当時、“色物”とさげすまれていて、音楽学校の卒業名簿からも、淡谷さんの名前が削除されたといいます。
淡谷さんは多数のレコードを発表し、流行歌手への道を進みます。
しかし、この時代に、満州事変や二・二六事件が起こるなど、時代が大きく揺れ動いていました。
ぜいたくは敵だと女性にはモンペやはかまなど、質素な身なりが奨励されました。
淡谷さんはそんな風潮に真っ向から反抗。
真っ赤な口紅と青のアイシャドウを塗り、客を喜ばせたい一心で舞台に立ち続けました。
そしてデビューから8年、30歳となった淡谷さんは、歌手人生を大きく変える曲と出会うことになります。
(写真提供:青森市ほか)