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ブギウギ「茨田りつ子」のモデルって誰?(後編)

  • 2023年11月10日

「窓を開ければ 港が見える・・・」

「別れのブルース」。
日中戦争が始まった昭和12年にリリースされ、当時としては異例の65万枚の大ヒットを記録しました。戦時中には似つかわしくない哀愁を帯びた音色の曲です。

連続テレビ小説「ブギウギ」でもこの曲が登場。
ラジオから流れた歌を聴いて、主人公・福来スズ子は「なんでかわからんけど、ビリビリきた」と、歌手としてさらなる高みを目指すきっかけとなりました。
この曲を歌う「茨田りつ子」のモデルとなったのは、青森市出身の歌手で「淡谷のり子」さんです。
前編では、青森で生まれて東京で歌手となるまでの人生を振り返りました。
後編では「淡谷のり子」さんの「別れのブルース」との出会い以降の人生について、お伝えしていきます。

淡谷さんは、「別れのブルース」の譜面を見て驚いたといいます。
ソプラノの腕前は10年に1人の逸材といわれた淡谷さんですが、これまで練習したことのない低い音が、曲のあちこちにちりばめられていたのです。

この曲を作曲したのは、音楽家の服部良一さんです。
戦後に大ヒットした「東京ブギウギ」など数々の名曲を生み出した服部さん。「ブギウギ」では、草彅剛さん演じる羽鳥善一のモデルです。
はじめは歌うことを嫌がった淡谷さんですが、服部さんの度重なる説得に負け、歌うことを決断。哀愁ある声を出すため慣れないタバコを吸い、この曲に挑みました。
人気に火をつけたのは、満州に赴いた兵士たち。
兵士たちは、この「別れのブルース」を口ずさみ、遠くふるさとに残した母親や愛する人に思いをはせたといいます。

屈辱の懐メロ歌手時代

戦後「淡谷のり子」の名は、全国に知れ渡りました。
ラジオの普及と共に、淡谷さんは大スターの地位を不動のものにします。

しかし、1960年代に入ると流行歌手の活躍の場はテレビへと移り変わります。振り付けなど見た目が重視され、誰もが歌えるような簡単な歌が求められました。本格的な声楽を身につけた淡谷さんに新曲を要請するレコード会社はなく、テレビの出演要請は懐メロ番組ばかり。大きな屈辱を味わいます。

「もう一度新曲を発表して、歌い手としての力を見せたい」

そんな淡谷さんと思いを同じくする作曲家が現れます。
「見上げてごらん夜の星を」などの作曲で知られる「いずみたく」さんが、レコードの企画を持ちかけてきました。
いずみさんは、誰もが歌える流行歌ではなく本物の歌が聴きたいと、淡谷さんに白羽の矢を立てたといいます。

生涯歌い続けた人生

1か月かけてレコーディングしたアルバム「昔一人の歌い手がいた」。
作詞は、阿久悠やサトウハチローなど第一線で活躍していた12人。それぞれが淡谷さんのために1曲ずつ書くという異例のスタイルとなりました。
当時64歳だった淡谷さんは、このアルバムが評価され「日本レコード大賞 特別賞」を受賞。その後も新曲を出し続け、生涯歌い手としての歩みを止めることはありませんでした。
全国各地で行われたコンサートのタイトルは「津軽情っ張りコンサート」。
80歳を過ぎても舞台に立ち続け、歌にすべてをささげました。
淡谷さんは、平成10年(1998年)に青森市名誉市民となり、その翌年、92歳で亡くなりました。

最後に淡谷さんのお気に入りだったことばを紹介します。

「唄ありて喜びあり 唄ありて涙ながす 我が生けるをただ唄にのみ知る」

(写真提供:青森市ほか)

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