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#1 観音像からたどる青森空襲の記憶
編集部
2023年09月28日 (木)

青森平和観音像とは
青森空襲の戦災者の慰霊と平和への願いを込め、1948年7月28日に建立された観音像。青森空襲当時の金井元彦県知事が発起人となり、多くの市民からの寄付で、弘前市出身の木彫家・三国慶一さんが制作した。
当初は国道ロータリーに建立されたが、交通量増大により、1964年に現在の柳町グリーンベルトに移転。1993年には観音像の腐食などのために撤去され、1998年に2代目の青森平和観音像が再建立された。現在も7月28日の青森空襲の日に、供養大祭が行われている。
青森空襲とは
1945年7月28日の夜、米軍B29爆撃機61機が約8万3000発の焼夷弾を青森市中心部に投下し、約1万5000戸が焼失、1000人以上が犠牲となったとされる。罹災者は約7万人と、北東北最大の被害が報告されている。
7月14、15日に米軍艦載機が青函連絡船や軍事施設を攻撃し、多くの市民が郊外へ避難・疎開をする。市民の避難を禁じる防空法に基づいて、青森市は「7月28日までに自宅に戻らなければ、物資の配給停止する」と発表。空襲前日に米軍が撒いた、6万枚の空襲予告のビラも、憲兵隊や警察によって読むことを禁止・回収された。こうした経緯が被害を大きくしたと考えられている。
また、青森空襲で使用されたとされる黄燐を含む新型焼夷弾M-74は、日本家屋を突き抜けるように頭部を重くし、発火しやすく、水をかけると飛散するようにできていたという。そのため、バケツリレーなどの防火訓練は全く役に立たなかった。当時の知事の報告書によると、犠牲となった約8割の人は、庭先や通りに作った防空ごうに逃げ込み、亡くなった。
証言者プロフィール
鳴海廣(なるみ・ひろし)さん
- 1936年
- 青森市で生まれる
- 1942年
- 新町国民学校入学
- 1945年
- 青森市で空襲に遭う
- 父親の実家がある森田村(現つがる市)に疎開
- 木造町(現つがる市)に引っ越し、向陽国民学校に転入
- 青森市へ引っ越し、古川国民学校に転入
「証言」の閲覧に際しては、以下の点について十分ご理解し、ご了承いただいたうえで閲覧してください。
・「証言」は、その方が戦後78年を過ぎた時点での知識と記憶に基づいて語っていることを収録したものです。そのため、記憶違いやあいまいな点が含まれている可能性があります。
・「証言」の中には、現在では適切ではないとされる表現が含まれている場合がありますが、修正などはせずにそのままにしてあります。
戦時中の食べ物について
食べ物っていうのは、結局さつまいも、それからじゃがいも、かぼちゃ。全くふだん、生活に一番、身近な。これが結局全て。そういうのばっかり食べてきた。
でも今振り返ると、僕意外と食べものは、普通の人よりもちょっと豊富な気がするな。
物がどんどんなくなってきて、それでも僕はまだ生活の中で食べられるものを、例えばさつまいもにしても、こういったのが。
思い出してみると、意外とみんな食べられない人が多かったみたい。そんな気がするな。
やっぱり子どもだからね、食べられればいいみたいな。例えば、とうもろこしってあるとね、もう大好物なんですよ。
それはまだ青森では、みなさん自分たちが畑でね、作っているから、僕の名前が出ると「あれはとにかくとうもろこしが好きで、キミが好きでなぁ」ってみんなが覚えてたから。
物少なくなると「おう、ひろちゃんとこへ持って行け」っていうくらい、周りの人が知っていたみたい。特にとうもろこし
ディレクター)近くに住んでた人からもキミのおすそ分けがあったりしたんですね。
そうですね。ありましたね。
青森市から疎開をしなかった理由
ほとんどみんな、その(空襲の)前でみんなね(疎開した)。でもあのときね、おふくろとね、あれなんで(疎開しなかったん)だろうな。僕も「いいんだそれで」と思ってるし、子供心にね。
でも普通の連中みんないないわけ。だんだんだんだん。だからクラスにいなくなってきて、友達いなくなってきて。
でもおふくろもね、意外とそういうの積極的じゃなかった。できるだけ、やっぱりまだ空襲にはなってないけど。「青森、どうなるか分からないかもしれないけど、人間ってどう死ぬか分からないもんだ」とかなんとかって母が言った気がするので。
だから意外と母は、楽観視といったらおかしいけど、さあ疎開しようという気はなかった。で、かえって疎開した場合に、あんな田舎に行って不便なところなら、今まで生活した場所にいた方が、まだいいやって。
防空ごうについて
隣組という近所の人が、これ国の指導なのか、住んでいる家の向かい側、空き地だったの。建物疎開しちゃって。とにかく万が一大火があったら全部、全滅なっちゃうってんで、そこはやっぱり空き地にしようって。
それで、そこのちょうど向かい側にね、穴を掘ったんです。どのくらいかな。あれ写真ないかな。ほんと今考えても。
子供心にね、「待てよ。こんなもの堀ったって、焼夷弾とか爆弾きたら、ひとたまりもないんじゃないかな」と。ところがその当時はみんな大人は、「はいはい」って必死だったんだね。
だからとにかく、1メートル、3メートルくらいの長さと、2メートルくらいの長さの穴を堀った。ところが、水が漏れてくるじゃないですか。
で、実は穴を掘って、そこに爆弾が来たら隠れなさいと。それが国の指導なのか分かんない。それはみんなやんなきゃだめだもんね。
それだけでも、僕は子供心に「なんでさ、こんなところでは、すぐ死ぬわ。逆に」って。俺だったら逃げて、どうなるか分かんなくても、まだ逃げた方が。子供心にも分かる。「まだ逃げた方が有利だわ」って。で、母もね「まあ、そういう作ったら作らせておけよ。入んなくていいから」って。
ところが、無理して入らなきゃだめだって言った。「じゃこの、漏ってる水はどうすんだ」ってなるじゃない。ところがああいう時代だもんね。「それでもその中に入りなさい」って。
とうとう僕らは入らなかった。母と。でもその日になっては、そこまでは行った。一応。形だけ。そうそう形だけ。で「来たら逃げろ」と。「この人たちはもうダメだ」って。もう、そういうくらい。なんかうまく言えないんですけど。そういうのがあった。
で、そのとき思った。大人、なんでこういう風な「違うんだよ」って言っても、理屈で「違うんだ」って言っても、それでも理屈をつけて「いや、これは国で決めたことだから。」
ああ、人間ってそういう風になっていくのかなって。そういうのは僕、子供心にね、やっぱ嫌だなって。逃げるとかなんとか、自分しかないじゃない。母としゃべったことあって、母もそうだった。
米軍が撒いた空襲予告のビラについて
そういえば僕も見たな。母がこうやって見せてくれた。「こうしてまた(空襲が)来るんだって」とかって。
でも「今回これ本当かも、ほんとっても、なんか危ねえって感じだな」って、僕言ったような気がする。だから、ゲートルを巻いて、すぐ来たらさっと逃げるような格好を、そのときはじめてしたんだ。
珍しく母がね、予告してね。「とにかくそのゲートルを巻いて、寝なさい」って。「え、でも履いてるズックさ、畳の上で、布団があって」「布団から足出していいから、蚊がいるから」って。「家汚れてもかまわないから、それで寝なさい」って。これ正しかった。
はじめてだった。そういうことね。だから意外と、慌てずにスムーズに出られた。普通の人はみんなもうごちゃごちゃと慌ててやって、相当亡くなってるんだもん、そういうことで。助かるのが助からなかった。それがひょっとしたら、このあたりの、青森の空襲のあれかな。
空襲時の記憶
青森のここ(観光通り)まっすぐ行くと海ですよね。そこの海岸の方からね、今の観音のところ(柳町通り)ですか。あの辺にみんな逃げてくるわけ。僕はそこにいて見てるわけ。
そしたらみんなね、目の前の川に入って、布団、大きい布団をぬらして、そしてあがって、ずっと僕の方へ逃げてくるわけ。
でも俺そこまでやる必要はないと思って。だからその人たちにとってはそうじゃなかったんだね。それくらい、海の方から、海岸からまっすぐ逃げてくる。
その落ちてくる爆弾が、その焼夷弾っていうので。もう、みんな焼けてんだね。それで思い余って川に入ってぬらして、掛け布団とかをかけてぬらして、それでまたあがって、それで、僕の方向に逃げてきた。
で、まっすぐ東北線まで逃げて。僕もまっすぐ東北線の方まで。その線路、二本あって渡って、それで田んぼです。田んぼ伝いにまっすぐこう逃げていって。
空襲があって、逃げて、そして、ごちょごちょしてこっちへ「堤川が向こうだ」って言うので、堤川に向かって逃げてくる途中にでも、またみんなもうピリピリピリピリ、神経がね。だれでも全員、青森の人は。
そうすると、とにかく堤まで行こうと思っていて、大人について行くんだけども、途中で「あ、また来るんじゃないか」ってみんなね。
それでちょっとこの付近に避難したりして。何回も避難したな。ちょっと歩くと「あ、また来るんじゃないか」って。それで「違った」ってまたこう歩いて行く。
今の筒井小学校だよね。そうそう。結局そっちに逃げたんですね。それで、もし残ってる、生き残ってる、どうだったか分からないけど、とにかく「あなたの地域の人は筒井小学校の校庭に集まりなさいって言われてた」とおふくろが言って。
筒井小学校のところに来た。みんなもうぼう然として、なにも言葉も出てこない。
僕も黙って。「ん?あの、半分燃えてしまったような、柱みたいなのあるんだけど、あれ、柱じゃないんだ。人なんだ」っていうこと。あの強烈なことが、どう説明しようかな。
みんなおなかはすいてるわけだ。ね。ところが、確かにそこの地域の人達はみんなにね、おにぎりを持ってきたわけ。
それで「あそこの、なんで焼けた柱が立ってるんだろう。これもまた誰かが持ってきたのかな、もったいなくて」とかって単純に思ってた。
ところが、そのちょっとそばなんだけど、ま、おにぎりいただいて僕もね、「どうもいただきます」ってこう、「あ?」。あって口開けたら、実はその焼けただれた木だったものが、人だったんですよ。
あれ強烈だったな。人だったんだよな。
だからどうして分かったかというと、パクっと口を開けたじゃないですか。口の中ってきれいなんですよ人間。本当にそう思った。
僕「え、あれ人だ」って分かったわけ。それくらいその人も焼けただれているわけ。みんなそうで、僕もそうなんだけど。でもまだ、僕は軽い方で。その方はもうほとんどね。だってもう分からない。人に見えなかったもの。ただ「ただれてる材木かなんか、これ使うんだろうな」って思ってて。
そう思ったのが、パクって口あけて、真っ白いごはんだからね。あれは鮮明に覚えてるな。「え、あれは人だ」って分かったあのときの。ああいうことって、経験できることではないなっていうか。
今でもね、これはほんとに忘れたころに出てきます。あまりにも強烈で、僕にとって。
ディレクター)そのときは、その小学校からおにぎりの配給があったんですか?
おにぎりはね、そこの地域、今言った学校のね、小学校の人たち、近所の人が、「こうして、ここに逃げてくる人たちがありますから、ここのごはんはあなたたちが炊きだしを用意して」って言ってたらしい。
でもどれだけ来るか分かんないけど、でも一生懸命やっている。それは僕もね、あのときの光景というか、とても言葉じゃ言えないくらい、みんなもう一生懸命だったな。
青森駅から3キロほどの提橋まで戻った時の光景
え、青森、あれ青森駅。目の前に青森駅があるような気がするんです。それくらいこれ全部いっちゃったわけ。青森。
まさかと思って、あれ、あれ青森駅、ほんとに違うだろ。青森駅ったら相当遠いはずだ。子どもの頃は特にね。ところが目の前にある。それくらい青森が焼けて。
そのとき、ここの国道を堤橋からゆっくりこう来たんです。そのときに、ほとんど焼かれた子どもとかね、母親がおっぱいやって、そこをかばっているとか。僕と母と2人だったんだけど、そこ通らなきゃ行けなかったっていう。
で、ずーっと来たらそのとき、子供心に涙出てるんだよね。どんどんどんどん。それを今思い出してね。それが僕にとっての最大の青森の空襲のあれかな。
家に戻ってからの生活
とにかく母と、焼ける前の家のところまで戻ってきた。そしたら、母の兄が、僕のとこの伯父ですね。幼稚園をしてたんですよ。当時ね。
だけども、もう当然だめになっちゃったけども。すぐそばだったんで、幼稚園が。「ひょっとして兄貴いるかもしれない」って母がね。それで兄貴の方に、場所分かるからって言うので僕と二人行ったら、たまたま、いたわけです。
なにしてたかと思ったら、焼けてしまったのに、トタンなんですよ。焼けただれたトタンは残ってるから。そのトタンをね、たたいたりして伸ばしてるんだよね。
なにするのかなと思ったら、そのトタンを、その日はそこに寝なきゃだめだ。だって屋根もない、雨降ったらどうしようってこともあるんだろう。でもその伯父は、そのトタンをね、どうだったんだっけな。立てておいてね、別のトタンをただかぶせてね。それで、伯父の方が、家族が6人、私と母だから、8人。そのトタンの、どうやったんだっけな。ま、とにかく寝たんですよ。あれは覚えてた、寝たの覚えてるな。
でも「万が一雨降ったらどうしよう」。まだ暑い頃で雪はないからいいんだけど。「雨降ったら起きてるしかねえな」って、うちもね、言ってたんだけど。
そしてそこに、3日、4日ぐらいいて。その間に伯父たちは奥さんの方の実家、ここじゃなかったんだよな。そっち行っちゃったわけ。それで今度、ぼくと母とが残ってて。2人で、父が森田ね(父の実家)、当時は森田村、そこへやっぱり行こうってなって。それで行ったんですね。
*鳴海さんの父は出征し、母親と二人暮らしだった。
でもね、1週間もいたかな。やっぱりなんとなく、気まずい思いがあって。親父がいれば別だろうけど、ね。まあ親父の兄貴とか妹とかがいたんだけど、そりゃあ僕もね、みんな気を遣ってくれてるんだろうけど。
でもやっぱりこう、母としてはなんとなくやっぱり迷惑かけちゃうってんで、一週間ほど我慢していたと。で、隣の町の木造。木造町にね、部屋を借りることにして、木造の町へ行った。
その木造小学校に結局1週間くらいいたんだね。だから木造小学校には入ってるわけ、ちゃんと。で、そのあと、1週間くらいいたんだ。そのあと青森へ来るんだけど。そのときはね。
(青森市の小学校では)ござならまだぜいたくなほうで、むしろですね、むしろってご存じ?今でもあるんじゃなかったか。むしろ。
ござはまだこういうござなんでね。これぜいたくなんですね。むしろってのはただ、あれなにでできてるんだろう。ほんとになんとか座れる、形で座ってるっていう。
そういうところに座りながら、たまたま雪が入ってきても、そこで授業をしてたっていう。あんまり入ってくると授業中止って。みんなそれが内心「もっと降れ」って。
子どもだもんね。これ思い出したな。そうだ。そんなことって今の子たち考えられないよな。なんかほんと映画を見ているみたい。
ディレクター)じゃあ雪が入ってくる中で授業を受けていたんですね。
ええ。そうです。雨風当たり前に。
平和観音像の建立について
(家の)目の前だったから。一番最初ね、国道のど真ん中に作った。ロータリーというね。すぐそばだったから、なにやってるんだろうと思って。(観音像を作っているところを)とにかく見にいっているね。それは分かる自分でも。見にいっているのは。
ディレクター)それ見たときに、どういう気持ちで見てらっしゃいましたか?
子どもだから、戦争の終わったあとの神様かな、みたいな。で、その人が今度、ここに建つことによって、市民を守っていくというか。
子どもでもそういうふうに、僕は「ああ、そうか。この人(観音様)のこういうのがあって、市民を守っていくんだろう」って。
だから、いくら僕子どもでも、「ああ、いいな」とか、「なんまいだ」とか、自然にね、手が出るような、こうなるような感じがあったな。あの時な。
ディレクター)市民のみなさんからも観音像を作るための寄付を募っていたみたいなんですけど、お母さんとかは寄付されたりしていましたか?
母、それかな。母がね、そういえば、観音様にうんぬんとかって言って、みんなでここでさ、「近所で一番われわれ一番そばにいたして、これ今度ここさ建てればありがてえっきゃ」って。
僕のおふくろがね、近所の人とかにお願いに行ったみたい。「気持ちっこだけでもいいから、出してくれませんか」って。あ、それ思い出したな。
それで、みんなもう喜んで、「いいごしいいごし」って。まして目のそばさ作るんだから。せば「今後ね、なんかあっても、この観音様守ってくれる」って。ああ、それあったな。
収録年月日:2023年7月28日・8月28日
NHK青森では、青森県のみなさんが経験された戦争がどんなものだったのかを記録し、次の世代に伝えていきたいと思っています。 ご自身やご家族の戦争体験を表す象徴的なモノと、そのエピソードについて、みなさんからの証言を募集しています。 モノがない場合も、戦争の経験についてお話いただける方は、エピソードをお寄せください。