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#3 ペリリュー島からの手紙

執筆者「モノからたどる私の戦争」編集部
2023年12月04日 (月)

#3 ペリリュー島からの手紙

ペリリュー島から送られた父親からの手紙

約80年前の太平洋戦争で、激戦地の一つとなったパラオ諸島にあるペリリュー島。この島で戦った田中恭子さんの父・将一さんは当時、戦況が悪化する中でも家族を安心させようと、頻繁に軍事郵便で恭子さんの母親宛てに手紙を送っていたという。
このうち恭子さんが大きくなってから母親から渡された4枚の手紙が今も残されていて、恭子さんは父親との思い出がない中でも、この手紙を読んで、当時に思いをはせている。

第十四師団戦車隊とペリリュー島での激戦

将一さんが所属していた第十四師団戦車隊は、1944年3月、太平洋戦争も終盤にさしかかり、日本の戦況が悪くなる中で組織された。隊員は132人、95式軽戦車17輌で構成されるこの部隊で、将一さんは指揮小隊長として戦車「むつ」に乗ることになった。そして、その年の5月、戦況が悪化する南方に兵力が集められる中、戦車隊が派遣されたのがペリリュー島である。この島は、アメリカ軍がフィリピン攻略のための重要な拠点と見なしていた。

戦車隊は島へ上陸するとすぐに、跨乗歩兵を戦車に乗せて戦車を出動する出撃訓練や戦車砲の実弾訓練、それに爆撃に備えて防空壕を掘るなど、戦闘に向けた準備に明け暮れた。しかし、7月には絶対防衛圏とされたサイパン島やグアム島が次々と陥落し、アメリカ軍はパラオ諸島まで押し寄せてきた。

そして運命の9月15日。アメリカ軍の機動部隊からの艦砲射撃と爆撃で、ペリリュー島のジャングルがなぎ倒されると、ついにアメリカ軍第一海兵帰団が島に上陸し、一気に攻め込んできた。直前まで戦略を練ってきた戦車隊に攻撃命令が下り、出撃を開始。戦車砲や跨乗歩兵による反撃でアメリカ軍の第一線部隊を海岸まで圧迫するも新兵器の対戦車砲にはかなわず、戦車隊は全滅。ほとんどの遺骨は今も島に眠っている。
(※戦争の歴史は、生存者の証言集や歴史資料をもとにしている)

証言者プロフィール

田中将一さん

1920年
青森県六戸町で生まれる
1941年
現役兵として弘前捜索第五十七連隊に入隊
 
第八師団捜索第八連隊の装甲車隊少尉として東満州へ
1944年3月
第十四師団戦車隊 指揮小隊長に任命
     5月
ペリリュー島上陸
     9月
アメリカ軍上陸。戦死

田中恭子さん

1940年
青森県六戸町で生まれる
1945年
当時4歳で父親の死を知る
1946年
母親が戦没者遺族の会に入会
1980年
戦車隊の会 青森分会が発足
 
夫・泰邦さんがペリリュー島に慰霊に訪れる
1995年
初めてペリリュー島を訪問
2015年
2度目のペリリュー島訪問。天皇皇后両陛下も慰霊に訪れる。
2022年
日本戦没者遺骨収拾推進協会が戦車の掘り起こしと遺骨収集開始。

NHK青森では、青森県のみなさんが経験された戦争がどんなものだったのかを記録し、次の世代に伝えていきたいと思っています。 ご自身やご家族の戦争体験を表す象徴的なモノと、そのエピソードについて、みなさんからの証言を募集しています。 モノがない場合も、戦争の経験についてお話いただける方は、エピソードをお寄せください。

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