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明治初期に児童手当? 千葉県初代知事のこだわり子育て政策とは

  • 2023年06月15日

150年前、千葉県内ではいわゆる「口減らし」などのために、堕胎や生まれたばかりの子どもを押さえつけて殺害する「間引き」の悪習がはびこっていました。初代千葉県知事(県令)の柴原和は、こうした習慣をなくして子どもを大切に育てようと、子育て政策に力を入れたといわれています。
6月15日の県民の日にあわせて開かれている県文書館の企画展からは、貧困家庭が子育てできるよう救いの手を差し伸べようとする初代県令・柴原の姿とともに、財源確保のために負担を求められた側の理解を得る難しさも読み取ることができます。

(千葉放送局記者 金子ひとみ)

150年前の子育て政策は? 企画展 

千葉県が誕生してから2023年6月15日で150年となるのにあわせて、千葉県文書館では現在の知事にあたる初代の県令を務めた柴原和の推進した子育て政策を紹介する企画展が開かれています。

千葉県文書館県史・古文書課 児玉憲治さん
「今年は千葉県が成立して150年なので、初代県令を担った柴原和という人物に注目して、県の歴史を振り返るのが狙いです。彼の代表的な政策として従来から知られていたのが子育て支援ですが、現代の私たちの課題にも通じるようなトピックですので、特に注目して展示を作りました」

柴原和とは

柴原和

天保3(1832)年、播磨国(今の兵庫県)の藩士の家に生まれた柴原和。幕末には、広島に駐留中の西郷隆盛に会いに行き、長州を攻めるのをやめるよう説得したと言われています。木戸孝允らの指名もあり、新政府の官僚となった柴原は、明治4年、房総での生活をスタートさせます。
旧・木更津県や旧・印旛県のトップ(権令)を務めたあと、明治6(1873)年、41歳のとき、千葉県の初代県令となりました。

「名県令」として

県庁中庁舎10階の大会議室にある柴原和の肖像画

大久保利通や岩倉具視の信頼も厚かったという柴原は、当時の兵庫県令、滋賀県令と並び、「本邦三県令」のひとりに数えられていました。

全国的に地方議会が開設される前から、県民の代表を集めて議事会を開き自ら議長となって議論をする場をつくったほか、地租改正では率先して地価の決定や測量に取り組み、税率を引き下げるよう政府の大久保利通あてに上申したということです。

現在、国内産落花生の約8割は千葉県で生産

教育の普及にも取り組みました。明治7年には、千葉県の公立小学校の数は805校で、全国最多となり、明治10年には、千葉女子師範学校を設置したということです。現在の千葉大学医学部のルーツとなる共立病院の設立に向けての呼びかけ役も務めました。
このほか、落花生の種子を鹿児島から取り寄せて、県民に栽培を奨励しました。

強い思いで子育て支援

6月9日に開かれたミニ解説会

さまざまな分野で開明的な取り組みを進めた柴原が、「房総県治第一ノ急務ハ堕胎間引ヲ禁ズルヨリ先ハナシ」と、最もこだわったのが子育て支援でした。県文書館の企画展の展示と解説会から詳しくその内容を見ていきます。

下総国相馬郡上柳戸村(現・柏市)の寺院・弘誓院に、有志が連名で奉納した絵馬。
(生まれたばかりのわが子を押しつぶしている母親が、鬼の姿と重ね合わせて表現されている)

避妊方法が未発達だった当時、貧しい家のいわゆる「口減らし」としてだけではなく、比較的裕福な家でも、堕胎や生まれたばかりの子どもを押さえつけて殺害する「間引き」の悪習がはびこっていたといいます。これらをやめさせる必要があると考えた柴原は、「育子告諭」という文を刷って発出し、次のように記しました。

貧しきに困るとて其子を育てぬゆゑ、人の数の減ずるに随ひ、田畑も荒れ廃たり、金銀の融通も悪しくなり、遂に飢寒の苦に立至る、実になげかはしきの至りなり、因て此度政府へ伺いの上、子育の方法を設け、普く管内の赤子を救ハんとす、汝等能く此意を体認し、積年の弊習を革め、(中略)、禽獣に耻るの所業をすることなかれ
(千葉県文書館ミニ企画展「初代県令柴原和の子育て支援」の翻刻文より)

人口減少、田畑の荒廃、経済の停滞などにつながる積年の習慣を改めるよう説きました。妊娠届や出生届、流産届などのこまめな提出を義務づけ、地域の有力者にとりまとめを命じます。

一方で柴原は、状況を管理し悪行を戒めるだけでなく、子育てしやすい環境を作ることにも心を砕きました。子育て資金に窮する貧困家庭を救おうと50銭の出産手当てのほか、「救育金」として1か月に25銭ずつ36か月間支給しました。

千葉県文書館県史・古文書課 児玉憲治さん
「当時の1円は現在の10万円ほどです。出産手当てとして5万円、子育て資金として毎月2万5000円を支給される計算となります。人口を増やして産業を発展させていこうという地域振興の狙いがあったと思われます」

育児資本金の取り立て帳

しかし、この「救育金」は、柴原の理想通りには進みませんでした。
千葉県は、出生児数が大幅に増えたことを示す数字を発表しましたが、施策に対する県民の理解を広く得るのは難しかったようです。
「救育金」の財源は、政府からの拝借金、県職員からの寄付金のほか、大半を上位層や中位層の県民に割り当てた出資金をあてる計画でしたが、滞納が多く、目標のおよそ6割しか集まらなかったということです。

会場の展示より

明治11年には施策の規模が縮小され、柴原が千葉県令を退任したあとの明治14年、これらの政策は廃止されました。

千葉県文書館県史・古文書課 児玉憲治さん
「明治前期、財政難の政府は、地租改正や小学校設立など、民間のお金に頼った近代化政策を推進していました。民間側には、子育て政策に出資する余裕がなくなっていたと考えられます。
柴原の功績として、子育て支援が知られていますが、実際にはなかなかうまくいかなかった部分もありました。柴原の政策の良いところ、悪いところを含めて振り返ることで、現代の課題を考える素材にしていただければと思います」

展示を見て、解説を聞いた人たちは、どう思ったのでしょうか。

70代の女性

明治の時代でも、「これからは育児が大切だ」と思う人がいたことにびっくりしましたし、感動しました。ただ、子育て支援をしようという発想がみんなに広く伝わっていなかったのかなと思いました。

60代の女性

初めて柴原さんのことを知りましたが、貧しい家庭の方にお金を配るなど、今と同じようなことをされているんですよね。そのような方が千葉県にいたということがすごいな、先見の明というんですかね。その時代によくそういうことまで考えたなあと思いました。

熊谷知事

柴原県令は、地方民会を先駆的に設置したり子育て支援を実施したり、さまざまな取り組みを行った県令で、そうした積み重ねがあって今に至るということについて、この機会に県民のみなさまに思いをはせていただくきっかけになればと考えます。

置かれている時代環境によって優先順位は常に変わっていくものの、子育て政策では継続が大事だと思います。しっかりとした財源や中長期的な見通しのもとで真に少子化対策に資する政策、さらには当事者世代の方々に 希望を感じてもらえるようなメッセージも含めた政策を構築していく必要があります。

【主な参考文献】
「千葉県史明治編」千葉県(1962)
「木更津市史」木更津市編集委員会(1972)
「千葉県の歴史資料編 近現代7 県史シリーズ 社会・教育・文化」千葉県史料研究財団(1998)
「初代県令柴原和とその時代 千葉県生誕120周年記念企画展」千葉県文書館(1993)
「柴原和特別展」財団法人霞城館(1994)
「明治初頭における千葉県の救済制度概観」長谷川匡俊(1973)
「人物でつづる 千葉県社会福祉事業のあゆみ」千葉県社会事業史研究会(1985)

取材後記

柴原和について県文書館や県立図書館のさまざまな資料にあたって調べました。「明治初期も、少子化が課題だったとは!」「今の児童手当のようなものがこの時代にもあったなんて!」と発見の連続で、柴原の県民を想う心や取り組みが今につながっていることは間違いないと思いました。
一方で、「この子育て政策に関してはうまくいったとは言い切れないんじゃないか」という印象もぬぐえませんでした。そんな折、文書館の展示と児玉さんの解説で「順調にはいかないところもあった」との分析を知り、すとんと腑に落ちるものがありました。
小さな規模の企画展ですが、初代県令による「偉業」を紹介するだけではなく、「うまくいかなかった部分」にも目を向けて冷静に伝えた姿勢がとてもよいと思いました。過去の失敗からこそ学べるものは大きいと思うからです。
「こども未来戦略方針」が決定されたばかりのこのタイミングに、少しでも多くの人に、文書館の企画展を見てほしいです。

千葉県文書館ミニ企画展「初代県令 柴原和の子育て支援」
会期:2023年6月8日~8月12日
会場:千葉県文書館1階展示室 入館無料(千葉市中央区中央4-15-7)
開館時間:9:00~17:00
休館日:日曜、祝日、館内整理日(毎月末の平日)

県庁中庁舎10階には歴代知事の肖像画があります。
  • 金子 ひとみ

    千葉放送局 記者

    金子 ひとみ

    実効性ある少子化対策とは何なのか気になる2児の母

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