キャスター津田より

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、被災地の若い世代の声を特集する『若者・こども編』です。宮城県内で取材しました。

 はじめに、南三陸町(みなみさんりくちょう)と石巻市(いしのまきし)で出会った高校生と大学生の声です。どちらの自治体も、津波による人的被害や建物被害はかなり大きかったものの、現在は災害公営住宅が全て完成し、集団移転事業も完了するなど、住まいの復興事業は大きく進みました。

 

 まず、石巻市郊外の公民館で、週2回開かれる塾を訪ねました。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

震災から数年間は、岩手、宮城、福島の被災地で、子どもたちに勉強を教えるボランティアがたくさん活動しました。避難所や仮設住宅は、まともに勉強できるスペースがまったく無く、集会所などでボランティアが学習のサポートをしていました。そして、仮設からほとんどの人が退去しても、学習塾など形を変えて活動を続ける団体があります。今回訪れた塾もまさにそうで、教えるのは石巻専修大学の学生です。地元出身で20才の男子学生は、津波で自宅を失い、父の職場も被災しました。一家で父の転勤先の熊本へ移り、そこで熊本地震も経験しました。大学進学を機に家族で石巻に戻り、今は教師になるのが夢です。彼はこう言いました。

 「大変ですけど、新しい発見もあるので、驚きながら楽しんでやっています。災害が起きたら自分はどう行動すればいいのかっていうのは、常に考えるようにしていますね。友達には“考え過ぎ”って言われるんですけど、自分は何も失いたくないので…。これから生まれてくる、小学校に入学してくる子どもたちは震災のことを知らなくて、こんなことがあったというのを少しでも知ってもらいたいという一番強い思いがあるので、是非この宮城県で教師をやりたいと思いました」

 震災後に収入が悪化した家庭も多く、教育費の心配が少ない学習支援は、非常に意味があります。

 次に、南三陸町の志津川(しづがわ)高校に行き、校内で平日に開かれる塾を訪ねました。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

町が運営費を負担してNPOの講師が勉強を教える、公設の塾です。志津川高校は、震災後の人口減少で生徒数が以前の半分程度になり、定員割れも常態化しています。受験勉強の環境を整えることで、町で唯一の高校に生徒を集めようと、行政も協力しています。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

この塾で出会った2年生の女子生徒は、去年、町の事業でオーストラリアのブリスベンを訪問しました。生徒6人が、町の復興状況を報告したそうです。

 「この塾は、勉強以外のことも、家族みたいに相談に乗ってくれるから、第2の家みたいな感じです。私は同級生を一人亡くして、祖母の姉も亡くしているんですけど、震災があって海外に行かせていただいたし、いろんな経験をさせてもらっているので、震災は悪い出来事だけど、それをきっかけに、結構、人生が変わったなと思っています。将来的には国際公務員という職業に就きたいです。そして自分が世界で活躍して働いて、いったん落ち着いたら、町に帰ってくるのもいいかなと思っています」

 さらに、再び石巻に行き、郊外の長面(ながつら)地区にある神社を訪ねました。長面地区は災害危険区域に指定され、人が住むことができません。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

神社では夏祭りの準備が行われており、東北大学の学生も手伝っています。住民は震災の翌年に夏祭りを再開したのですが、学生たちは、ふるさとに住めなくても心の拠りどころだけは守ろうとする住民の姿に感銘を受け、地域文化の研究のため、訪れるようになりました。ある住民の男性は、こんなことを言いました。

 「若い人が来るのはうれしいですね。非常にうれしい。震災後、こんな状態になったから、なおさらのことです。自分の子どもと同じ接し方…叱るときもあるし、褒めるときもあるし、かわいいね」

 そして、6年間、この地区に通い続けているという大学院生の26才の女性は、こう言いました。

 「最初は、地区の人と年も離れていて、そういう方たちと普段あまり接することがないので、おとなしくしていたんですけど、何年も通う中で、話しやすい関係が築けてきました。もし震災がなかったら、私がここに来て、地区の人たちと交流を持つことはなかったと思うと、不思議な感じがします。今後の地区をどうするかとか、はたから見るとけんかしているように見えるくらい、熱い想いで話し合っている場面は、学校ではあまり見られない場面なので、“生きた勉強”だなと思いました」

 “生きた勉強”は、地区の人からよく言われる言葉だそうで、彼女が最も大切にする言葉です。

 

 引き続き、石巻市で取材を続けました。郊外にあるグラウンドでは、中学生の野球チームが練習試合を行っていて、一方のチームの監督は30代の男性でした。石巻市にある製紙会社に勤務し、野球部では主将も務め、社会人野球の最高峰“都市対抗野球”にも出場した方です。去年、少年たちのチームは選手がゼロになりましたが、男性が監督を引き受け、自ら選手集めに奔走しました。現在は14人が所属しています。男性の自宅は被災しなかったものの、勤務先は大きな被害を受け、震災後の4か月間はがれきや泥の撤去に追われたそうです。

 「復旧作業のとき、段ボールを丸めてボールにして、職場のみんなと休憩時間に野球をやったのが、震災後はじめて笑った瞬間ですかね。“ああ、野球って楽しいな”、“楽しいってこういうことなんだ”と再確認できたというか…。野球以外何もできないので、少しでもお世話になった石巻にグラウンドから元気を発信したいという気持ちで、監督になりました。“今を生きる”を心がけています。いいことだけじゃないんで、苦しいときも前を向いて頑張りたいです。今までの“今を生きる”は自分のことだけど、震災以降はほんとに、“子どもたちとともに”っていう意味になっているんじゃないかと思うんです」

 震災は少年少女のスポーツにも著しく影響し、復興事業の影響で練習場所を失ったり、震災後の人口減少で選手が減り、他のチームと合併するなど、様々あります。特に人口減少は、団体競技を楽しむ機会を奪っていくことになり、ゼロからチームを作った男性の存在は、とても大きいと思います。

 また石巻では、津波で流され、震災の2年後に内陸部で再建した工務店も訪ねました。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

経営するのは29才の男性とその父親で、沿岸部にあった自宅と作業場は全壊し、弟も犠牲になりました。男性は大学で設計を学び、会社に就職する予定でしたが、震災後、父のもとで大工の修行を始めました。復興関連の工事の受注が下火となるなか、男性はこう言いました。

 「弟の遺体を見つけたとき、オヤジと兄貴が号泣して…。そのとき、“ああ、俺がいなきゃダメなんだろうな”って思いました。泣いている姿を見たことがなかったから、父を支えようと…。自分の人生だから、とにかく一生懸命やるという気持ちです。業界が厳しいって言われても、まだ結果ははっきり見えている訳じゃないんで、結果を良くするため、厳しくてもやればいいと思います。“震災を忘れないようにしよう”というのは個人的には好きじゃなくて、忘れるために頑張っているのもあるので…。余計なことを考えないために、一生懸命やるっていう部分もあるんです」

 最後のひと言は、当然ながら、震災を伝えていくのは無意味だと言っている訳ではありません。あれだけ悲惨な経験をした私たちなら、いちいち人から言われなくとも忘れることはないから、震災のことは意識せず、とにかく一生懸命やるだけだ、という意味です。当事者にしか言えないひと言でしょう。

 そのほか、今回は仙台市に隣接する利府町(りふちょう)にも行きました。

7月13日放送「宮城県 若者・子ども編」

あまり知られていませんが、沿岸部は津波に襲われ、10人あまりが亡くなり、1000棟近い住宅が全半壊しました。養殖設備にも被害が出ています。スタッフが海の近くに民宿を見つけて訪ねてみると、21才の姉と19才の弟が、父親とともに経営していました。弟の同級生だという男性も、スタッフとして働いています。この民宿では、漁業体験やマリンスポーツ、島巡りといった独自の企画が人気で、取材した日は、20人あまりのお客さんが、魚を網に追い込む伝統漁の体験をしていました。若い3人は、こう言いました。

 「復興は、“観光”という線で盛り上げていきたいというのがありますね。お客さんが魚をさばくのを練習したり、カニをむいたりして喜んでくれるので、その表情を見たときにやりがいを感じます。小さい子からお年寄りまで、楽しんでもらえることがうれしいから、これからの目標はお客さんを楽しませることですかね。それで、女性のお客様も来てくれるように、これから頑張りたいです」

 お父さんはそれを聞き、うれしそうに、“いいぞ!お前たち、って感じですね”と言いました。自分の仕事に希望を持って取り組む表情は、被災地にこの上なくすがすがしい空気を運びます。

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