キャスター津田より

7月20日放送「福島県 あの声は今」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、以前取材した方が今どうしているのかをお伝えする、『あの声はいま』の特集です。

 

  最初は、福島県相馬(そうま)市です。

7月20日放送「福島県 あの声は今」

人口は約3万5千で、福島第1原発から30㎞以上離れており、原発事故による避難指示は出ませんでした。しかし、津波による犠牲者は400人以上(→県内では2番目の多さ)となり、大きな被害が出ました。集団移転事業と災害公営住宅の整備が終わったのは4年も前のことで、仮設住宅も全て撤去されました。松川浦(まつかわうら)漁港一帯の漁業施設も、3年前には全て復旧し、東北唯一の産地として知られた青ノリの出荷も、去年から始まっています。

 はじめに、震災から21日後の避難所で出会った、70代の漁師の夫婦を再び訪ねました。

7月20日放送「福島県 あの声は今」

ご主人は妹と弟、さらにその息子を亡くし、奥様は兄夫婦と姉を亡くしています。新築してわずか1年半前の自宅が流され、漁具も失われました。8年前の取材では、2人はこう言いました。

 「早く海で仕事がしたいですね…。この先は大変だな。見えないです…先は見えない、真っ暗」

 あれから8年…。2人は避難所と仮設住宅を経て、4年前に高齢者向けの災害公営住宅に引っ越しました。ご主人が70年暮らした元の場所は災害危険区域となり、住むことはできません。いま2人が住むのは、相馬市が“井戸端長屋”と呼んでいる独特の災害公営住宅で、孤立防止のため、共同利用するスペースや住人が集うスペースが多く、一同に会して食事することもできます。80代になったご主人は、息子の勧めで漁師を引退し、いまは花の世話が日課です。

7月20日放送「福島県 あの声は今」

 ご主人の横で、奥様はこう言いました。

  「当初、主人は早く起きて、散歩に行ったと思ったら、港をずっと行き来して、“今日は船が出た”とか“出ない”とか…。それは聞きたくなかったよね、船に乗せてやりたかったから。まあ、ここは環境もいいし、部屋も暖かいし、選んでよかったかな。みんなと心をともにして、頑張っていきたいです」

 また、ご主人はこう言いました

 「ここに来たら、隣りどうしで行ったり来たりするようになったからね。他の公営住宅に入ったら、(引きこもって)黙っているかもしれないけれど、ここは誰かが通りかかれば話をするし、待っているとご近所が来て話はするし、その点はいいなと思う。これからは元気、笑顔、思いやりを大事に暮らします」

 そして、震災から2年後に、真冬の仮設住宅で出会った50代の女性を再び訪ねました。震災前は夫婦で鉄工所を経営していましたが、自宅も鉄工所も流され、元の場所は災害危険区域に指定されました。

 「仮設の玄関が凍って開かないの。手で開かないから、足で押して…。とにかく早く仮設から出たい」

 あれから6年…。女性は取材の2か月後に、市内で最も早く建てられた、戸建ての災害公営住宅に引っ越しました。しかも、相馬市が今年、災害公営住宅の払い下げを実施したことから、女性は6年暮らした公営住宅を安価で購入し、還暦を過ぎて持ち家を手にしました(払い下げは震災復興特別区域法の特例で、被災地では相馬市が初)。その後、女性は家庭菜園を始め、一角にはバラも植えました。

 「今はこんな小さな家でも、自分のものだって思えます。バラは、20年以上親友だった人が津波で流されて、その人がバラが好きで庭いっぱいに植えていた人だったから、せめて私もと思って…。震災後、慣れない仕事をして大変だったけど、こんなので泣いていたら、姉御肌だった彼女に“何やってんの!”と言われそうな気がしました。だから、くよくよせずに生きていきたいです」

 さらに、震災から2年後の相馬市磯部(いそべ)地区で会った、消防団の30代の男性も訪ねました。震災時、消防団員は住民の避難誘導などをしており、市全体では10人が殉職、うち磯部地区が9人でした。当時すでに、地区の人口は震災前から3割も減っていて、男性はこう言っていました。

 「若者たちが離れて、活気がなくなっています。残っている若い人たちで手を携えて、地域を盛り上げて、またみんなが戻ってこられるような所に戻したいと考えています」

 あれから6年…。男性は40代になり、消防団の副団長になっていました。地区の人口はさらに減って震災前の半分に満たず、地区の消防団員も3割以上減りました。男性は、“人が減った寂しさに慣れたというか、慣れるしかなくなっている”と苦笑しました。男性の家は6代続く農家で、現在は両親と3人暮らしです。津波で田んぼには多くのがれきが残りましたが、今年、集落の一部の田んぼがようやく復旧し、農家6軒が共同で稲作を再開しました。

7月20日放送「福島県 あの声は今」

実に9年ぶりのコメ作りです。田んぼの復旧が進めば、作付けはさらに増える予定で、男性は、続けてきた電気工事の仕事と農業を掛け持ちします。

 「見込みや勝算はなんて、全くないですよ。自分の代で農家をやめたくないというのがあったのかな、どこかに…。震災前は当たり前のように農家をやっていて、自分もやっていくんだというのは、ずっと思っていました。そこを思わなかったから、ここには住んでないですよね。これからも腹を据えて、磯部で生きて行きます。迷いはないですね。これがぶれちゃったら、だめですよ(笑)」

  柔和な表情の奥には、人としての芯の強さが感じられました。

 

 次に、宮城県との境にある、新地町(しんちまち)です。

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 人口は約8千で、原発事故による避難指示は出ませんでしたが、町の面積の5分の1が津波の被害を受け、JR新地駅も壊滅しました。3年前に駅は再建され、同じ年に災害公営住宅も全て整備されました。仮設住宅もすでに撤去されています。今年に入り、駅の近くでは、8つのテナントが入る商業施設やホテル、入浴施設などが次々と開業しました。

 はじめに、震災から4年後、釣師(つるし)地区で会った男性を再び訪ねました。30代の会社員で、会ったのは、“復興フラッグ”という旗の近くでした。この旗は、地元の人々を励ます意味で作られ、中央に大きく“新地”という文字が染め抜かれ、新地への愛をつづった文章やイラストが描かれています。

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 地元のバイクのライダー達が町を励まそうと発案し、制作には全国のライダーも協力しました。釣師地区はほとんどの家が流され、男性の自宅もそうでした。祖母も亡くしていて、男性はこう言いました。

 「勇気づけられて、前に進むきっかけとなっている、唯一背中を押してくれる応援旗ですね。最初の2~3年は前に進みたいという思いがなかった…でも今になって、いろんな人と出会えたこともあるし、生きていて良かったなと…。だから犠牲になられた方々の分もしっかり生きていかないと」

 あれから4年…。男性は、高台の集団移転先に家を新築し、妻と暮らしていました。元の場所は災害危険区域となり、復興フラッグのあった場所でも、公園の整備が進行中です。いま復興フラッグは役場で掲げられ、公園が完成したら戻される予定です。

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前回の取材後、男性は夫婦で旗を管理する団体を立ち上げました。ビーチの清掃活動なども行っているそうで、妻と2人でこんなことを言いました。

 「この場所に復興フラッグが戻ることによって、守っていかなきゃいけないという思いが強くなっています。復興フラッグが立つ所は、にぎわいを創出できる場所に作り替えられるので、あのフラッグを目印に、ここは被災した土地だということを改めて後世に伝えていくことができたらと思います。自分があそこに住んでいたから、うちらが守るしかないなって思います」

 また、震災から4年後に訪ねた、集団移転団地にあるオーダーメイドの靴工房にも再び行きました。60代の夫婦が経営していて、自宅兼工房は津波で流され、集団移転先に新たに再建しました。ご主人は、この道60年の職人で、30年ほど前からオーダーメイドの工房を始めたそうです。津波で廃業も考えたものの、県外の仕事仲間が機械を寄贈してくれました。8千人ほどの顧客名簿も流されましたが、なじみ客が避難所まで来て励ましてくれたり、注文をくれたそうです。当時は、こう言いました。

 「どんな恩返しができるか…これから日々がんばって、喜んでもらえるようなことをやりたいです」

 あれから4年…。夫婦は70代となっても、元気に靴作りを続けていました。足が悪く、市販の靴が合わない人などが、今も頼りにしています。

7月20日放送「福島県 あの声は今」

 震災後は、お客さんが新たなお客さんを紹介する形で、首都圏からも注文が来るようになりました。今では顧客の3分の2が、震災後の新しいお客さんです。

 「“靴屋さん、いつまでもやってください”と言われると、“倒れるまでやるか”ってなっちゃうね。お客さんがお客さんを連れて来てくれたというのは、本当にありがたいです。普通ならセールスに行かなきゃならないもの。看板も立てないでやっているけど、周りが支えてくれる…それは忘れられない、感謝のひとことです。一つ一つは小さいけど、それが重なって、我々の生活を支えてくれたんです」

 靴は頻繁に買い替える物ではなく、特注である以上、顧客が多くなければ職人は生活できません。お客さんの力で震災後の生活が救われたことに、月日を重ねるほど、感謝の思いが強くなるそうです。

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