キャスター津田より

6月29日放送「福島県 楢葉町」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県楢葉町(ならはまち)です。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

人口約6800の町で、原発事故で国から避難指示が出され、全住民が避難しました。2015年9月に避難指示は解除され、仮設住宅の供給も、去年3月末で終了しました。町内には災害公営住宅も建てられ、県立の診療所やデイサービスセンター、特別養護老人ホームなども再開しています。去年はスーパーやホームセンター、飲食店などが入る商業施設と、隣に交流施設がオープンしました。今年は、体育館やプールを集積した新施設“ならはスカイアリーナ”の利用が始まり、道の駅にある日帰り温泉施設も、8年ぶりに再開しました。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

 農業では、コメや牛乳の出荷、肉牛の繁殖が3年前に再開し、産地化を目指したサツマイモ栽培も新たに始まりました。工業団地には、民間企業の工場立地も進められています。

 一方、現在、楢葉町に住民登録をしている人のうち、実際に町内に住む人は約半数です。

 

 はじめに、町内の災害公営住宅に行き、4年前に取材した方を再び訪ねました。60代の女性で、震災前は夫婦ですし店を営んでいた方です。以前取材した時は国が避難指示を解除する直前で、女性の自宅は野生動物の被害を受け、取り壊しを決めていました。当時はこう言っていました。

「避難指示の解除は、やっぱり早すぎる…私たちが入る公営住宅もできていないし、帰れる人だけ帰るというのは、腑に落ちないです。全部が大丈夫となれば、みんなで帰れると思うんですけど…」

 あれから4年…。女性は、去年3月に仮設を出て町に帰還し、災害公営住宅に入居しました。ご主人と2人暮らしで、ご主人は店の再建を願いましたが、脳の病気で体に障害が残り、諦めました。町に戻ったものの、避難先だったいわき市よりも買い物などは不便で、近所付き合いもまだ浅いそうです。多くの常連とも離ればなれとなり、“生活が全く変わった”と語るご主人の横で、女性はこう続けました。

「お年寄りばっかりで、若い人は向こう(避難先)に残っている感じ。実際に帰ってみれば、思っていたより向こうの方が良かったかなと思っています。主人も病気になったし、お店ができなくなったことが、いちばん頭にあります。私一人じゃ店はできないし、そのことばかり毎日、毎日考えて…。これから先は、主人と健康に気をつけて、頑張っていきたいと思います」

 その後、緑の苗が並んだ田んぼを見つけ、耕作している農家を訪ねました。4人の農家が共同でコメづくりを行っているそうです。町内のコメの作付面積は震災前の約4割ですが、4月には大規模な保存施設も完成しました。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

この農家のグループは全員が60代で、今年は他の農家の委託も受けているため、作付けは昨年の5倍以上、14ヘクタールに上るそうです。メンバーの1人は、“昔の田園地帯に戻れば我々もうれしい”と言いましたが、別の方はこんなことも言いました。

「避難して年月が経っているから、コメを作らない人も出ているし、どうしても田んぼを手放したい人とか、いろいろいるじゃないですか。この辺を見ると苗が植えられているけど、ちょっと離れれば荒れた土地がたくさんある…復興しているのはごく一部ですよ」

 4人はさらなる委託の増加を見越して、補助金で大型の田植機などを購入しました。しかし全員、後継者がおらず、一体いつまで耕作できるのか、不安は尽きないと言います。皆さんはこう言いました。

「できれば40代とか、若い人たちが出てきて、やる気のある人に権利を譲って我々は引退したい…それまではとにかく続けていきたいです。できる限り、みんなで続けていって、農業の魅力を評価していただければ、若い人も捨てたもんじゃないから、後に続く人が出てくると期待しています」

 そして、自宅を改装してレストランを始めた夫婦がいると聞き、訪ねました。オープンから1年、自ら栽培した野菜を中心に、福島の食材にこだわった料理が人気です。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

町内に住む人もちろん、いわき市などで暮らす町民も多く訪れるそうです。夫婦はともに60代で、以前はご主人が公務員、奥様は福祉の仕事をしていました。店で使う野菜は、除染した畑で、農薬は控えて栽培しています。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

店を始めたきっかけは、奥様の高齢者福祉での経験だったそうです。

「おいしいものを食べて初めて元気になるんであって、運動はその次だと気づいた面が多かったんです。避難指示が解除されてから、お年寄りの帰還が多いので、お年寄りのケアの面で、自分がやれる精一杯のことをして、心を込めて料理を作るよう努力しています。ここでゆっくりして、心のケアではないけど、“来てホッとしたな”と言ってもらえれば、それでいいと思っています」

 現在、町内に住む人のうち、60代以上が半分近くを占めています。農業を次世代にどうつなぐのか、町内の高齢者のケアをどうするのかなど、帰還後の課題も山積しています。

 さて、生活の拠点を避難先に移した町民はどんなことを思っているのか、今回は隣のいわき市でも取材してみました。楢葉町の自宅を取り壊したという60代の男性は、4年前、いわき市に中古住宅を購入し、夫婦で暮らしています。震災前からバンド活動を続け、避難後も復興を願うライブを何度も行ってきました。メンバー全員が楢葉町出身だそうです。

「妻の母親が一人でいわきに住んでいて、避難してから面倒を見ていたんですね。90近い高齢でもあるので、解除になったからといって、すぐ楢葉町に戻って生活を始めようとはならなかったんです。避難した人たちがライブで会うと“うわー、久し振り!”とか、そんなトークが始まるんで、町民が集まるだけでもいいんだと…。“枯れ木も山のにぎわい”ではないけど、我々がやっていることは町の役に立っているのかなという思いですね。昔は自分の中でふるさとのことが重かったんですけど、あれから8年、新天地でとにかく新しい人生を、前に進まないとどうしようもない、そう思っています」

 皆さんの声を聞くと、町に住む半分の町民も、町に住まない半分の町民も、100%の満足はないけれど、そこで暮らしていく覚悟はしっかり定めて人生を歩んでいます。8年という時の流れを感じます。

 

 その後、町内で開かれている住民たちの集まりを2つ取材しました。

 北田(きただ)地区にある民家では、カラオケを楽しむ“歌謡教室ひまわり会”が定期的に開かれています。メンバーは20人の高齢者で、震災直後、避難先のいわき市で活動を始め、去年7月から活動場所を楢葉町に移しました。会を設立した70代の男性は、町に戻って暮らしていて、こう言いました。

「避難先では楽しみがないと生活できないんですよ。震災は起こってしまったんだし、考えたってどうにもならない…。前に進むことしか考えなかったんです。前に進むには、いちばん手っ取り早いのは歌だなと…。人が集まることがないと、やっぱり活気が無いですよ。集まれる場所をつくると、町は活性化するんですよ。地元でカラオケが出来るということは、本当に喜び以外の何物でもないね」

 メンバーの中には、すでに町の外に生活拠点を移して、そこから通って来る人もいます。町に戻った、戻らないにこだわらず、楢葉町の中で人が集まり、笑い声のあふれる場所が増えていく…実はそれが今、何より大事なことかもしれません。

 また、役場の隣にあるコミュニティーセンターでは、乳児を育てる母親を対象に、離乳食の勉強会が開かれていました。

6月29日放送「福島県 楢葉町」

町内に住む30代の女性は、生後8か月の長女と参加していて、楢葉町出身の夫とは 避難先のいわき市で知り合い、4年前に結婚しました。

「震災当時は全てを失ったというか…そこからいろんなものを得て、この子を授かって、本当にギュッと詰まった8年間でした。町に子どもの声が戻ってきていると実感しているので、この子が大きくなったら、たくさん友達をつくってほしいと思います。習字とかピアノとか習わせたいと思っているんですけど、習い事をできる環境がなかなか無いのが正直あって…それはリアルな話ですけどね(笑)」

 いま町内には、10代以下の子どもが400人近く住んでいます。4歳以下に限れば130人を超え、おととしの3倍です。2017年4月から、町の小中学校は、避難先のいわき市の仮校舎を閉じ、町内で再開しました。小中学生の数は震災前の2割にもたず、町に住むのは高齢者ばかりという事実は否定できませんが、人の気配が一切消え失せた場所に再び子どもの声が戻り、町を明るくしています。

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