キャスター津田より

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
九州の記録的な大雨では、大きな被害が出ました。8年前の震災を経験していると、災害が起こるたび、本当にいたたまれない気持ちになります。被害にあわれた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

 

 今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。人口1万3千ほどの漁業の町で、震災では、約6割の住宅に半壊以上の被害が出ました。おととし、災害公営住宅の整備や集団移転は全て完了し、大型スーパーやホームセンターも営業しています。町が管理する漁港では、8割以上で復旧工事が終わり、最新式の魚市場も稼働しました。新しい公立総合病院が開業して4年が経ち、“さんさん商店街”と“ハマーレ歌津”という商店街もできました。“さんさん商店街”には、2年間で125万人が訪れています。

 

 はじめに、志津川漁港で月に1度開かれる“福興(ふっこう)市”に行きました。震災の翌月から続いていて、地元の旬の魚介類を中心に特産品が販売され、その場で味わうこともできます。

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 毎回、町内外から多くの人が訪れ、雨だった今回も会場は大にぎわいでした。このイベントには、“南三陸ふっこう青年会”という地元の団体も関わっています。メンバーは漁師や会社員、観光協会の職員など、30代以下の18人で、“福興市”の他にも、盆踊りや海のイベントを企画し、地元の活性化に取り組んでいます。

 メンバーの1人、水産加工会社の取締役を務める30代の男性は、こう言いました。

 「ボランティアさんも減る中で、僕たちも何かしたいという気持ちが一致して、利益云々ではなく、福興市の運営をずっとやっています。継続って、本当に力だなって思います。続けるのはすごく難しいですけど、続けないと何事も進まないし、続けることで少しずつ変わっていくのを、8年経ってすごく痛感しています。“自分たちが一番楽しむ”ってことを、僕らは常々言っています。自分たちが楽しくないと、楽しさが伝わらないし、続かないので…。やるのは義務じゃない、楽しむっていうことですね」

 その後、歌津(うたつ)地区に行きました。おととし4月にオープンした商店街“ハマーレ歌津”では、飲食店や衣料品店など、8店舗が軒を連ねます。

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 ここで酒店を営む20代の男性は、5年前にも私たちが取材した方で、震災翌年に父親から店を引き継ぎました。当時は、こう言っていました。

 「高校2年生の3月に被災したけど、それまで就職で県外に行こうと思っていて、震災があって全部が変わっちゃったから、こっちに就職しようと…。この町にいたい、この町に協力したいと思いました」

 あれから5年…。男性は酒の販売に加え、3年前から店の一角でバーも始めていました。料理は客の要望に応じて、男性みずから腕をふるうそうです。

 「酒だけの売り上げは、まだ震災前に届いてないのかな…。どうしても地元の輪がなくなっていて、集まりが減ってきているので…。バーには40代~70代の、幅広い方々に来ていただいて、すごくうれしいです。この店から生まれたコミュニティ-が少なからずあって、人が集まる場所になってきているという実感を、お客さんからもらえるのがうれしいです。友達も今は散らばっているけど、お盆や年末は町に帰ってきてくれるので、彼らに“お帰り”って言える店でありたいと思っています」

 そして内陸部の入谷(いりや)地区にも行き、“南三陸まなびの里 いりやど”という施設を訪ねました。

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 学生などが宿泊しながら震災学習をしたり、地元の人が交流するための場所です。ここで働く30代の女性は愛媛県出身で、ボランティア活動が縁で、4年前に移住しました。同じく支援活動をしていたNPO職員の男性と結婚し、去年、長女が生まれました。

 「この町を大好きになったポイントが、町のみんなが家族みたいで、家族のような関係性の中で、たくましく生活しているところでした。デイサービスのお年寄りのところに娘を連れて行って、一緒に触れ合ったり、公営住宅のおじいちゃんが、娘の名前も覚えてくれて、だっこしてあやしてくれたり、みんなの孫のようにかわいがってくれますね。今のこの社会で、自分が地域の一員だと感じて生活できるって、すごく幸せなことじゃないかと思っていて、今はその生活ができているので、本当に幸せです」

 町の人口は、震災前から27%も減りました。しかも、3人に1人は65才以上です。紹介した3人は、どんなに故郷が変わろうと、そこで充実して生きようという覚悟や、地元の役に立とうという情熱にあふれています。町はこれまで、移住や定住を望む若い世代のため、空きが出た災害公営住宅で被災者以外の入居者を募集したり、移住支援センターをつくって随時相談に応じきました。今の人口と年齢構成で町を活性化するには、“町の価値”を認めている若い力が極めて重要です。

 

 次に、若い世代以外の声を取材しました。

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 志津川漁港の目の前には、8年前に訪れた鉄工所があります。養殖設備や船の修理などを行う大事な役回りですが、私たちが震災の4か月後に取材した際は電気が不通で、溶接機を自家発電で動かしていました。当時、60代の経営者の男性はこう言いました。

 「漁業をやる限り、鉄工所は切っても切れない仲です。注文は多いんですけど、電気が復旧しないので仕事が進まなくて、受注も断るような状態です。一日でも早い復興を願って、頑張っています」

 あれから8年…。70代になった男性は、“仕事が少なくなった”と言いました。町ではカキ、ホタテ、ホヤ、ワカメ、銀ザケなどの養殖が盛んですが、震災後は漁師が減り、町内の漁船の数も6割以上減りました。養殖のホヤは、宮城県では約7割が韓国に輸出されていましたが、原発事故後は韓国が輸入を禁止したままで、余剰なホヤを廃棄している状況です。ホタテも、貝毒の影響で出荷の自主規制が続いています。鉄工所でも、募集しても若い職人は集まらず、職人の高齢化が進むばかりです。

 「漁業者が忙しくて活気があれば、私らも元気が出るし、漁業者に仕事が無ければ、私らも仕事が無くなっていく…。ホヤの水揚げができればいいんだけど、捨てるものを養殖しているんだから、もったいないことすると思うよ。ホヤもホタテも生産者が一番多いのに、先細りな感じがするね。養殖業の人たちと、いくらかでも長くつきあえればいいと思うけどね」

 また、高台に新たに造成された志津川東地区にも行きました。新築の家が立ち並び、200世帯以上が入居する災害公営住宅もあります。その隣には“結(ゆい)の里”という施設も新しくつくられました。

7月6日放送「宮城県 南三陸町」

 この施設では高齢者のデイサービスを中心に、誰でも立ち寄れるカフェもつくられ、子育て中の母親など様々な世代が交流しています。ここでは定期的な朝市や、みんなで料理を作って食べる食事会、移動販売の出店や映画会、ミニ運動会など、これまで多くの催しを開いてきました。この施設の運営と管理を行う、社会福祉士の40代の女性は、こう言いました。

 「この地域に建設される災害公営住宅の高齢化率が高くなることは、初めから想定されていて、高齢者を対象とした施設ができないか、あわせて地域の皆さんの居場所をつくれないかという話から始まっています。“あなたも来なよ”みたいに、電話で仲間を誘う人もいますし、交流の拠点になってきているのかなと思う場面が多いですね。ひとりぼっちにならず、みんなで誰かを助けたり、支えあったりするような、緩やかにつながる地域になればいいですね。」

 さらに、“結の里”の常連で、隣にある災害公営住宅に住む男性を訪ねました。2年前に仮設住宅から引っ越してきた、元大工の87歳の男性で、震災後、妻を病気で亡くし、1人で暮らしています。

 「週に3~4回行きますよ。いくら趣味があっても、たまには外に出て深呼吸して、冗談言ってコーヒーを飲みたくなるもの。小さい子を連れて来るお母さんたちに、趣味のカメラで子どもの写真を撮って渡すと、うんと喜ばれるの。それが最高ですよ。ああいう施設がなければ、ずっと家の中かもね」

 さらに男性は、災害公営住宅の暮らしについて、こんなことも言いました。

 「隣どうしで会話したことはないね。以前からつきあいがないから、上に誰がいて、下に誰がいてなんて全然分からない。お茶飲みの集まりも、みんな女性ばかりで、女性のところに押しかけて、“こんにちは”って入って行けないもの。男同士の集まりが少なくて、積極的に声かけてもなかなか反応が無いから、自分の家で映画会でも催そうかなと思って…。4、5人で集まって西部劇なんかを見てね」

 地域の交わりは女性の方が積極的で、男性は遠ざかりがち…これは至る所で聞く話です。さらに車のない高齢者は、1回ごとに数千円を払ってタクシーで移動することも多く、当然、外出を最小限に控え、交流からも遠ざかります。3人に1人が65才以上という状況は、今後も町に重くのしかかります。

 

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