キャスター津田より

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、若い世代の声を特集してお送りする「若者・子ども編」です。宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)と石巻市(いしのまきし)の声をお伝えします。

 

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

まず南三陸町です。震災では、住宅や商店が広がる中心部に加え、点在する多くの浜が、壊滅的な被害を受けました。中心部のかさ上げは9割がた進み、来年度には完了予定です。災害公営住宅も今年3月には全て完成していますが、人口は震災前より30%近く減少しました(現在、約13000人)。

 

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はじめに戸倉(とくら)地区にある公民館で、この地に300年間伝わるという、"行山流水戸辺鹿子躍(ぎょうざんりゅう・みとべししおどり)"の練習におじゃましました。鹿を模した装束をまとって太鼓を打ち鳴らす郷土芸能で、踊り手の子ども達の中心は、17歳の男子高校生でした。

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

「最初は小学5年生の時、かっこいいっていう理由で始めたんですよ。衣装も、叩く姿も、踊る姿も、全てにおいてかっこいいし、歴史の深さにも魅了されましたね」

戸倉地区では、ほぼ全ての家屋が被災し、126人が犠牲となりました。踊りの衣装や道具も全て流されましたが、がれきの中から拾い集めたそうです。保存会会長を務める60代の男性は、こう言いました。

「本当に、復興のための踊りだったんですよ。亡くなった人たちの供養も含めて…。子供たちが一生懸命、伝統文化を披露するってことは、みんなを奮い立たせる旗印になったと思うんですよ」

リーダーの男子高校生の家は養殖業をしていて、彼は来春から、父の背中を追って漁師になります。

「やっぱり自分もどこかで、仙台とか、東京に行きたいって思いもあったんですけど、震災を機に、地元に貢献したい気持ちもあったので、漁業を続けていきたい…この町が好きだから、家を継ぎたい、一緒に働きたいってお父さんに言いました。そして、鹿子躍を存続させたい思いも強くなりました。しっかり受け継いでいきたいし、1日も早く復興が進むよう、小さいことでも取り組みたいと思いますね」

被災地の郷土芸能は、装束や道具を流された上、震災後はメンバーが町を離れたりして、担い手不足が深刻です。学校の授業に取り入れて担い手を確保したり、普及用のDVDを制作する団体もあります。郷土芸能は、地域を心の面から再建する大事な要素です。彼の存在意義は、非常に大きいのです。

 

次に、今年4月にオープンした、歌津(うたつ)地区の商店街に行きました。

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ここにあるカフェのオーナーは、35歳の男性です。震災の翌年に地元へUターンし、両親と妻の4人で暮らしています。震災前は大手外食産業の社員で、中国の工場で衛生管理部門の幹部を務めていました。最近はネットショップも運営して、町の特産品の販売にも力を入れており、地元の漁師と消費者をつないでいます。

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

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「震災から1か月後に地元に戻ったんですけど、その時見た光景が忘れられなくて…。それでも、自分にできることがあるんじゃないかと思って、帰ろうって決めました。通販で外に売るとか、ウェブサイトやチラシを作るとか、漁師さんはなかなかできなかったことなので、生産者がどんな思いで作っているかを伝えたいと思っています。そして、例えば編み物とか、趣味の会をこの店で開いて、地元の人が集まってくる…居場所というか、ここに居ていいんだと思ってくれたら、すごくうれしいです」

 

さらに、今年3月に志津川(しづがわ)地区にオープンした商店街にも行きました。

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

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本と雑貨の店を営むのは、20代の女性です。教材や事務機器を扱う店の4代目ですが、店舗と自宅は流されました。震災後、仙台からUターンして、父親と今の店を開いたそうです。

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「震災がなければ、ずっと仙台で暮らしていたと思うんですけど、父から"一緒に店を出したい"という話を聞いて、地元に帰る選択肢が出てきました。帰ってきて、こんなにいい所だったんだっていうのが分かって、そこからいろいろ活動している人に会って、話を聞いたりとかして…。そういう中で、魅力がいっぱいある町なんだなって実感しました」

60代の父親は、震災後に新聞販売の仕事も始めました。娘について、こう言いました。

「店のほうは全部任せっきりで、本当に助かっています。せっかく帰ってきた以上は、おもしろく生活してもらえればなと…。私たちはあと何年できるか、わからないですしね。若い人たちがいろいろ工夫して、町を盛り上げてもらえればなと思います」

父親が娘の働きぶりを80点と評すると、女性は"意外に高い"と笑って、こう言いました。

「商店街で若い方を見かけることが少なくて、高校生とか中学生にも来てもらいたいですね。例えば店でワークショップや講座をやったり、映画鑑賞会をやったり、ふらっと来て利用してもらえるような…やっぱりずっと続けていくには、地元の人に利用してもらいたいし、そこにこだわりもあります」

 

被災地では、資金調達の難しさや後継者不足から、廃業した店も相当あります。例えば岩手県の沿岸では、地元の店主でつくる商店会などが、10以上も解散または休止しました。本格再建した商店街も、商圏の縮小という課題に直面しています。この女性の店が入る商店街でいうと、オープンから半年のうちに来客数が50万人を超えましたが、多くは観光客や工事関係者です。本来の商圏である町の人口は、30%近く減っています。そうした中、町には、若さを武器に道を拓こうとする人たちがいるのです。

 

続いて、石巻市(いしのまきし)の若い世代の声です。石巻市は人口約15万の、宮城県第2の都市です。震災で犠牲になった方々は3800人を超え、被災地の中では最も犠牲者の多かった自治体です。

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まず、津波で500棟以上の建物が被災した渡波(わたのは)地区に行きました。国道沿いで自転車店を営む31歳の男性は、昭和元年からつづく店の4代目です。

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自宅と店舗は津波で全壊し、1年前にようやく新たな店を建てました。震災前の職場は成田空港で、航空機の整備員をしていました。震災を機に家業を継ぐ決意を固め、今は両親のいる石巻で暮らしています。

「震災直後は車が流された人も多くて、自転車がすごく大事だったんですね。でも道路にがれきが散乱してすぐパンクするので、本当に1日50件から100件くらい、お手伝いで修理していました。1週間、2週間と続けていく中で、成田でサラリーマンの仕事をしているより、地元で仕事をして、お客さんと触れ合うのがとても自分に合っていると思ったんですね。家が新しく建ったり、道が整備されたりする中で、人間がつながる力も大事にして、大きい輪になっていけば、それも含めて復興だと思います」

 

さらに、中心部の空き店舗を改装したスペースで、月に1度だけ開かれるという食堂に行きました。

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

全国から来たボランティアが運営し、地元の人との交流を目指しています。この日のメニューは、南三陸産のタコを使ったたこ焼きでした。

12月17日放送 「若者子ども編・宮城県」

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活動の中心は京都出身の23歳の女性で、大学卒業後、石巻に移住しました。大学時代から震災ボランティアを続け、現在は支援団体の職員として働いています。仕事は仮設住宅の訪問相談員で、生活に困窮する人などを支えています。

「今まで、"あの人の、あの言葉があったからこっちにしよう"とか、人を思い浮かべて選択してきたので…学生時代に気仙沼の復興屋台村で、"京都から来てくれてありがとう"と涙ながらに言ってくださる方に出会って、就職活動の時、大阪で会社を受けたんですけど、面接でずっと東北の話をして…。"自分は東北で働きたいんだ"と気づいて、こっちで働こうと就職活動をし直しました。人とのつながりをもっともっと感じられる地域にしていくために、何ができるのかを考えながら、目指していきたいです」

被災地とのつながりは深まり、今では親代わりとなる人もできました。ボランティアに安く宿を提供してきた、旅館を営む60代の夫婦は、彼女が寂しくて京都に帰りたいと思った時など、家に招いて泊めてやるそうです。旅館の主人は"利益だけじゃなくて、若い子たちが一生懸命に頑張るのを、周りの大人が後押しをしていかなくては"と言いました。石巻にはボランティアをきっかけに移住した若者が多く、私は一度、地元の同世代の若者に、彼らをどう思うのか聞いたことがあります。答えは、"聞いたこともない、面白い発想を持った外の人たちと知り合って、一緒に地元に変化が起こせると思った"というものでした。彼女のような存在は、被災地のいろんな世代に刺激を与え、地域を変えています。

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