キャスター津田より

1月7日放送 「宮城県 丸森町」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

2018年、新年を迎えました。震災に対する世間の空気は、時とともにますます変わっていきますが、我々スタッフは新しい年も、変わらず取材を続けたいと思います。

 

さて今回は、宮城県丸森町(まるもりまち)です。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

人口は約1万4千、主な産業は農業です。町の南側にある筆甫(ひっぽ)地区や耕野(こうや)地区は、福島県相馬市(そうまし)、伊達市(だてし)、飯舘村(いいたてむら)と接していて、福島第1原発までは50kmです。特に、去年3月まで避難指示が出ていた飯舘村までは5kmほどで、宮城県でありながら、原発事故の影響に苦しめられてきた町です。

 

はじめに、渓流釣りの人気スポット・阿武隈川(あぶくまがわ)支流の内川(うちかわ)に行きました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

1月7日放送「宮城県 丸森町」

原発事故後は放射性物質の量が上昇し、川魚に出荷制限がかかり、釣りも禁止になりました。しかし2013年以降は、放射性物質が国の基準を下回り続け、現在は出荷制限もなく、釣りも楽しめます。地元漁協の70代の男性によれば、川魚は天然のコケなどを食べるため、人の手では対策のとりようがなく、ひたすら検査結果が好転するのを待つしかなかったそうです(阿武隈川支流のアユは、去年4月に出荷制限が解除)。現在はゼロだった釣り客も震災前の2割くらいまで回復しました。男性は、今後もアユやヤマメの放流を続けながら、釣り愛好家はもちろん、組合員にもPRしていきたいと言います。

「つらかったですよ。例えば(出荷制限を)3年で解除できると分かっていればいいけど、先の見えないところで一生懸命やるっていうのは、つらいね。組合員も当初120人ぐらいいたのですが、現在72、3人まで減少しました。出荷制限がかかって魚が獲れないのであれば、組合に入っている意味がないから…ということで結構やめた方がいます。震災前の状態まで、なんとか組合を活性化させたいなと…」

 

次に、大内(おおうち)地区に行きました。ここでは今年中のオープンを目指す、改築中の農家民宿を訪ねました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

オーナーは、震災の6年前に東京から移住してきた、40代の女性です。丸森町は、農作業を体験しながら農村でゆっくり余暇を楽しむ"グリーンツーリズム"の先進地として知られていますが、この女性は、行政とともに事業をけん引してきたキーパーソンです。原発事故の直前に転職が決まっていたため、事故後はやむなく町を離れましたが、丸森への思いが募り、3年前に戻りました。

「やっぱり福島の隣っていうだけで、お客様が敬遠するような…すごく頑張っていた農家レストランが、時間がたつにつれてじわじわとダメージがきて、店を閉めたりとか、直売所がやめちゃったみたいな話もありましたので、丸森に戻って、またお客様を引っ張ってくるようなことを仕掛けたいなと…。私がやっているグリーンツーリズムは、農村景観が美しくないとお客様を呼べないんですよ。丸森はそれに合った土地だと確信していますので、少しでも、以前の希望のある状態にもっていきたいです。」

 

そして福島県境の筆甫地区では、菊を生産している60代の夫婦を訪ねました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

1月7日放送「宮城県 丸森町」

事故前までの30年間は原木シイタケを栽培していましたが、原発事故の8か月には自らシイタケの発生作業を止めました。シイタケの質に絶対の自信があるのに買い手から敬遠され、我慢できなかったし、モチベーションも落ちたそうです。1年後にようやく立ち直り、食べ物と違って風評を受けにくい、菊の栽培を始めました。

「震災当時、相当ショックだったので、景色が違う景色に見えましたからね。でも花の力…花を見て嫌だとか、面白くないとかいうことは絶対ないですよね。そういった意味では、人間が生きていく上で花にはいろんな力があるんじゃないかと思い、菊を作っています。これからは菊栽培のための労働力とか、規模とか、技術とか、いろんな意味でバランスを考えながら、菊作りに励みたいと思います。」

加えてご主人は、"福島の皆さんが幸せに暮らせるよう祈っています"とも言いました。実は夫婦の叔父、叔母、兄弟、子ども、孫が福島に住んでおり、多くの福島のシイタケ農家とも交流がありました。筆甫地区は地理的に福島県と大変近く、ご主人は、福島の皆さんのことを心底案じていました。

 

さらに筆甫地区では、福島県境から1kmの所に住む、60代の男性からも話を聞きました。竹炭などを生産していましたが、原発事故後は注文がぴたりと止まり、事故前に作った竹炭ですら一切売れず、生産中止に追い込まれました。そのため一昨年、男性は地域の有志7人と350万円を出し合い、新たな取り組みを始めました。中学校(すでに廃校)の校庭にソーラーパネルを設置し、電力会社を立ち上げたのです。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

1月7日放送「宮城県 丸森町」

現在は生協系の電力販売会社に発電しており、今年中に、パネルの設置場所を5か所から14か所に増やす予定です。14か所全てが稼動すると、筆甫地区の電力のほとんどをまかなえます。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

「原発はお金がかからないというよりも、一番かかるんじゃないか…。何かあったらもう、100年単位で処理に時間がかかるんじゃないか…それを考えると、自然エネルギーが一番いいんじゃないかなと思いますね。地区で高齢者が増えていますが、(業者に)草刈りとか頼むのにも、何かとお金が必要なんですね。そういうところに電力会社から上がった収益を利用して、地域の光になりたいと思っています。」

 

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。震災から9か月後の筆甫地区では、2004年に仙台から移住し、地区の振興連絡協議会の事務局長として働く男性(当時30代)に出会いました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

「ここが宮城県ということで、福島県と同じようなケアがされてこなかった点に不満も高まっていますし、何で福島県でされていることが、宮城県ではされないのかっていう十分な説明も、ありませんし…。放射能によって、いろんな地域づくり活動がダメになっていることが、すごく悔しく思っています。」

あれから6年…。40代になった男性は、今も地域のために尽力していました。高齢者が多くなり、草刈りをはじめ、雨どいの掃除の依頼まで受けるそうです。当初、福島県ではない丸森町には、国や東電の対応はほぼ皆無でした。町や住民組織がひたすら国に訴え続けた結果、飲食店や宿、直売所などでは、事故から1年半近くたって、福島と同じ基準の賠償が決まりました(事故後の減収分などを賠償)。住宅など町内の除染で、完全に福島と同等の財政支援を国が決めたのは、3年3か月後です。数万円から数十万円の額ですが、町民への精神的な賠償も勝ち取りました。さらに、県の健康調査は地区を限定していたため、町は独自予算で、18歳以下の町民すべてを対象に健康調査を行いました。

「食品の測定、除染、賠償、一つ一つを越えることで、地域の中に安定というか、落ち着きを取り戻せていったと思います。一人一人が少しずつ、地域に対してできることを、ちゃんとやり続けていくことが何よりも大切だというのを、この震災後6年半以上ですごく感じました。筆甫地区の人たちは本当にひとつの家族みたいな感じで、お互いを心配しあったり、この地区はどうなるんだろうと、自分ごととして考えている…自分の持つ力で地域が変わっていけるなら、そこに力を注いでいきたいと思います。」

 

また、震災から9か月後の耕野地区では、地域の特産品などを販売する店で、当時40代の男性店主から話を聞きました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

1月7日放送「宮城県 丸森町」

約30年にわたり、名物の干し柿を作っている方でした。

「気にかけていただくことが、一番うれしいけどね。"愛"の反対は"無関心"だと、私は思っているので…。丸森や被災した地域に関心を持っていただいて、何ができるかを考えて行動してもらいたいです。」

あれから6年…。50代半ばとなった男性は、今年も干し柿作りを始めていました。

1月7日放送「宮城県 丸森町」

1月7日放送「宮城県 丸森町」

取材当時を振り返り、「あの頃は本当にお客さんが減ってきて、自分たちは被害者なのに、非常に疎外感…切り離された感じがしていたね」と言いました。原発事故の年、福島県が干し柿の出荷を自粛したため、検査をクリアした宮城県の干し柿にも風評被害が出ました。男性は精密な検査を自費で行い、安全性をアピールし続けました。幸い、買い続けるお客さんがいたおかげで、売り上げは事故前の9割まで回復しています。

「一度仙台に売りに行った時、"どこから来たの"と言われて、"丸森です"と言ったら、"危ない所ね"と言って帰ったお客様がいて…。でも、本当に支援していただけるお客様や友達も増えましたし、あの時は"関心を寄せてください"という悲痛な叫びが本心でしたが、今はそれよりも本当に感謝の気持ちでいっぱいで…。分かっていただけるお客様とつながっていきたいと、あの頃から切り替わっています。」

 

宮城県が原発事故の約3か月半後に測った、丸森町の小学校などの放射線量は、耕野小学校が0.91μSv/h、筆甫小学校で0.77μSv/hです(→地上50cmの値。この値を年間被ばく線量に換算すると、当時は国が限度とした1mSvを確実に超えていた)。これは避難指示が出ていない福島県の自治体と比べても高い値でした。その状態から6年10か月近く、福島と全く変わらない忍耐と努力を続けてきたのが、県境の丸森町です。福島の陰に隠れた皆さんの忍耐と努力を、是非、忘れないでいただきたいと思いました。

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