キャスター津田より

12月29日放送 「首都圏に避難した福島の人々」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、「首都圏編」です。震災後、首都圏に避難して、今もそこに住んでいる福島県の方々にお会いしてきました。原発事故から6年9か月あまり、今も避難している福島県民は5万人を越えます。その約2割にあたる1万2千人が、東京、埼玉、千葉、神奈川など、首都圏で生活を続けています。

 

まず、千葉県で取材しました。今も2400人近い福島出身の方々が、千葉で暮らしています。

12月29日放送「首都圏に避難した福島の人々」

松戸市(まつどし)中心部にあるビルの一室では、避難者が集うサロンが開かれていました。

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ここに月1回通う南相馬市小高区(みなみそうまし・おだかく)出身の70代の男性は、事故直後から息子のいる千葉へ避難し、今は借家に妻と娘の3人で住んでいます。元は車の修理工で、自宅は福島第1原発から約16kmにあり、津波で全壊しました。奥様が重い腎臓病を患っていることもあり、千葉に住み続けています。地元で10年以上、家族同様に暮らした愛犬は、最初の避難先のアパートがペット禁止だったため、ずっと大阪の保護団体に預けていました。その愛犬も、去年、17歳で亡くなったそうです。

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「こちらでは、病院とかスーパー、生活するのに大事なものを探すのにかなり苦労しました。あと、福島に戻る時、どう行ったらいいか分からないので、恥ずかしい話、覚えるのに上野駅と東京駅を何回も行ったり来たりして…。犬を預けた団体はすごい親切で、大事にしてくれていた…感謝にたえませんね。でも大阪なので、年に1~2回しか会うことができないのが、ちょっと残念でした」

 

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また、松戸市郊外の住宅街では、浪江町(なみえまち)出身の60代の女性と会いました。松戸に住む次男を頼って避難し、一昨年、新居を購入して夫と2人暮らしです。浪江町の自宅は、解体しました。

「家を建てる時、葛藤はあったわよ。浪江に帰ったらいいのかとか、やっぱりね…。でも、どこかには向こうに帰りたい気持ちは少し残っているのよ。月に1回くらいは浪江に行くからね。それでも松戸を選んだのは、やっぱり仲間かな。この4~5年で、避難した人の仲間がある程度できたでしょう。"この人たちと一生やっていきたいな"という思いはあるのね」

一昨年、千葉に避難する浪江出身者を中心に、会を結成しました。現在、会員は60人で、小物作りや旅行などで親交を深めています。会の主な活動場所は駅前のマンションで、年金暮らしの中、ご主人がアルバイトをして賃料を負担しています。額は控えますが、東北の感覚からすれば相当高い賃料です。

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「大きいよ、お金は。"やめなよ"ってみんなに言われるよ。でも浪江の人たちとつながっていきたい…本当に本音だよね。要はつながっていたいから、そこに尽きるんだよ。4人、5人って集まった時の感動…物を作ったりして一日過ごしたりするのが、私はうれしいよね」

女性は、会の独身高齢者が東京の病院で手術するにあたり、身元引受人も務めたそうです。避難者への公的ケアは徐々に薄れ、いずれは自助努力で支え合うしかないと言いました。上記の2人とも、故郷の避難指示はすでに解除されています。しかし、避難先の首都圏にそのまま定住した人は、決して少なくありません。学齢期の子どもや介護・通院が必要な方がいる家庭では、様々な不便や精神面の不安定も伴う仮の生活を、5年も6年も続けるのは困難です。ただ、福島での暮らしが長い中高年には、首都圏のような大都会に溶け込んで生きるのは、精神的に大きな負担です。そのストレスから、避難後に持病を悪化させたという話はよく聞きます。皆さんは、避難者同士の絆を命綱に、孤独と闘っているのです。

 

続いて、東京都に避難した方々を訪ねました。

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東京都には、ピーク時の半数、約4200人の福島県民が今も避難しています。約190人が避難している世田谷区(せたがやく)では、福島第1原発がある大熊町出身の、70代の女性と会いました。東京に嫁いだ娘を頼り、夫と2人で避難しました。いつ避難指示が解除されるか見通せず、一昨年には夫が入院したため、やむなく帰還を断念して中古マンションを購入したそうです。大熊の自宅は野生動物に荒されたため、解体する予定です。避難の際に愛猫を連れ出すことができず、今もマンションの部屋には、置き去りにした猫の写真が飾ってありました。

「自分らしく生きるには慣れていくしかないと思い、東京に自分を慣れさせました。知り合いでも、まだ狭いところに暮らしている方もいますので、マンションに入っても後ろめたい感じがするんです。原発事故については、田舎の人をばかにしてるかな…。政治家でもなんでも、もし都会で事故が起きたら、もう少し素早く対応してくださるんじゃないかと思ったり…。避難しなければ、きっと元気でいただろうと思う人が何人も亡くなっています。そういうのを見聞きすると、腹が煮えくり返ってきますね」

取材後、スタッフは電話で、どうしても言い残したことがあると言われました。女性は、大熊町では小唄や三味線の師範をしていて、人とのつながりがたくさんあったそうです。そうした人の絆を全て壊された悔しさを、何としても付け加えたかったとのことでした。

 

次に同じ世田谷区で、これも大熊町出身の、20代の大学院生の男性に会いました。両親は大熊町への帰還を諦め、一昨年、いわき市に自宅を新築しました。3年前、大熊町の同級生とともに町の魅力を伝える動画を発信し始め、その後は町の人々に働きかけ、一人一人の故郷の思い出を集める活動もしました。

12月29日放送「首都圏に避難した福島の人々」

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「今でも、いわきに帰るというのが不自然に感じます。友達の間で、避難先によって、いわき組、会津組、関東組みたいなのが出来ていて、年末に帰ったとしても、同じ場所に集まれていません。大熊時代の思い出が自分の中でいちばん強くて、大熊中学校のメンバーで将来帰った時に、昔と同じ場所で、"あの時こうしたよね"って話を、普通に、ふるさとがある人たちのようにやりたいなと思いますね」

男性は、大手通信メーカーに就職が決まっています。何十年先になろうと、いつの日か町に帰還し、みんなが立ち寄っておしゃべりできる、カフェのような場所を作りたいと言っていました。

 

そして、大熊町同様に福島第1原発が立地する双葉町(ふたばまち)の、30代の男性とも会いました。双葉町で居酒屋を営んでいましたが、開業1年半で被災し、修行先だった東京に避難しました。3年前に世田谷区内で居酒屋を始め、妻と、8歳、5歳、1歳の子どもと暮らしています。

12月29日放送「首都圏に避難した福島の人々」

店の奥には、今も立ち入りが厳しく制限されている、双葉町の店の写真がありました。

12月29日放送「首都圏に避難した福島の人々」

現在は、前の店の屋号に"2号"をつけて営業しています。農家や蔵元など仕入れ先を開拓し、東京でのお客さんも獲得してきました。

「原点、初心を忘れないというか…"ここはそこの続き"という気持ちでいたので、"2号"とつけました。震災直後からネガティブな気持ちは一つも無くて、"震災が起こったから、もう僕はこぢんまりやっていきます"というのは違うと思うし、"どこで、何をやるか"は自分次第で、リミッターをつけるのは自分だし、リミッターを外すのも自分なので、そこは常に自由でありたいと思っています」

男性は元々、双葉町では誰もが知る、駅前の洋食屋さんの後継ぎです。原発事故後、先代の父親は商売を廃業しました。男性は東京に住所変更したものの、どこに居ようが自分は福島県民だと思っているそうです。故郷に限らず、どこであってもいつの日か、実家の洋食店を復活させるのが夢だそうです。

 

さらに、いわき市から避難した、40代のシンガーソングライターの女性とも会いました。取材したのは、港区六本木(みなとく・ろっぽんぎ)にある老舗のジャズレストランでした。避難体験をテーマにした自作曲『My Life』(マイ・ライフ)では、"つらいことがあっても 時がたてば きっと笑える日が来る"と、思いを込めて熱唱していました。いわき市に避難指示は出ませんでしたが、幼い娘2人のことを心配し、東京に母子で自主避難しました。現在、娘たちは中学生になり、友だちも増えてすっかり東京にとけこみました。女性は娘たちのことを考え、さらに原発事故も完全に収束していないため、今後も東京で暮らす予定です。

「最初は避難する期間も全然決めず、すぐに戻ろうって気持ちで、避難していたんですけど…。ずっとこういう状態で、6年9か月過ぎてしまったなって…。原発事故は、あってほしくなかった…このインタビューも、受けない人生でありたかったです。自分の好きなことを見つけたら、それが絶対、自分の力になるので、子ども達には、苦しい時こそ好きなものを見つけて、羽ばたいていってほしいです」

 

去年の首都圏編では、スタッフが話した自主避難の方々は全員出演を拒みました。今回もほとんど変わらず、応じていただいたのは1人です。"原発避難いじめ"に代表される世間の空気を恐れ、隠れるように都会の中で生きている方々は大勢います。居住の自由が憲法で保障される以上、自己判断の避難にも正当性はあります。論点は、それをどこまで公費で支えるか?です。この点は行政と当事者の間、さらにスタッフが聞いた中では、当事者の間でも賛否が分かれています。9か月ほど前、自主避難者へ住宅を無償提供する制度が終り、自分で家賃を払いだした方々は(特に、国内で最も家賃が高いであろう首都圏の方々は)、福島の父親と離れて母子避難する親子を中心に、生活が一気に暗転しました。自主避難への支援の賛否はずっと分かれたままで、取材して、いちばん難しさが浮き彫りになる点です。

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