キャスター津田より

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福島県大熊町(おおくままち)です。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

現在、自治体の全域に避難指示が出ているのは、福島第1原発が立地する大熊町と双葉町(ふたばまち)の2つだけです。大熊町では、96%にあたる町民の家が、避難指示の中では最も厳しい"帰還困難区域"にあり、住むことはできません。

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全町民1万人が、全国各地へ離散した状態が続いており、近隣の町と比べ、帰還にはまだまだ程遠い状態です。

 

初めに、町から50km離れたいわき市に行きました。

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4年前、いわき市で再開した大熊町の飲食店を訪ねると、30代の夫婦が店を切り盛りしていました。30年続く店の2代目で、ボリューム満点の味噌ラーメンは、大熊町の名物です。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

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昔からの常連やいわき市内の新しいお客さんで賑わっており、九州に避難している大熊町民がわざわざ食べに来て、"懐かしい!"と声を上げたこともあったそうです。就学前の2人の子どもがいる4人家族で、奥様は、"大熊町に帰還する予定はない"とはっきり言いました。

「子育てしている私たちからすれば、大熊は、未来がちょっと不安な町…子ども達はここ(=いわき市)がふるさとなので、帰らないです。いわきの人たちとの出会いもたくさんありましたし、新しいこの店で、家族でいわきに根づいて、これから新しく歩んでいけたらいいなと思います。同じ出身の同級生とも店でばったり会うこともありますので、大熊とは、そうやってつながっていけるなと思います」

 

次に、同じいわき市で、2年前に家を新築した70代の男性を訪ねました。夫婦で2人暮らしです。

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「落ち着いたかなという感じでね。新築したけど、感激したとかではなく、これで一応、いわきに落ち着いて、娘たちも盆と正月に来られるなと…。ここは似ているんです、大熊の情景とね。後ろが川で、山があって…。まあ家は求めたけど、気持ちはまだ定住していない、気持ちの整理がつかないんですね。大熊に自宅がありますから…ここに住んで良かったのか悪かったのか、今のところ答えられません」

男性は今年5月、町の出身者が集う会をつくりました。約60人が在籍し、毎月1回、お茶会やバーベキューを行っています。東京や名古屋といった避難先からも、集まってくれるそうです。

「後ろを向かず、過去を言わないで、前を向いて明るく、仲良く、元気よく進んでいこうと、会のみんなで言っているんです。"必ずいいことがありますから"って言うと、一段と盛り上がるんです」

 

大熊町では、自宅への帰還を断念した方が圧倒的に多数です。昔からの常連と話をしたり、町の出身者で集まったりと、故郷を心の中に抱えたまま、人生そのものは全く新しいスタートを切るのが、現在の大熊町民の姿です。町内ではこの先、数十年にわたって廃炉作業が続きます。県内の除染で出た廃棄物が運び込まれる中間貯蔵施設もあり、最長で30年は保管されます。帰還困難区域の指定解除は、全く示されていません。この状況で、新しい土地で人生の再出発を図るのは、自然といえば自然です。

 

さて大熊町には、一部に限り、日中の出入りが許可されている地域もあります。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

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町内では比較的放射線量の低い大川原(おおがわら)地区で、町はそこに、来年度のうちに役場庁舎を建設し、町民の帰還を目指す方針です(もちろん、避難指示の解除はあくまで国の判断です)。

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さらに地区には、町民の交流施設や商業施設、診療所や介護施設、50世帯ほどの災害公営住宅もつくる予定です。2022年度には、小中学校と幼稚園も、会津若松市の仮校舎から大川原地区に戻す計画も示しました。さらに常磐線が2020年3月に全線で再開し、大野(おおの)駅などを中心とした地域では、国費で除染やインフラ復旧を一体的に進め、居住区域や農業区域をつくることも決まりました。こうした中、大川原地区では、地元の農家で結成した"おおくま未来合同会社"が、今年10月からシメジのハウス栽培を始めました。

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地元の土で育つ作物は風評被害が大きいため、菌床を使い、ハウスで外気を遮断して作れるキノコに着目しました。最初の収穫は約10kgで、検査後、一部が福島市のホテルなどに出荷されました(→原発事故後、町で初めての農作物の出荷)。訪ねた時は、60代の男性4人が作業していて、皆さんはこう言いました。

「最初に生えた時は、やはり感動しましたね。気持ちを新たに、新しい町をつくる…我々は農業を通して新しい町づくりに貢献したいです。みんなが楽しめるコミュニティーを何とか作りたいです。大熊の再生なんて大したことは言えないけど、我々が精いっぱいやって、楽しんでいきたい…その一心です」

 

さらに大川原地区では、新築の家も見かけました。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

家主は50代の男性で、町内で除染などの仕事に就いています。家は今年8月に完成し、夫婦で住む予定です。避難指示の解除は見通せませんが、必ず町に戻れると、自らの畑だった場所に家を建てました。週末、避難先のいわき市から1時間かけて通っています。原発事故後、大熊町に家を新築したのは、男性を含めて2人だけです。

「せっかく建てたから、早く住みたいっていう気持ちが強い…まだ自由に寝泊まりできないですから。いわき市は土地が高くなったりして、"それなら、ここに土地がある"と建てました。大川原なら、早く避難指示が解除になるだろうと…。帰りたくても帰れない人が多いのが現実ですが、誰かが先駆けて行動を起こさなければ、次についてくる人たちもいないと思いますので…。やっぱり、ふるさとですから」

前述の行政の計画が実際にどれだけ実を結ぶのか、確証は全くありません。しかし、圧倒的に多数の町民が帰還を諦め、新天地で第二の人生を歩む中、ごく一部には再び大熊の地を目指す人もいるのです。

 

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。原発事故の9か月後、会津若松(あいづわかまつ)市の仮設住宅では、福島第1原発から5km圏内に自宅がある、60代の大熊町の男性と出会いました。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

「復興はある程度、自由に立ち入りできないと無理だと思います。月2、3回でも入れれば、雨漏りでも何でも、ある程度は補修できる…でないと復興はなくなるよ。住めないもの、今やっておかなきゃ」

あれから6年…。男性は今年6月に、会津若松駅の近くにある災害公営住宅に移っていました。

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イノノシに自宅を荒らされて住めなくなり、わずかに残っていた帰還の望みも完全に断たれたそうです。帰還が許可された時に一体何歳になるのか、年齢を考えても、諦める以外なかったそうです。男性はこの道40年の植木職人で、大熊町に置いてきた機械は、一時帰宅のたびに必ず手入れをしているそうです。

12月10日放送 「福島県 大熊町・いわき市」

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「一応、さびてないしね…道具は使えるようにしているから。道具を捨てたら、人間やめるようだね。自分の職を捨てる、今まで培ってきたものを捨てるのは、人間やめるのと同じだもの…。過ぎたことはいちいち考えてもしょうがない。それよりも夢を持って生きたほうがいい、ましてや年だからね。できれば、本物の技術はこういうもんだって、(職人を目指して)習いたいという人がいれば教えたいね」

男性は避難を始めてから、心に浮かんだ様々な思いを何冊ものノートに残してきました。
"人間の力では運命に勝つことはできない"、
"人生に乗り越えられない試練などない"、
"世の中は不条理で苦だが、無常を生き抜く"…
丁寧な字でノートに書かれた言葉の重さに、圧倒されました。

 

また原発事故の翌年、会津若松市の仮設住宅では、当時50代の大熊町の女性と出会いました。

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自宅は福島第1原発から3kmの地点で、愛猫とともに避難したと言います。

「私たちはあの町で、ひとつずつ積み上げてきたものもあるし、子どもをあそこで育て上げたというのがあるから、あそこを捨てられないし…。絶対帰るんだから!あと何十年先になろうと!」

あれから5年…。女性は、入居者の減少に伴う仮設住宅の集約で、別の仮設団地に移っていました。今年夏に体を壊し、現在は通院生活を続けています。半年前、避難の苦楽をともにした猫が他界し、今は手を合わせるのが日課だそうです。

「変わらない、全然変わっていない…。みんなにバカ、バカって言われ続けても、自分の最初の考えは絶対ぐらつかない。大川原のほうに復興拠点ができるから、一番で帰ろうって感じ。帰るって思い続けることは、大変でも苦痛でもない…周りから"帰れないんだよ"って言われるのが、逆に苦痛だよね」

よく聞いてみると、女性は20代の頃、東京で看護師として激務に追われ、小さい息子を抱えながら心がすさんでいったそうです。それが故郷の大熊町に戻って、救われたのだと言います。

「大熊町は人生の原点の所です。大熊町でいろんな人たちが、私の気持ちを丸く、丸くしてくれた…大熊町がなかったら、そんなに笑っていなかったかもしれないですね。何を言われてもいいから帰る、大熊に帰って、"ほら見て、大熊でちゃんと生活できるでしょ"って、自信を持って言いたいですね」

 

自分の気持ちに正直に、悔いなく毎日を生きようという思いは、大きな病気をしたことでさらに強くなっているはずです。病気という経験も、町へ帰還する姿勢を支えているのかもしれません。

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