東日本大震災 山内惠介さんが語る"あの日"

秋田県大仙市での、のど自慢に出演された山内惠介さん。
NHK仙台が取り組む東日本大震災の伝承プロジェクトのインタビューで、“あの日”のこと、そして、“あの日”からのことについて、語ってもらいました。

―山内さんは2011年3月11日、何歳の時、何をしていましたか?

12年前ですよね。ということは僕が27ですね。若かったです。
その日、僕はコンサートの打ち合わせで日比谷にいまして、打ち合わせが終わって東銀座の方に有楽町から歩いて向かおうとしたときに、「3.11」の地震が起きて。
空を見上げたら、タンクの水はあふれ出しているし、女性の悲鳴っていうのでしょうか、「きゃー」って聞こえてきたり、見るものは揺れたり。
何が起こったのか全くわからなかったけれど、とんでもないことが今起こっているんだっていうことで、びっくりしましたね。

―実際あの日、東京で震災に遭われたというお話でしたが、あの当時、どんな生活を送っておられましたか?

あの日は、なかなか…車も捕まらないし、どうやって帰ろうかなっていう状況でしたよね。それで携帯ラジオを、その当時ラジオの仕事をやっていたので持っていましたから、そこからの情報が頼りでした。「東日本で大きな大きな震災が起きたんだ、地震が起きたんだ、津波が来てるんだ」っていう情報をキャッチしながら。東京もパニックの状態でしたよね。
知り合いのお店が目と鼻の先にあって開いていたので、そのお店の地下に入って、ちょっとご飯を食べながら。そしてまた余震がずいぶんありまして。あったら外へ出て、そしてまた入って、また外へ出てっていうのをくり返していました。
それで、やっと10時か11時くらいに事務所のスタッフの方が車で迎えに来てくれて、乗って。もう大渋滞でしたね、歩いている人もぞろぞろいらっしゃいました。忘れられない一夜でした。

―やはり、今でも強く印象に残っている日なのでしょうか。

だって、体験したことがない夜でしたからね。これからどうなっていくんだろうって。個人的にも、歌い手10周年っていう記念の年だったので、「今年は一生懸命目標に向かって頑張っていくぞ」みたいな、そういう時だったので。「あー、どうやって、これからまた歌っていくんだろう」って、考える転機になった日でした。自分自身もパニくっていましたね。

―当時はどんな歌手活動をしていましたか?

その当時は、歌としては「白樺の誓い」を。ちょうど10周年を迎えていた時で、NHKさんの「歌謡コンサート」で、“イケメン3”っていう、北川大介さん、竹島宏さん、そして僕の3人のユニットを組んでくださってコンサートしたり。そして、各々個人活動も頑張って、もうちょっと頑張れば紅白歌合戦に出られるかもしれないと意気込んでいた、そういう風な時期でしたね。

―”あの日”があって、活動に何か変化はありましたか?

もちろん歌い手のお仕事もストップしました。
改めて歌というものを、どんな風にこれから届けていくのかということを考えるきっかけになりました。
被災された皆さんに少しでも歌でエールを送れるように、僕も命を懸けて、そして限界ぎりぎりで毎回ステージに臨まなくちゃいけない、と。
「きらり!えん旅(2018年度までBSプレミアムで放送)」という素晴らしい番組で、被災地に赴いて歌を届けるというお仕事を頂いたときに、東松島に伺いまして。
皆さんが、もう家にも住めなくて仮設住宅にお住まいになって大変な時に、まだまだ名もない自分だけれども、すごく“ウエルカム”して下さったんですよ。そして「まつし~ま♪」って、民謡を一緒に口ずさんだ時に、すごく笑顔になってくださって。
あ、歌は一瞬でも、そういうつらさ、苦しさっていうものを忘れることができるんだということを逆に教えられたんですよね、皆さんから。
東北魂っていうものを自分が歌う時の姿勢に注入してもらえた、そういう風なタイミングではなかったのかなって。だから自分が被災地に伺った時に、もっともっと「あ~山内惠介が来てくれたの~!」「けいちゃん、来てくれたの~!」って言われるように、もっと僕も力をつけて有名になりたいっていう風に思いました。
個人的な事を言えば、僕は1年に1枚ずつ新曲シングルをリリースしてきましたが、その2011年、東日本大震災が起こった年に初めて新曲を1年に2回出したんです。
10周年記念曲で、その曲でずっと1年頑張る予定だったのですが、東日本大震災が起こって、ちょっと歌のテーマを変えようという事で、作詞の松井五郎先生に「冬枯れのヴィオラ」という「国境を超えるのは明日になるだろう」という非常にスケールの大きい歌をつくっていただいて。そして僕がこれまで使ってこなかったギリギリの高音を駆使して歌う、そういう歌唱をやり始めた。それはやはり「3.11」が起こってなければ、そんな風な歌唱スタイルにはならなかったと思います。

―被災地を実際に訪れたことが大きかったと?

大きいですよね。気持ちに寄り添うことはできるけど、その悲しみっていうのは体験していないからこそ、そこまでたどり着けないんですよ。でも、畑を耕しながらお花を愛でている被災された方に「お花きれいですね」って言ったら、「この花は被災して亡くなった主人のためにいま育てているのよ」とおっしゃって、思い出しながら涙を流されたわけですよ。
それくらい、皆さん事あるごとに思い出される「3.11」なんだなって。やっぱり足を運ばないとリアルには感じなかったと思います。

―いま、東北で歌う機会も多いと思いますが、歌う気持ち、特に沿岸部で自分なりに思ったり、考えながら歌っていることはありますか?

「あの日のことを忘れてはいない」ということと、「あの日から自分の歌が変わったから、今の自分の歌を届ける原動力になっている」っていうことを伝えたいというのは、ステージに立つとより強く思いますよね。
そして、被災地を回って出会った人たちが、会場に足を運んでくれているんですよ。陸前高田、東松島…で出会った皆さんがね、「会いに来たよー!」っていって。その再会がうれしいですよね。
そして、年々、みなさんが元気になっていらっしゃる、笑顔になっていらっしゃる、その姿を見ると、とてもうれしく思います。
今もなお地震が起きているわけで、自分がこの前仙台に泊まったときにも、朝方に地震があって。「ああ、普段の生活って、当たり前じゃないんだな」と。毎日毎日の日常をおだやかに過ごしていけることっていうのは、当たり前じゃないんだなって事を、もう日々感じながら生きています。
それで、「今日が最後」という気持ちで、やり残したことがないように生きていく。
それは、あの日が教えてくれたことではないかなと、僕は思います。

山内惠介さん、貴重なお話をありがとうございました。

NHK仙台放送局のサイト「あの日、何をしていましたか?」では、
みなさんの2011年3月11日について投稿を募集しています。
あの日、何をしていましたか?|NHK仙台 みんなの3.11プロジェクト