【キャスター津田より】10月7日放送「宮城県 亘理町」

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今回は宮城県亘理町(わたりちょう)です。人口が約33000で、震災では町の48%が津波で浸水しました。300人余の町民が犠牲になり、全壊戸数は2500棟を超えています。亘理産のイチゴは全国に知られる特産品ですが、震災で農家232戸が被災し、イチゴ畑の90%以上が浸水しました。
2015年、集団移転先の宅地(6カ所・200区画)と災害公営住宅(7カ所・477戸)の整備が完了し、ハード面の復興事業は2020年度末に完了しています。役場庁舎が新たに完成し、町内3カ所に大規模なイチゴ栽培団地も整備され、温度管理などを自動で行う最新式のイチゴの生産が行われています。津波で壊滅した荒浜(あらはま)地区の変貌ぶりも目ざましく、被災して新築した直売所『鳥の海(とりのうみ)ふれあい市場』が2014年に再開し、翌年には、被災した飲食店や個人商店が入る『荒浜にぎわい回廊商店街』がオープンしました。町所有の温泉施設『わたり温泉鳥の海』が2014年に再開し、海に面した広大な『鳥の海公園』(27ha)も整備され、野球場、陸上競技場、サッカー場、全面天然芝の多目的広場、スケートボードパークまで揃っています。2021年度からは、アスリートやアーティストら計30人が、地域おこし協力隊員として全国から移住し、荒浜地区を拠点に活動を始めています。

 9月30日夜、鳥の海公園で『東北未来芸術花火』という花火大会が開かれました。震災からの復興と発展を願って1万発以上が打ち上げられ、およそ13000人が来場しました。日中には、130人以上の参加者が一緒にロックを演奏する音楽イベントも行われ、これを企画・運営をしたのが、『わたり創生会(そうせいかい)』という団体です。30代~40代の町民26人で構成し、住民や町と連携しながら、海岸清掃や釣り大会なども行っています。メンバーの一人、八木智紀(やぎ・とものり)さん(43)は、津波で自宅が全壊しました。会には、立ち上げの頃から参加しています。

 「震災があって、復旧や復興が大体終わったという段階なので、この機会に再度、亘理町の魅力を発信して、1人でも多くの方に亘理町を訪れていただきたい…それを目指して頑張っています。年上の方の意向ではなく、若手が考えて、若手が動く集まりって、結構少ないと思いますよ」

 また、別のメンバーの安原洋志(やすはら・ひろし)さん(42)は、こう言いました。

 「あの頃(震災前)と同じように…というのは100%ありえないので、いつまでも後ろ向きな言葉を口にするよりも、少しでも前向きになれるような、ポジティブな言葉や思いをずっと描きながら、前に進めたらいいなと思います。自分たちが楽しくなる、ワクワクするようなことを考えて企画しないと、やっぱり周りの人たちには伝わりにくいと思うので、そういうのを考えていきたいです」

 次に、長瀞(ながとろ)小学校を訪ねました。津波被害を受け、震災の3年後に再建された学校です。体育館では2年生の郷土学習が行われていて、400年続く伝統芸能『はねこ踊り』の練習中でした。指導するのは、表具店を営む富山剛久(とみやま・よしひさ)さん(61)で、町内の小学校で伝統芸能を教えています。富山さんは和太鼓団体を運営していましたが、津波で太鼓は全て流され、団員の9割が被災しました。自身は被災を免れたものの大病を患い、回復した今、何とか太鼓も再開したそうです。

 「震災後はいろんな所から支援物資が来る、人も来る、でも亘理は結構復興が早かったので、それが引いていくのも早いんですね。その時に、みんなで立ち上がって、協力してやっていこうってなれるかどうかが大事で、伝統芸能を通じて、一つの集団で取り組む責任感とかを養うのは、一番いいんじゃないかと思います。夢が叶う人って本当に一握りで、うまくいかなくなった時に、自分の帰る場所、ふるさとがあれば、戻って元気になって、何度でもやり直しできるんです。だから、ふるさとを覚えていてほしいんです。子どもの時に関わった郷土芸能が何かの力になれば…というのが一番の思いです」

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 未来を見つめる声が続きましたが、前述のように亘理町では、住まいの復興事業は8年も前に完了しています。他の復興事業も終わってから結構時間が経っており、未来を向く“心のゆとり”が、町民の中にも確かに出てきているのでしょう。

 その後、『荒浜にぎわい回廊商店街』に行き、9年前に取材した久木恵美(ひさき・えみ)さん(66)が営む店を訪ねました。雑貨とアクセサリーの店で、震災前は弟が経営していました。津波で店を失い、弟は再建に奔走するも、病気で他界しました。以前は仮設店舗で取材し、店を継いだきっかけは、病床の弟を安心させるためだったと言いました。“弟の夢を継ぎ、荒浜で再建します”と力強く言いました。
 あれから9年…。店の商品は手作り雑貨が中心となり、全壊した自宅の再建も10年前に果たしました。店の営業にも慣れて生活も落ち着きましたが、最近は商店街の賑わいが減ったと言います。

 「この商店街はオープンが早くて、当時は珍しいので取材とか、芸能人とかたくさん来てくださったんですけど、だんだん他の地域に立派なところがいっぱいできて、こっち側に来る人が少なくなったみたい。前はここでもホッキ貝を焼いて販売するとか、イベントもやっていたんですけど、コロナでやめてから無いままなので、賑わいがなくなりましたね。でも、地元の高齢者の人が集まって、この店をお茶の間のような場所にして、皆さんとお茶飲みしながらおしゃべりできればいいかなと思います」

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震災後、荒浜地区の住民は半減しました。観光客は減っても、地元のために店は続ける覚悟です。近隣の自治体では、『かわまちてらす閖上(ゆりあげ)』や『やまもと夢いちごの郷』、『フルーツパーク仙台あらはま』や『アクアイグニス仙台』等々、農水産物や温泉を売りにした、亘理町と似たような観光施設が被災跡地に次々誕生しています。観光客の獲得競争のような状況は、まだ続くでしょう。
そして、津波で大半が浸水した吉田(よしだ)地区にも行きました。ここでは放置された農地で特産品を作ろうと、大粒品種の落花生の栽培が進んでいます。畑を訪ねると、津波で全壊した自宅を修繕して暮らす、片岡義隆(かたおか・よしたか)さん(79)が話をしてくれました。震災翌年にボランティア団体に参加し、海岸林の植樹なども手伝ったほか、5年前から落花生の生産にも携わっています。片岡さんは、落花生の栽培が地区に賑わいを取り戻すきっかけになればと、切に願っています。

「私も3.11で自分の生活態度というか、気持ちがガラッと変わった…地区を何とかしなければいけないと、一生懸命やろうという気持ちになりました。地区のみんなは、(別の地区に建った)災害公営住宅に移ってしまって、今は寂しいですよ。津波の被害を受けた場所と、そうではない場所とは全然感じが違いますね。ここはまだイチゴ団地ができたぐらいで、駅のほうも人が減っているし、商店がほとんどなくなったんですよ。吉田地区に人が集まる魅力も、まだまだできていないですね」

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被災した地区に住み続ける人は、人口が一気に減り、復興の資源や資本もなかなか投下されないと感じています。実はこれ、他の自治体でもよく聞く話で、特に山元町(やまもとちょう)は、集団移転先の住宅街にスーパーや店が集まり、学校や駅まで移転して集約したので、格差感は顕著に表れています。
 最後に町の中心部にある集団移転団地に行き、11年前に取材した、元漁師の菊池一男(きくち・かずお)さん(75)を訪ねました。荒浜地区にあった自宅は津波で全壊し、以前取材した時は隣町の借家で暮らしていました。漁港近くで新しい網を作りながら、菊池さんはこう言いました。

 「今まで長年、遠洋漁業で一生懸命働いて、家を建てて、一瞬でみんな津波に持っていかれるんだもの…呆然としたよ。何て言うんだか、悔しいね。孫は津波の後、4月12日に生まれたの。娘たちも大変だったと思うよ。だからもう一回、家を建ててやろうかなと思って…」

 その後、今から8年前に自宅を再建し、現在は、妻と母親、娘家族の4世代8人で暮らしています。

 「ここまで来るのには、いろいろ大変だったね。自分の持ち家に早く住みたいなって思ってね。やっぱり落ち着いたよ。近所も同じ境遇の人たちだから、窓を開けると“おう”なんて声をかけられたりして、だからいいんだね。今も仕事で荒浜は行くけど、自宅があった所は絶対行かない…嫌だ。本当みんな亡くなったんだ。母親の妹の家でも、俺の斜め向かいの家も、隣近所も津波に流されてずいぶん亡くなったんだ。家族も自宅のあった所には誰一人行かないよ。これからは自分の好きなように友達と飲んだり、旅行に行ったり、そういう生活を送りたいです」

町内の震災犠牲者のうち、荒浜地区だけで約半数を占めます。菊池さんの話には、被災地のリアルな心情が表れています。ちなみに今回は伝えきれませんでしたが、亘理町は漁業も盛んで、福島にも近く、福島第一原発の処理水放出は、目下、町最大の不安要因です。この点も付け加えておきます。