【キャスター津田より】6月24日放送「福島県 飯舘村」

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 今回は、福島県飯舘村(いいたてむら)です。原発事故で全村避難しましたが、2017年3月、帰還困難区域の長泥(ながどろ)地区を除いて避難指示が解除されました。また長泥地区でも、居住のため除染とインフラ整備を国費で進めてきた“復興拠点”(約186ha)で、今年5月1日に避難指示が解除されました。あわせて復興拠点外(未除染・約890ha)の長泥曲田(まがた)公園も解除されています(居住を前提としない土地活用の場合は解除できるという制度を適用)。
現在、村内居住者は人口の32%、1500人あまりで、その6割以上は高齢者です。避難指示の解除後は、新しい村営住宅が完成し、認定こども園や、村内の小中学校全てを統合した一貫校『いいたて希望の里学園』ができました。村唯一の医療機関『いいたてクリニック』が再開しており、去年、常勤医1人が着任して、訪問診療も始まっています。高齢者が運動や趣味を楽しむサポートセンターも併設され、訪問看護サービスの事業所や特別養護老人ホームもあります。福島市に本社があるスーパーが去年秋から移動スーパーのサービスを始め、生鮮食品など数百品目をトラックに積んで、高齢者宅や施設などを週2回巡回しています。ドラッグストアの新規出店も決まりました。
観光面の復興では、道の駅『までい館』が誕生し、村でとれたコメや野菜、特産品が並び、コンビニや小さな食堂、花の展示・販売スペースもあります。周囲には、花の栽培用のハウスやドッグランの他、複数の大型遊具や屋内運動施設を設置したレジャー広場も誕生しました。陸上トラックやサッカー場があるスポーツ公園、広さ4.7haのパークゴルフ場も新たにオープンし、オートキャンプ場や宿泊体験館『きこり』なども再開しています。

 はじめに、草野(くさの)地区に行き、花き農家の阿部猛(あべ・たけし)さん(75)を訪ねました。食料でない花は風評を受けにくいことから、震災後、新たに栽培する農家も現れ、移住して新規就農した女性もいます。阿部さんも以前は畜産農家でしたが、原発事故で牛を全て手放し、村に帰還後は花き農家になりました。“ハイブリットスターチス“という白く可憐な花を、年間約4万本も出荷しています。

「原発事故になった当時は、みんなでわーわー騒いでいたけど、“もう、そんなのもうどうでもいいべや”って感じだね。どうしようもないよな、事故になっちまったんだから。木が折れたら、それを直すことができないでしょう。それと同じだ。なったものはしょうがないから、これから先、いかにうまくやって生きていくかだ。いくらでも若い人が来て、明るい花を作って、年寄りを励ましてもらえれば、まだ違うんじゃないですかね。今より少しでもよくなれば、村も発展するんじゃないかと思います」

 原発事故前の全世帯、約1700世帯のうち、半数以上は農家でした。以前の規模には全く及びませんが、いま村内ではコメ、野菜、花の出荷が行われ、酪農や畜産も再開して、牛乳や肉牛の出荷も行われています。一昨年、もみの乾燥や貯蔵を行うライスセンターも完成し、中山間地向けのもち米「あぶくまもち」を、試験栽培を通じて特産化する取り組みも進んでいます。


 次に、二枚橋(にまいばし)地区に行き、国道399号沿いにある、去年オープンしたばかりの洋食レストランを訪ねました。オーナーシェフの佐藤雄紀(さとう・ゆうき)さん(32)は生まれも育ちも飯舘村で、今も村内で両親と暮らしています。シェフになって村で開業する夢を持ち、村外の調理専門学校に進みましたが、在学中に原発事故が発生して一度は夢を諦めました。10年間、県内各店で修業した後、村に帰還して開店。できる限り、地場野菜や飯舘牛など、村の食材を使うようにしています。

「“飯舘村に洋食なんか食べられるレストランができたんだね”とか、“おいしかったからまた来た”って言ってくださるお客様もいて、店をやってよかったなって思います。飯舘産のお米とか野菜は売れないっていう話は聞いていましたし、実際に土壌を変えながら、みんなが安全に食べられるように、農家さんが長いあいだ地道な努力をされてきた姿は、とても感銘を受けました。震災以降、元気がなかった飯舘をずっと見てきて、せっかくおいしい食材が飯舘村にあるので、そういったものをいろんな人に食べてもらって、食の分野で復興を盛り上げていきたいという気持ちがあります」

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さらに、飯樋(いいとい)地区に移動し、去年9月から宿泊施設を始めた方を訪ねました。大澤和巳(おおさわ・かずみ)さん(62)は元高校教師で、定年後、自宅の敷地内にある倉庫だった場所に、“ゲストハウス”という2階建ての宿泊施設を建てました。客室が3つ、宿泊客が集う共有スペースが2つと台所があります。食事は自炊で、初対面の客同士が会話を楽しみながら食べるそうです。窓の外には、里山と田んぼが織りなす日本の原風景が広がり、被災地支援を行う学生や復興について学ぶ学生など、主に大学生がリピーターとしてやって来ます。震災前、大澤さんは宿の隣にある自宅に3世代8人で暮していましたが、福島市に一家で避難し、幾度もアパートを住み替えました。

「アパートが小さいから全員でいられなくて、両親は両親、私たちは私たちで、もう離れ離れです。2017年に親父が亡くなり、その2年後に、家内とおふくろが立て続けに亡くなりました。3人とも、いずれは村に戻りたいって言ってたんだけど…。自分の家が、解体しないであるわけですからね。子ども4人は自立しているんで、私1人で飯舘村に戻って、亡くなった親たちの思いを少しでもつなげようかと思っています。震災後、誰もいなくなった自分の屋敷に、学生さんの賑やか声が響くんですよ。そうすると、亡くなった両親はこんなことを想像しただろうか…なんて思いますよ」

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 その後、震災後に完成したパークゴルフ場に行きました。この日は、避難で離れ離れになった高齢者76人による大会が開かれていて、6年前に取材した佐藤昇(さとう・のぼる)さん(75)と再会しました。以前会ったのは、約1200年の歴史がある綿津見(わたつみ)神社の例大祭の前日で、佐藤さんも避難先の福島市から準備に駆け付けていました。当時はこう言いました。

「6年もみこしを掃除せずにいたのは、残念です。原発事故がなかったら、できたわけですから。今年は神様も喜ぶと思いますよ。皆さんで力を合わせることができたのは、本当に一歩だと思っています」

 佐藤さんはその後も福島市で生活しましたが、4年前、飯舘村の自宅に戻ってきたそうです。

「向こう(福島市)に家をつくった関係もあって、やはり向こうも大事ですから、家内が福島で留守番して、今は離れ離れになっています。私も福島にいればいいんですが、村に犬を1匹飼っていまして、もう高齢なもんですから、なるべくここにいてあげています。まあ、それを終えれば、福島市に戻る考えはあります。やっぱり年を考えなきゃ…今75歳ですから。村は病院も遠いし、買い物も不便ですから、なかなか戻れないのが現状です。やっぱり避難先で暮らすしかない、っていうことですね」


 取材の最後は、先日12年ぶりに避難指示が解除された長泥(ながどろ)地区に行きました。短期宿泊や交流のための集会所や公衆トイレも完成していますが、生業だった農業の再生は道半ばです。長泥地区で生まれ育った鴫原清三(しぎはら・きよみ)さん(68)に聞くと、帰還希望はあるものの、現在も避難先の福島市で暮らしており、週に数日、長泥地区まで通っているそうです。

「家内は“もう、長泥には行かねえよ”って言うし、俺は“長泥に行きたい”って言うし…。ことし金婚式なんですけど、最後まで一緒に暮らすという気持ちがあるから、別々に住んでいられないしね。簡単に12年っていうけど、やっぱり悩むというか、苦しんできたのが実際です。福島市で暮らしつつも、地元がやっぱり恋しくて…。解除になっても、まだマイナスじゃないの。住めるようになったけども、ここで農業も何もできない。まだ夢も希望もないっていう、だから、まだマイナスでねえの。農業ができようになればプラスになっていくと思います。ここに誰も来なくても、長泥は俺が守るっていう一心で…夢はあるよ。前のように盆踊りをやったり、人の交流を持てる所にしたい」

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 長泥地区は震災前、75世帯が暮らし、国道沿いに桜やアジサイなどが咲く地区でした。避難指示が解除されたエリアの62世帯のうち、すでに多くの家屋は解体されており、残るのは10軒程度です。どれだけの住民が帰還するかは見通せません。現在は環境再生事業が進行中で、除染で出た土を再生資材化して盛り土し、さらに汚染されていない土で50㎝ほど覆って農地を造成します。一昨年から造成地の試験用水田(27アール)でコメの作付けを続けていて、収穫後の放射性物質検査や、田んぼの排水性や耐久性の機能を確認しています。同じことが野菜や花でも行われており、復興は途についたばかりです。