【キャスター津田より】1月14日放送「福島県 富岡町」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
年が明け、2023年になりました。今年も番組では、様々な場所に足を運んでいきたいと思います。

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  今回は、福島県富岡町(とみおかまち)の声です。富岡町は人口が約12000で、原発事故で全域に避難指示が出ましたが、2017年4月、約7割の町民が暮らしていた範囲で居住が可能となりました。町ではその後、災害公営住宅や双葉(ふたば)郡全体をカバーする2次救急病院、こども園、震災前の学校を統合した新たな小中学校、大型スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、ビジネスホテル、誘致企業の工場が集まる産業団地等々、次々とつくられました。町立図書館も再開し、去年4月には、フィットネスジムやカフェなどが入る施設と特別養護老人ホームが一体化した“共生サポートセンター”がオープンしました。農業も再開され、ブドウ栽培からワイン生産までを行う団体も活動しています。

 元日の朝、スタッフは日の出とともに、初詣の参拝者が集まる王塚(おおつか)神社に行きました。震災の地震の揺れで傾いた社殿は、 3年前に建て直されました。生まれも育ちも富岡町という氏子の60代の男性は、原発事故でいわき市に避難し、翌年には避難先に自宅を新築しました。王塚神社では正月に神楽が奉納されてきたそうですが、地域住民が避難で離散状態にあるため、原発事故後に奉納できたのは一度きりです。今年の秋祭りでは 3年ぶりの神楽奉納を目指しているそうです。

「神楽をやる人は、遠くから来て練習する、しかも50代ぐらいでまだ勤めている方もいますので、日程調整して練習するのはかなり難しいですね。避難期間があまりにも長過ぎて、向こうに生活の基盤ができてしまったので、富岡町に戻る機会は今後どうなのか…戻りたいけど戻れないです。お祭りとか郷土芸能を通じて、人の集まる場を作れればいいと思います。息子の代はどうなるか分かりませんが、私の代でできることがあれば、何とかふるさとを守っていきたいです」

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  その夜、この春に避難指示が解除予定の夜の森(よのもり)地区に行くと、桜並木などが 10万個の電球で飾られていました。様々な色の光が輝くとても美しい光景で、企画したのは観光協会の50代の女性です。震災翌年に家族で避難先のいわき市に移り住み、毎日町まで通勤しています。

「やっぱり人って、暗い所に行きたくないじゃないですか。温かみのある灯りがついていれば、人が来てくれるのかなって思って…」

女性は30年以上前に富岡町に嫁ぎ、3人の子どもを育てました。震災では、娘の帰宅時間に津波が発生。通学する電車が海のそばを走るため生存を諦めかけましたが、翌日、娘から連絡があったそうです。

「今は子どもたちもみんな結婚して、孫もそれぞれにいるので…。長男夫婦が同居してくれて、すごくにぎやかです。震災後、いろんなことがあったんですけど、子どもたちが生きていてくれて、それぞれに巣立ってくれて、孫も見られて、子どもたちには感謝です」

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  また、多くの町民に愛された中国料理店が避難先で営業中と聞き、いわき市へ行ってみました。創業45年で今も繁盛しており、不動の人気は“ニラレバ炒め”です。店主は30代の男性で、父の引退を機に店を引き継ぎました。父のもとで修業するなか震災が発生し、自宅は半壊、店は全壊でした。家族で避難先のいわき市に移り住み、2015年、市内に店を出しました。それまでは一時、茨城県のラーメン店や福島市の中国料理店でも働いたそうです。店舗の再開は、父親を元気づけるためでした。

「父は原発事故への怒りもあったんですけど、体調を崩しちゃって、寝込んで元気ない父の姿を見たくなくて…。でも、店さえ開けば父もやるだろうって思ったんです。震災という試練があって、俺の中ではよかったなって思います。というのは、ずっと富岡にいて父の隣で料理を見ていても、何となくいるだけだったので、修行としては成功しなかったんじゃないかな。年末に1万円のオードブルの注文があって、父にいろいろ話したら“勉強が足りなさすぎる”って言われたので、今年も勉強の年ですね」

 ここまで紹介した3人とも、住んでいるのはいわき市です。多くの町民は、避難指示が解除されないまま、別の自治体で生活再建しました。逆に今から町に帰還すれば、約12年かけて築き上げた現在の家や店、勤め先や通っている学校も全て投げうつことになります。実際いま町内に住んでいるのは住民登録者の約18%で、居住率の伸びは鈍化しています。町は移住促進に力を入れ、去年3月に“とみおかくらし情報館”という移住相談窓口を開設し、移住体験ができる2 LDKの“お試し住宅”も併設しました。避難中に解体した家も多く、移住者が借りる家を見つけるのは大変ですが、模索が始まっています。

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 その後、町中心部から外れた上郡(かみごおり)地区に行き、震災のひと月後に大玉村(おおたまむら)の避難所で会った夫婦を再び訪ねました。現在、ともに80代で、以前ご主人はこう言いました。

「裸一貫で来たもんですから、なにぶんと金が一銭もございません。私どもは何も悪いことはしておりません。何でこのような目に遭うのか分かりません。まるでこの生活は、刑務所に入れられた状況でございます。東電の責任の所在、それから国、責任を持ってこの問題を解決していただきたい」

 怒気をはらんだその声から、約12年…。夫婦は娘が建ててくれた富岡町の家で、静かに過ごしていました。長男夫婦は大玉村に自宅を新築し、2人は大玉村と行き来して暮らしています。奥様は“ふるさとはいい、ふるさとは涙が出る”と絞り出すように言い、目頭を熱くしました。ご主人はこう続けました。

「町の中、ガラーッとして誰も歩いてないでしょう。集会所、公民館、ふれあいの場の建物ばかりできて、中に人は不在…困ったもんです。今後どうなるんですか…町に親しみがないもの。情けないこと、悔しいこと、残念なこと、語りきれないほどの幾多の困難があったけど、これからはそういうことも一切含めて、明るい未来を若い人につくってもらいたいという願いです」

 さらに、帰還者や復興事業の関係者で連日にぎわうカラオケスナックがあると聞き、町中心部にある店を夜に訪ねてみました。店主は3年前に帰還した70代の女性で、震災前から秘めていた開店の夢を、70歳で叶えたそうです。震災前は40年以上、夫婦で理容室を経営し、夫とはカラオケなどの趣味も同じで、仲の良い夫婦だったそうです。理容室は原発事故で閉店し、8年前、夫は避難先で亡くなりました。

「お父さんと、社交ダンスの場とカラオケの場を作りたかった…夢だったんです。せめて歌のお店だけはやりたいなと…。息子たちは反対しましたけど、“やるっきゃないんだ”というのが私の信条でした。避難先では、足が地についていませんでしたね。意味、わかりますか? 帰ってくると、やっぱりふるさとって地に足がついているんですよ。自分の場所、居心地がいい場所、元気になれる場所です」

 常連のお客さんは、“悩みを発散する場所ができて、仲間と言いたいことも言い合って、今はすごく楽しくなってきた”とか、“原発の事故で子どもたちとバラバラになったのがやっぱりさみしいけど、歌をうたってみんなと騒ぐのが一番の原動力だね”など、口々に話していました。

 最後に、観光案内所で働く移住者がいると聞き、訪ねてみました。郡山(こおりやま)市出身の21歳の女性で、去年3月、避難中だった富岡町出身の男性と出会い、恋人の帰還とともに移住しました。

「何も知らない町で最初は不安があったんですけど、自分のことを本当の孫のように優しくしてくださる方がだんだん増えて、たくさんいて助かっています。震災当時は小学3年生であまり理解できてなくて、こっちに来てみて当時の人のことを思うと、涙が止まらないくらい、つらい思いになりましたね。“みんな富岡が大好き”っていうことを、いろんな人に伝わって欲しいと思っています。」

 女性にお願いして、恋人の男性にも会わせてもらいました。同い年の21歳で、仕事は電気工事業です。小学5年生までは千葉県で避難生活を送り、その後は郡山市で暮らしました。

「移住の決意を聞いて、一番はびっくり…あとは“ありがとう”と思いました。同級生で帰ってきたのは、おそらく僕くらいですね。もともと住んでいた僕には、何だか今の町は応急処置みたいな感じで、やっぱり寂しいのが一番強いです。今はまだ復興途中なんですけど、“これからの町”なんだっていうことを、外部の人、もともと住んでいた人、いろんな人に伝えていきたいです」

若いカップルが笑顔で今後の町のことを語る姿は、本当に救われる思いです。町内には今も帰還困難区域が残りますが、除染やインフラ整備が進んだ“復興拠点”(=夜の森地区を中心とした約390ha)は、この春、避難指示が解除される予定です。復興拠点内では、入浴や日用品販売をメインにした健康増進施設も計画中で、今年からコメの実証栽培も始まり、検査をクリアすれば出荷や販売が可能になります。町の最終目標は全域の除染と全域の避難指示解除で、次の世代のための町づくりに挑んでいます。