【キャスター津田より】12月17日放送「首都圏編」

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 今回登場するのは、首都圏で暮らす福島からの避難者です。復興庁のデータでは、福島県外に住む避難者およそ21000人のうち、約半分にあたる11000人あまりは、東京と近隣の6県に住んでいます(※11月1日時点)。集計上の扱いは避難者ですが、実態としては、すでに避難先に家を構え、定住している方がほとんどです。原発事故で国から避難指示が出た後、息子や娘、または親戚や知人が住んでいるという理由で、避難先に首都圏を選んだケースが大半です。

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まず、福島からの避難者およそ2400人が暮らす、東京都で取材しました。中野区で訪ねたのは、福島第1原発がある双葉町(ふたばまち)に住んでいた、80代と70代の夫婦です。ご主人は生まれも育ちも双葉町で、息子を頼って東京へ避難し、都営住宅に入居しました。双葉町の自宅は帰還困難区域にあり、年齢を重ねる一方で避難指示解除の見通しは一向に立たず、2015年、中野区にマンションを購入して永住を決めました(結局、解除されたのは事故の11年後の今年8月)。すっかり都会暮らしに慣れたと言うものの、お国訛りはそのままで、双葉町の自宅は解体して運転免許も返納したため、町には7年間帰っていません。ご主人は、退職金をつぎ込んで造園した見事な庭の写真を見せ、こう言いました。

「どうしても思い出すのは、この庭。広いですからね、今どうなっているのかな…。本当に残念ですよ。もう一度、双葉に行ってみたい気持ちはもちろんあります。本当に行けるなら、行きます。でも、行っても何も無いんですよね。正直、何を見るのかと言われると…でも、行ってみたいという気はありますね。私たちは双葉人です。お墓が双葉町にありますんで、もう最後は双葉の人間だ」

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 また、町田(まちだ)市では、南相馬(みなみそうま)市小高(おだか)区で、30年間美容院を営んでいた70代の女性を訪ねました。4年前、町田市在住で美容師の娘とともに、娘の家の隣に美容院を開きました。避難指示が出て娘の家に夫婦で身を寄せ、夫の病気が悪化して帰還を断念、女性は今も娘と暮らしています(避難指示解除は原発事故の5年後)。将来、娘や孫が帰還する可能性はなく、自宅は解体しました。しかし、美容院だけは残したそうで、目の前に“飯崎(はんさき)の桜”という樹齢400年の大きな桜があり、それを見られるように設計した自慢の店だそうです。

「営業はしないけど、やっぱり壊したくないんだろうね…。東京に来た時は、“どうやって暮らそう”って思ったけど、あんまり下向きなこと好きじゃないから、こっちでもお友達もつくって、体操教室とか行ったり、いま一番やっているのが、小学校で本の読み聞かせ。『かさ地蔵』の中に“爺(じい)は歌を歌って帰ってきた”というところがあるの。その時、“相馬~♪”って、『相馬流れ山』を歌うの。そういうふうに“楽しいこともある”と思わないと、生きていけないよ」

 女性は去年、久しぶりに振袖の着付けを行い、小高区での日々を思い出して涙が流れたと言いました。
そして、東京駅から電車で1時間の千葉県茂原(もばら)市へ向かい、3年前にオープンしたパン店を訪ねました。避難指示が出た浪江町(なみえまち)で20年間営業していた店で、父と息子がパンを作っています。20代の息子は高校2年生の時、避難者を受け入れていた新潟県へ両親と避難しました。佐渡島(さどがしま)の高校に編入しましたがクラスになじめず、大変苦労したそうです。東京の製菓専門学校で学び、埼玉県のパン店で修業する中、後継者を志す姿を受け止めた父は、一度は諦めた店舗再建を決意しました。浪江町の避難指示解除は見通しが立ないため、土地を探して千葉に移り、茂原市内に店舗兼自宅を新築しました(避難指示解除は原発事故の6年後)。新店舗の看板は、浪江町の店の看板を忠実に再現しています。今では茂原市民に浸透し、各地に住む浪江町出身者からも注文が入ります。

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「専門学校の授業を受けるうちに、パン作りって奥深いなっていう興味が単純に湧いたんです。浪江の店の看板はすごく思い入れがある看板なんで、その看板をもう一度掲げたい、もう一度店をやりたいと思いました。父に“パン屋をもう1回やりたい”と話したら、“一緒にやっていこう”と言ってもらったんで…。昨日も、注文があった浪江の人にパンを送りましたね。店のインスタグラムを見て、“探していました!”って何回も言われたりします。浪江で築いたものって、すごくでかいんだなと思います」

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 その後、茨城県に避難した方々を取材しました。茨城県には約2500人の、福島県からの避難者が暮らしています。まず、つくば市で、浪江町出身の60代の夫婦を訪ねました。避難指示が出た後、つくば市の大学院に通う息子のアパートへ避難しましたが、ご主人は職場が再開したため、車で毎日福島に通勤しました。奥様がたった一人で過ごす時間が増える中、つくば市主催のサロンで、ともに孤独感を抱える福島県からの避難者と交流を深め、2012年に避難者の会を結成しました。今なお毎月開催の茶話会や行楽イベント、新春芸能鑑賞会やクリスマス会なども行っています。奥様はこう言いました

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「浪江にいた時は、町を歩けばいろんな知り合いの方と、“こんにちは”と言って歩いていた状態から、 ある日突然つくばに来て、“誰も話す人がいません”となっちゃって、それが何か月も続いて、本当に先がどうなっちゃうんだろうっていうのが、つらかったですね。会に行けば皆さんとお話できますので、そういうのがだんだん自分の栄養になって、会のおかげで元気をもらえました」

2012年から、ご主人はつくば工場で工場長を務めるようになり、5年前にはつくば市に家も新築しました。浪江町への愛着から自宅は残したままでですが、ご主人はこう漏らしました。

「現実問題として、果たして“戻れるの?”って言うと、我々ももう、だんだん年齢を重ねてきている訳ですし、かなり難しくなっているんだろうなとは思っています」

 そして、同じくつくば市で、大熊町(おおくままち)から避難した60代の女性を訪ねました。町内でピアノ教室を開いていましたが、避難指示が出て東京に住む長男宅へ夫婦で避難し、さらに都営住宅に移りました。ご主人は建設業との兼業農家で400年以上続く旧家の跡取りです。福島第1原発がある大熊町への帰還は断念し(避難指示解除は今年6月、原発事故の11年後)、土地を探して、7年前につくば市に新居を建てました。つくば市から大熊町までの道路が比較的分かりやすく、カーナビに頼らず一時帰宅ができるのが気に入ったそうです。ご主人は大熊町の自宅解体を最後まで渋り、結局は受け入れたものの、一時帰宅を繰り返す中で体調を崩しました。3年前、心不全のため67歳で他界しました。

「主人は家を守るように小さい頃から育てられてきたので、東京で生活するのは考えられなかったですよね。なんか無気力状態で…。共倒れになると思ったので、私は避難先の近くでピアノをお借りして、練習に行っていました。主人は解体の話になると、どっか行っちゃうとか、機嫌が悪くなるとか…。私もつらかったですけどね。孫がいま3歳ですけど、主人はその顔も見ることができませんでした。主人は大熊に眠っています。もちろん、帰りたかったんですから。“おとうさん、孫も元気に生まれて後継ぎができました。よかったね”って伝えたいです。夫は1月に亡くなって、8月に孫が生まれたので、何となく生まれ変わりのような気がするの。すごく似ているもんですから」

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 最後に、つくば市役所に近い住宅街で、富岡町(とみおかまち)から来た70代と60代の夫婦を訪ねました。奥様のほうが富岡町の生まれです。避難指示が出た時はご主人が神奈川県川崎(かわさき)市に単身赴任中で、奥様は福島県内を転々とし、ご主人が住む川崎市の寮に移りました。すぐ帰れると思って自宅に残してきた愛犬が、今も心に残っているそうです。やがて、みなし仮設住宅として賃貸マンションに移りましたが、家賃補助も不十分に感じ、社会から取り残された気分だった言います。年齢を重ねる中で帰還への不安が増し、富岡町の自宅は解体して、5年間暮らした川崎市を離れ、つくば市に一軒家を購入しました。先につくば市に家を建てた、富岡町の同級生に誘われたそうです。新居を構えた後、富岡町の自宅のある場所では、避難指示が解除されました(原発事故の6年後)。

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「友達とは子育ても一緒だったので、彼女を頼って来たっていうか、近くにいたら富岡の生活に戻れるかなあなんて、そんな思いもありました。“やっぱり富岡に帰りたいな”、“何でここにいるんだろう”と思っちゃう…今まで言わなかったけど、最近よく言うよね。主人に叱られるんですけど、やっぱり富岡が…戻る人もだんだん増えていますしね。あと10年若かったら帰ったかな。“富岡にあるお墓に入るからね”って、子どもには言っています。“体はつくば、心は富岡だな”って、いつも思っています」

首都圏に暮らす皆さんは、一様に“都会の暮らしに慣れた”と言います。でもそれは自分から進んで慣れたのではなく、慣れるしかなかった、自分の希望と関係なく慣れさせられた、というのが正確な表現でしょう。今回紹介したような人生がこの国に存在するという現実を、皆で再確認すべきです。