神・淡路大震災 25年
記憶と教訓を次の世代に

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で25年です。神戸市など大きな被害を受けた地域では遺族らが地震が起きた午前5時46分に黙とうし、犠牲者を悼みました。

神戸市中央区の公園「東遊園地」には、およそ5000本の竹の灯籠が「1.17」や「きざむ」という文字の形に並べられました。

会場には、まだ暗いうちから、家族や大切な人を亡くした人たちが訪れたほか、震災後に生まれた若い世代の姿も見られました。

そして、地震が起きた午前5時46分に静かに手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげました。

公園の慰霊碑の前では神戸市が主催する追悼の集いが開かれ、当時47歳だった母親の美智子さんを亡くした上野好宏さん(47)が追悼のことばを述べました。

遺族代表 追悼のことば(全文)

上野さんは東京に住んでいた大学4年の時に震災が起こり、神戸市東灘区の実家が倒壊して母親の美智子さんを亡くしました。今では両親から受け継いだすし店を営んでいます。
上野さんは次のように追悼のことばを述べました。

「お母さんへ。お母さんが天国へ旅立ってから今日でちょうど25年。いやな地震があった日やね。あの日の夜中にスキーから帰ってきて電話したん覚えてる?『正月、神戸に帰ってなかったから1月末に帰る』って言おうと思ってん。お母さん股関節骨折してて、1階で寝てたな。『そろそろ2階でお父さんと一緒に寝えへんの』って聞いたよね。『お父さんかぜ気味でうつったらあかんからきょうは下で寝るわ』って言ってたよね。僕も『そうし』って言うてしもた。こん時のこと、今もやっぱり後悔してんねん。まさか、そのあと地震がくるなんて思ってなかったし、まさか、自分の家がつぶれるなんて思ってなかってん。怖かったやろ、痛かったやろ。お母さん、布団を頭からかぶってたみたいやもんな。あの日、ずっと家に電話しててんけど、ずっと話し中。お母さんおったらすぐ連絡くれるはずやのに、おかしいなって思っててん。次の日、おばさんから『お母さん埋まってるいうてんのに、あんたなにしてんの』って電話かかってきて。びっくりして、すぐに神戸に帰ってん。大阪はいつもどおりに見えたから、もしかしたら大丈夫かも、って思ってん。けど、家に近づくにつれ、見慣れた風景がボロボロで、悪い夢見てるみたいやった。なにが起こったかわからんかった。つぶれた家を見て、ただ立ってるだけで、言葉がなんも出てこんかった。お葬式はお父さんの田舎でやってもらってん。お母さん、死んでしまったんやっていう実感があんまりわかんかってんけど、眠るように横たわっているお母さんが、火葬場で白い骨になってもうて。『お母さん死んでもうたんや』って涙があふれてきた。僕は4月から茨城県でアイスクリームの営業することになってん。神戸を離れて生活してると、地震があったことがうそみたいや。だって頭の中にはつぶれる前の家があるし、お母さんもちゃんとおるし。頭の中では前の神戸のままやねん。あるときお父さんに『年とったらどうするん?サラリーマンしてたら僕、将来神戸にいる可能性低いで。僕のおるところに来る?』って聞いてん。ほんならお父さん、『お母さんが亡くなったこの場所を離れられへん』って言うねんな。そん時に、これで神戸に帰らへんかったら一生後悔することになるって思って、神戸帰ってお父さんと一緒にすし屋しよって決めてん。すし屋することに、まったく抵抗はなかってん。だってお母さんと約束してたやん。東京の大学行ってもええけど、もしお父さんになんかあったら大学辞めてすし屋して、弟と妹に学校行かせてあげてって。それで会社辞めて神戸に帰ってん。ほんでお母さんも知ってるあの娘と結婚してん。毎日、毎日お父さんに教えてもらいながら、魚や包丁やおすしの勉強や。ゴルフも教えてもらったんやけど、こっちはあまり上手にならんかったわ。地震のあと、お父さん一人で店も子育てもよう頑張ってくれてん。感謝、感謝やな。お母さんの名前から一文字ずつもらった娘たちは、元気に育ってます。弟も妹も、それぞれに家族ができて、元気やで。お店は3年前に建て替えで移転してん。その時にたまたまお父さんのがんが分かって。移転してまもなくそっちに行ってしまいました。お父さんに会えたかな?新しいお店でも、お母さんの書いた値段表使ってるよ。それが僕のおすし屋さんする原点やから。僕もお母さんが亡くなった年と同じ47歳になり、とうとうお母さんの年を超えていきます。家族みんなで、一日一日頑張っていきます。遠くから見守っていてください。目を閉じるといつも、『よっちゃん、がんばり、がんばり』っていうお母さんの声が聞こえます。お母さん、いつも支えてくれてありがとう」

「これからも語り継ぐ」

兵庫県小野市から娘を連れて訪れた女性は「震災では父を亡くしました。震災がなかったら父に孫の顔を見せられたのにと思います。25年はあっという間に過ぎてしまいました。ここに連れてくることで娘にも地震の怖さを感じてもらえると思っています」と話していました。

また、大阪から訪れたという40代の男性は、大学生の時に同級生を震災で亡くしたということで「震災を経験していない人が増えてきていますが、毎年ここを訪れてこれからも震災のことを語り継いでいきたい」と話していました。

各地で追悼の祈り

兵庫県内の各地では、地震が発生した午前5時46分に合わせて追悼の祈りをささげる集会などが開かれました。

神戸市中央区の諏訪山公園では、トランペット奏者の松平晃さん(77)が地震が発生した午前5時46分に合わせて、復興支援ソングの「花は咲く」を演奏しました。

松平さんは諏訪山公園で平成11年から毎年、犠牲者を追悼する集会でトランペットの演奏を続けてきました。

この集会は主催団体の担当者らが高齢化したことなどから去年で最後になりましたが、「トランペットを吹きたい」という松平さんの意向を受けて、「1.17のつどい」の実行委員会が支援して、17日の演奏が実現したということです。

松平さんは「あっという間の25年でした。暮らしが元どおりになる方向に進んでいることを願って奏でました。トランペットを吹けるかぎり、この地に来て演奏を続けたい」と話していました。

5人の児童が亡くなった小学校では…

西宮市の高木小学校では、震災で5人の児童が亡くなり、正門の脇には追悼と復興への願いを込めて、「復興の鐘」と名付けられた直径およそ30センチの2つの鐘が設置されています。

17日の朝は児童や保護者、それに地域の住民などおよそ200人が集まり、児童の代表2人が鐘を5回鳴らして亡くなった児童を悼みました。

鐘の下には5本のろうそくが立てられ、集まった人たちは手を合わせて静かに祈りをささげていました。

5年生の息子を連れて訪れた50代の男性は「毎年、参加していますが、子どもには命の大切さを伝えていきたい」と話していました。

震災当時、校長だった荒巻勲さん(81)は「震災の記憶を後世に残すためにもモニュメントを作ってよかったと思います。これからの世代には震災の教訓を生かしてほしい」と話していました。

兵庫県淡路市の「北淡震災記念公園」には、地震で地表に現れた野島断層の一部が保存され、犠牲になった人たちの慰霊碑がたてられています。

17日朝は遺族などおよそ200人が集まり、公園の池に竹で作った灯ろうを浮かべて淡路島で亡くなった63人を悼みました。

ことしは地域の住民や大学生が作ったはすの形をしたライトが会場に並べられたほか、竹の灯ろうを並べて「あわじ」の文字が作り出されました。

そして午前5時46分に慰霊碑の前で黙とうしました。

このあと集まった人たち全員で犠牲者の追悼と復興への思いを込めて「アメージンググレイス」を合唱しました。

合唱に参加した淡路市の74歳の男性は震災で祖母を亡くしたということで「前向きに生きることを大切に震災から25年を過ごしてきました。きょうは家族で元気に過ごしていますと亡くなった祖母に報告しに来ました。若い世代には自然災害はいつ起きるか分からないということを伝えていきたい」と話していました。