戦後、ある動物園に大きな3点の壁画が飾られた。
子どもも大人もその絵に見入った。
描かれていたのは、"いなくなった動物たち"。
これらの絵は、動物園と戦争の記憶を今に伝えている。
名古屋市美術館の1室。
幅5メートルにおよぶ3点の巨大な絵画が飾られている。
描かれているのは世界各地に生息する動物たちの姿。
シロクマやペンギンが氷上にたたずむ「北極・南極」。
雄々しいトラが密林にほえる「南方熱帯」。
雄大な草原をゾウやライオンが進む「アフリカ」。
絵の名前は《猛獣画廊壁画》。
描かれた背景には、ある動物園の歴史がある。
名古屋市の「東山動植物園」。
中心街にほど近い緑豊かな公園に位置し、週末には多くの家族連れでにぎわう。
開園は戦前の1937年。
290種を超える動物が飼育され、来場者数は年間150万人以上。
"東洋一の動物園"と呼ばれた。
多くの子どもが動物とふれあい、市民の笑顔にあふれる場所だった。
しかし、動物園の日常は突然奪われる。
1941年、太平洋戦争が開戦。
工業都市の名古屋は、アメリカ軍による空襲の標的となった。
東山動物園には、当時の記憶が刻まれた場所がある。
動物園の茶谷副園長が案内してくれたのはライオン舎。
戦前から残る数少ない施設の1つだ。
副園長が手にしている、戦時中に撮影された1枚の写真。
ライオンに銃口を向ける様子が写っている
東山動物園 茶谷公一 副園長
「空襲がひどくなってきた1944年の12月に、"やってください"というお願いをして、猟友会の方に銃で撃っていただいたんです」
戦時中、各地の動物園が直面した"猛獣処分"だ。
空襲で動物が逃げ出し、市民に危害を加えるのではないか。
戦況の悪化に伴って、処分を求める世論は強まっていったという。
名古屋を大空襲が襲った1944年12月13日。
東山動物園でもライオン、ヒョウ、トラ、クマが射殺された。
東山動物園 茶谷公一 副園長
「今もそうですけど、動物園で飼育している動物って家族と同じなんです。とはいえ猛獣と呼ばれる動物もたくさんいます。家族であっても、それが人に危害を加えてしまってはならない。それだけはなんとか避けたい。ものすごくつらい決断だったと思います。われわれでも想像がつかないくらいの気持ちで、この場所にいたんだと思います」
戦前には1100以上もの飼育数を誇った東山動物園。
食糧不足による飢えなども加わり、戦争を生き残ったのは、2頭のゾウ、チンパンジー、鳥類など、わずか20ほどだった。
多くの命を失った動物園に、終戦から3年後、ある計画が持ち上がる。
失われた動物たちを画面いっぱいに描いた壁画を作ろうというものだ。
当時の新聞には、このプロジェクトに込めた園長の思いが記されている。
北王英一園長のコメント(1948年10月2日付 中京新聞より)
「やがて大画面に躍動する憧れの猛獣群に見とれる子供達の輝いた顔を想像するだけでも、私の胸は躍る。満たされぬ心への糧ともなればこれに越したしあわせはない」
この計画に、当代一流の3人の画家が賛同する。
共に名古屋市在住だった太田三郎と水谷清。
そして、昭和を代表する洋画家・宮本三郎。
戦争で動物に関する資料も少なくなっていたが、限られた情報を元に絵筆を進めた。
わずか1か月の制作期間で完成した3点の壁画は、「猛獣画廊」と名付けたかつてのカバ舎に飾られた。
1948年11月、壁画の公開日には数万人もの人々が動物園を訪れたという。
この時の写真が残っている。
子どもも大人も、キャンバスの上によみがえった動物たちを夢中になって見つめている。
東山動物園 茶谷公一 副園長
「いろんな動物が"隠し絵"のごとくちりばめられているので、当時の人たちは"ここにこんな動物がいるぞ"と、探しながら見たんでしょうね。戦前はものすごく多い動物種を飼っていたので、たぶんイメージとしてはこの壁画のような動物園だったと思うんです。戦争が終わって荒廃した名古屋市の、特に子どもたちをどうやって元気づけようかという気持ちが、この絵にたくさん込められていると思っていますね」
戦後の社会に光をともした3点の壁画。
作者の1人、宮本三郎は当時、東京に住んでいながらこのプロジェクトに参加した。
なぜ、名古屋の動物園の壁画作りに関わったのだろうか。
宮本に詳しい世田谷美術館の橋本副館長を訪ねた。
橋本氏が指摘したのは、宮本と戦争との関わり。
宮本は戦時中、軍部の依頼を受け、従軍画家として「戦争画」を制作していた。
"戦意高揚"を目的とした絵だ。
当時の宮本を写した1枚の写真がある。
背景に写る絵は、宮本の戦争画の代表作、《山下、パーシバル両司令官会見図》。
日本軍がイギリス軍に降伏を迫る"勝利"の歴史を記録する作品だ。
この写真は展覧会場で撮られたものだが、右上には「天覧」の札が貼られている。
世田谷美術館 橋本善八 副館長
「天皇陛下がご覧になったものには『天覧』の札が掲げられましたが、"同じものを見る"ということ自体が、庶民にとっては大変な栄誉ですよね。絵の内容も日本が降伏を迫る場面ですから、これは一般の人たちからすると非常に感動的な出来事だったんだと思います。日本の当時の組織構造、社会構造をうまく使ったプロパガンダですよね」
宮本は陸軍・海軍それぞれから委嘱を受けて数多くの戦争画を手がけ、その作品の評価によって画家としての地位を築いていった。
その一方、橋本氏が注目するのは、宮本が戦時中に描いた別の絵だ。
タイトルは「飢渇」。
傷を負い、飢えと渇きに苦しむ日本兵の姿は、"戦意高揚"とは異なる印象を抱かせる。
橋本氏は、戦地を見つめた宮本には複雑な思いがあったのではないかと話す。
世田谷美術館 橋本善八 副館長
「この絵では、傷ついた兵士が、"命が絶えるかもしれない"という思い詰めた表情を、地面に広がる水たまりに映して自分自身で見ている。心の中にある苦しみや悲しみ、あるいは残忍さ。戦争の負の部分が確実に出ていますよね。
きっと宮本さんは戦地で、蹂躙(じゅうりん)された土地や人々の暮らし、そこで人が命を亡くして、文化がなくなっていくところを見ていたと思います。だけど"実際に見てきたこと"と"描いていいこと"は違ったはずです。表に出せる時代ではなかった。それは自分の中に、1人の人間の中にたまり続けていたんだと思いますね」
その宮本が、戦争画の時代を終えて向き合った作品。
それが東山動物園の壁画だった。
1人の画家として戦後の社会に何が出来るか。
描いたのは、青空と草原が一面に広がるアフリカの大地。
そして、たくましく生きる動物たちの姿だった。
世田谷美術館 橋本善八 副館長
「画家として戦後社会とどう接点を持つかということは、自分なりに責任を持って考えなければいけなかったと思います。ある種の絶望感とか、虚無感、そういうことに日本中が浸されてしまっている中で、動物園の壁画作りは、希望につながるようなプロジェクト、そういうふうに宮本さんの目に映ったんじゃないかなという気がします」
猛獣壁画は戦後、動物園に生き物が戻り、かつてのにぎわいを取り戻す中で、自然とその役目を終えた。
現在、名古屋市美術館に収蔵されているが、各所には傷みや汚れが広がっている。
戦後77年を迎えたことし、この絵を後世に残そうと、修復プロジェクトが始まった。
現在、愛知県立芸術大学の絵画修復の専門家が修復に向けた調査を進めている。
来年度には修復を終え、当時の状態に近づいた「猛獣壁画」が公開される予定だ。
名古屋市美術館 井口智子 学芸課長
「絵の力は、見る人にいろいろなことを想像させてくれることだと思います。それは、動物たちのことも、描いた人のことも。どうしてこんな大きな絵が描かれたんだろうと考えてもらえければ、そこからまた歴史を振り返ることができる。私たちは今それを受け継いだので、今よりもいい状態にして、動物たちを見てどう感じるか、ぜひ実際に見て頂きたいです」
戦争に奪われた動物たちの命。
復興と平和を願った人々。
その思いが込められた壁画が後世に引き継がれていく。
河合哲朗 記者(NHK名古屋)
2010年入局。前橋局、千葉局、科学文化部・文化担当記者を経て、2021年から名古屋局。東山動植物園は「年パス」で通っています。推し動物は北園のアメリカバイソン。
「ちょうどこの写真。壁の形からすると、この位置かなと思いますね」