NHK長崎 雲仙・普賢岳噴火災害の復興に尽力 宮本秀利さん
- 2022年11月30日
平成2年からおよそ5年半にわたり続いた雲仙・普賢岳の噴火活動。大火砕流や土石流が発生し、島原市では最大で7200人余りが避難生活を余儀なくされました。
長年、この災害からの復興に力を尽くしていたのが、雲仙市の造園業、宮本秀利さんです。宮本さんはことし7月にがんで亡くなりました。11月、宮本さんをしのぶ会が開かれ、関係者が別れを惜しみました。
復興に尽力の宮本秀利さん
雲仙市の宮本秀利さんは、造園業を営むかたわら、▼平成2年に始まった雲仙・普賢岳の噴火災害では、ボランティアの受け入れや仮設住宅の支援にあたったほか、▼去年は43人が犠牲になった大火砕流から30年に合わせて、当時の報道陣の撮影ポイント「定点」に犠牲者を追悼し、教訓を語り継ぐための記念碑の整備に力を尽くしました。
宮本さんをしのぶ会
11月23日、「宮本さんをしのぶ会」が島原市で開かれ、遺族や生前のボランティア仲間、それに報道関係者らおよそ30人が参加し、始めに黙とうをささげました。
参加者ひとりひとりが宮本さんの写真パネルを前に、宮本さんとの出会いや印象に残っているエピソード、それに別れのことばを述べました。
宮本さんとともに「定点」記念碑の整備にあたった安中地区町内会連絡協議会の阿南達也会長
「30年が経過したから報道陣の慰霊をする場所を作っていいのではないかと思い、関係者に相談をしながら定点を整備しました。そのとき、宮本さんの助言は身にしみるほど参考になりました」
宮本さんとともに「定点」記念碑の整備にあたった雲仙岳災害記念館の杉本伸一館長
「宮本さんは『定点』に亡くなった人への祈りと感謝の気持ちを込めた『合掌』というモニュメントを寄贈しました。きっと『地元の子どもや地元以外から来た人に教訓をしっかりと伝えていけよ』と思っているのではないでしょうか」
宮本さんの妻の新子さん
「夫は『愛する土地を守りたい』という思いで噴火災害からの復興に取り組んできたと思います。そうした思いが次世代に繋がって欲しいです」
取材後記
私は平成6年生まれで、大火砕流が起きた3年後に生まれました。4年前に長崎局に新人記者として着任し、雲仙・普賢岳の噴火災害の教訓を取材してきました。
大火砕流が起きた当時、報道陣は、避難勧告が出ていた地域内にある「定点」と呼ばれる撮影ポイントにいました。地元では、今でも報道関係者への批判や不信感が根強く存在します。
平成から令和に時代が移り、去年「定点」が整備された背景には、阿南さんや宮本さん、杉本さんを始めとする地元の人々の尽力がありました。
「定点」を追悼の場所とするだけではなく、2度と同じ災害を繰り返さないために教訓を伝える場にして欲しいという宮本さんの願い。
宮本さんの訃報に接し、災害報道に携わる一員として、宮本さんの願いを忘れてはならないと改めて噛みしめました。