ページの本文へ

NHK宮崎WEB特集

  1. NHK宮崎
  2. 宮崎WEB特集
  3. ベリーグッドマンMOCAさん~音楽でつかんだ夢の甲子園~

ベリーグッドマンMOCAさん~音楽でつかんだ夢の甲子園~

NHK宮崎「てげビビ!」 辻本彩乃キャスターがインタビュー
  • 2024年01月24日

ボーカルグループベリーグッドマンのメンバーMOCAさん(大阪出身)。
かつて宮崎県の強豪校・延岡学園で、甲子園を夢みました。それから17年が経った、2023年。当時、叶わなかった甲子園に音楽の道でたどり着きました。いまの気持ちは?そして音楽活動の源流になっているという高校時代の体験とは?曲にこめる思いは?胸の内に迫ります。(てげビビ!キャスター 辻本彩乃)

音楽でつかんだ夢の甲子園

2023年11月18日(土)、阪神甲子園球場を3万人で埋め尽くした
3人組ボーカルグループベリーグッドマン。
3人の力強くストレートな楽曲は「パワーソング」と呼ばれ人気を集めており
多くプロ野球選手の登場曲にも起用されています。

11月18日のライブのようす
ベリーグッドマン(左からHiDEXさん、Roverさん、MOCAさん)

MOCAさんの原点 母校「延岡学園」

(延岡学園正門前にて)
―どうですか、門の前に立つと。
そうですね。楽しかった思い出とつらかった思い出が両方押し寄せてくる感じで。校舎とかも全く変わってないんで。

グランドは全く変わらず

大阪で野球少年として育ったMOCAさん。
中学時代の打撃が評価を受け、延岡学園からスカウトされました。

もともと中学で野球を辞めようと思ってたんです。甲子園のベンチに入れるか、試合に出られるかって考えたら、自分みたいなやつができると思ってなくて。塾に通って普通に入試を受けようと思ってました。そんな時「延岡学園で野球やってみないか」とスカウトの方から電話がかかってきたんです。

最初の電話で断ったんです。「僕もう野球辞めるんで、行きません」って言って。でも親に話したら、「1回行ってみたらいいんちゃうの。甲子園は夢やったし、レギュラーなれるか関係なく、行ってみたらええんちゃうの」って、母親の後押しがあって。それで一度、延岡に来たんです。

JR延岡駅にて

僕、大阪でずっと育ったので、のどかで、すごいいいところやなあと思って、冒険心がわいて。
「あ、やってみようかな」って決意して、大阪に帰ったので、家族もびっくりしてましたね。

―実際に入部してみてどうでしたか?
1年生の初日のバッティング練習。僕はもう全然打てない。そもそも中学では軟式をやっていて、硬式に全く慣れてない。みんなはバチバチ仕上げて来ていて「終わった」と思いました。

練習が終わって、公衆電話から母親に電話しました。「これやばいかもしれない」と。「レギュラーどころの話じゃない」と。「ベンチ入れるか危ういわ」っていう話をした時に、(母から)「絶対帰ってきたらあかんで」って言われたんすよ。「何があっても3年間自分が決めた道やねんから、やり切って帰ってきなさい」みたいな。「それは僕ももちろんわかってるよ」「そういう話がしたいんじゃない」と。「とんでもないところに来てしまったかもしれない」なんかそんな感じでしたね。初日は。

思い出の公衆電話(電話機はかわっている気がするとMOCAさん)

う~ん、「甲子園いけるんちゃうか」っていう感覚はあんまりなくて、3年間やりきれるか、いけそうかなって感じでしたね。

めちゃめちゃ最初不安だったんですけど、ご飯とか作ってくださる寮の方、同級生のお父さんお母さん方が、特に遠方から来てる僕たちみたいな子をめっちゃサポートしてくれました。「ちゃんと飯食ってるか」「なんか食いたいやつあったら言えよ」とか。そういう感じで。ありがたかったですよね。

野球部での猛練習

入学した延岡学園は全国から優秀な選手が集まる、県内有数の野球の強豪校。
当時部員は75人。しれつなレギュラー争いが続きました。
一日でも休んだらレギュラーになれないんじゃないかみたいな気持ちで、とにかく頑張ってたし、誰よりも練習したし、誰よりも声出していた、といいます。

 

2006年の延岡学園野球部の練習風景

冬はタイヤ押しっていうのをやっていて。タイヤには雨水が入っているんですよ。こんな風にそのまま押す。水が入っているので、どろどろになって、どんどん重くなっていくんですよ。これを20往復とかするから、もう立てないんですよ。筋肉痛というか、もう筋肉爆発したんじゃないかっていうような練習。「地獄の練習(笑)」、むちゃむちゃ厳しかったんです。

「こんな風に押すんです」

「一日でも休んだらレギュラーになれないんじゃないか」みたいな。自分をとことん追い込んだ期間だったんです。朝練はもちろんですけど、練習終わってからも9時10時までやってたのかなって思います。暑い中、どろどろになりながら練習して。もう、痛いとか言ってられないみたいな。

―レギュラーは狙っていた?

う~ん。1年生の夏、3年生が引退してすぐ新チームが発足するんです。その時にはAチームBチームに、セカンドで入れたりはしたんです。けど、試合でめっちゃ緊張して、飛んで来たらすぐエラーしてね。その後も「『県大会』はレギュラーをつかむけど、『九州大会』ではベンチに入れず、応援」そんな奴でしたね。

期待込めて使ってもらえるんですけど、全く結果出せないタイプやったんで。その1回のチャンスをつかめるかつかめないかで、大きく変わるんでね。
ーそれは自分にとってはつらい記憶になっている?
そうですね。なんでこんなに精神的に弱いんだろうとか。練習やればやるほど下手になっている気もするし、つらいなっていう感じでしたよね。

試合出てなかったですねえ。どっちかっていうと(グラウンドを整備する)いつもトンボをかけてて、自分専用のトンボをやすりで研いで、めっちゃええ整備できるようになってましたね。(トンボに)命かけてね(笑)。中学までは本当にアウトになった記憶がないくらい、やれてたんですけど・・・。

(音楽の世界に飛び込んだあと)ライブでなかなかお客さんが入らないとか、鳴かず飛ばすの時間も長かったですが、そんな時でもあの高校時代を乗り越えられたんやから、絶対いけるっていう、なんかそういう自信は満ちあふれてましたね。「なんでお前そんな自信満々なん」みたいに言われましたが、それぐらい叩き込んでもらえたというか。

最後の夏につかんだ背番号

猛練習を重ねた延岡学園はMOCAさんが3年生となる2006年、春夏連続甲子園出場という快挙を成し遂げました。

まあなんか3年生になったときにちょっと吹っ切れてる部分も出てきてて、これもうベンチ入りは最悪無理やなと。春も無理やったし、夏(チームが甲子園に)行けても無理なんじゃないかという自分と、頑張ったら(レギュラーに)いけるっていう自分がいました。

3年生の春までは、(メンバーを)監督が選ぶんですけど、最後の夏は投票システムというのがあったんです。僕たちの学年、3学年で75人くらいいたんですけど、僕なぜか満票で。投票第1位で。「え、俺背番号1番ちゃうん!?と思ったんですけど」やっぱりそこの大きな軸の審査基準みたいなところはあって、そこから背番号は監督が改めて発表する。ベンチ入りの発表があって、背番号渡されるんです。19番「甲斐」。あと一つ。20番「金山」(MOCAさんの本名を呼ばれて)「はいっ!」て。
レギュラーメンバー陣のためにやってる姿を同級生も後輩も見ててくれたのかなっていうのもあって、「まぁこいつはベンチに入れたい、入れてあげたい」って思ってくれてた証というか。それはもう「ああ3年間一生懸命やってきてよかったな」っていうのはありましたね。

果たせなかった甲子園

夢の甲子園球場。しかし、グラウンドにMOCAさんの姿はありませんでした。

MOCAさんの背番号は20番。
当時、甲子園は18人しかベンチに入ることはできなかったのです。

僕は20番で最後に背番号をもらえたんですけど、喜びもあるけど、甲子園に行けたとしてもベンチに外れるという、宣告でもあった。夢は叶ったようで叶っていないというか。なんかその真ん中に自分がいなかった。切なさみたいなのは今でも覚えてますね。

「頑張ったからといって結果が出るっていうものじゃないな」って気づけた。とにかく頑張ってたし、誰よりも練習したし、誰よりも声出して、みんなのために頑張ったけど、結局うまくはならなかったし、最後甲子園出た時もベンチに入れなかったんで。それはまあ「頑張ればいいだけじゃないんだ」っていうのは思いましたね。「世の中ってもうそうなんかもしらん。結果出さなあかんねや」っていう厳しさは、高3の時で叩き込まれたかなと思います。

かといって、その背番号をもらえない人たちもいるから、なんかすごい複雑でしたね、仲のいい友達が。ベンチ外れて泣いてて。自分も入れたけど「(甲子園に)行ったとしたら外れるんだろうな」というところと。そこはもう、心はめちゃめちゃ荒れてますよね。18歳にしては結構残酷というか。

ーその後、野球とのかかわりは?

その後は、草野球もやらなかったですし、高校野球も、プロ野球もですけど、ちょっと見られなかったというか。
オーダーで作ったグローブも、たぶん誰かにあげましたね。
野球で負けたという思いが強すぎて「もっとこうやってたら行けたんじゃないか」みたいな気持ちが湧いてくるのも嫌だった。「もう自分には関係のないものだ」と思おうとしていたというか。

俺は、野球で、この延岡学園で負けたって思ってたんで「卒業してからは何か結果を出さないと」「もう負けたくない」っていう(気持ちだった)。僕以外にもベンチ外れたメンバーはそう思ってただろうし、そういう約束も交わして、最後卒業して地元に帰っていった。

音楽との出会い

そんなMOCAさんに運命が訪れます。
野球部を引退したMOCAさんは、自動車の教習所に通っていました。ある日教習が終わって野球部の部室でテレビを見ながら「人生どうして行こうかな」と考えていたときのことでした。

部室に当時、テレビと低い二人掛けのソファみたいなのが置かれていて、そこでテレビ見てました。迷ってた時でまだ音楽やろうとも思えてなかった。

AYUSE KOZUEさんていう女性のアーティストのミュージックビデオが流れていて「めっちゃかっこいい曲だな」と。そして、その人が「作詞作曲を自分でやって、パソコンで自分で音を打ち込んで、ひとりで曲作ってます」みたいなことが放送されてて「うわ~これやりたいかも」と思って。でちょっと調べてみたんですよ。携帯で調べて「大学どこ行こうか」調べてたら、「パソコンで音楽ができるところが関西にある」ってなって。その調べた次の日くらいにオープンキャンパスがあって、それで行ってみたんです。次の人生がここから始まったみたいな。不思議な。「やってみようそれ!」って思えたのは本当この時ですね。 
―それまでまったく音楽を目指してはいなかった?
ほぼ情報がなかったというか、野球部引退するまでも野球一色というか。高校1年生の時にDef TechっていうアーティストのライブDVDを見て「めちゃくちゃかっこええな!音楽っていうのは!」とは思ってたんですよ。遠征に行く車でも、当時はMDでしたけど、音楽はとにかく唯一安らげるというか、力が湧き上がってくるみたいな、自分にとっては大切なものだった。でも自分ができるとも、やることになるとは思ってなくて。

(実際に音楽活動を始めて)卒業して音楽の道に行っても鳴かず飛ばずかいっていう。「まだ負けの延長線上におる」みたいな感じでしたね。教員免許の資格が取れる大学で「最悪、音楽無理やった時に先生になろうか」と思ってました。延岡学園ですてきな先生方に出会えて「自分もいつかこういう教師になりたいな」という思いもあったけど、(いま振り返ると)「甘えがあった」というか、「自分のなかで保険」というか。「俺、教員免許持ってるから」っていうのをたぶん言いたかったんでしょうね。当時、何もなさすぎて。ベリーグッドマンやるまで本当の意味でもがき続けていました。

MOCAさんにとって応援とは

野球と決別し、高校卒業後は音楽の道へ。
しかし曲作りの根底に流れていたのは野球部での経験でした。
そして聞く人の背中を押す「パワーソング(応援歌)」を歌うグループとしてプロ野球選手の登場曲にも起用されるなど、アスリートからも支持されるようになっていきます。

―ベリーグッドマンさんたちは歌が応援歌とかパワーソングとか言われて
いろんな人を励ましたり、鼓舞したりしていると思うのですが、
そのことと、高校時代での経験はつながるんですか。

激励の思いは、まさにあの時と気持ちは一緒で、アルプススタンドで応援していた時間の方が長かったんで、誰かのために声を枯らすっていうのは嫌いではなかった。

僕生徒会長やってたんで、夏の甲子園の前に、体育館の2階から、18人を激励するために「フレーフレー」ってやったのを覚えてますね。

―生徒会長だった?
「野球は無理やったけど伝説は残そう」と思ってたんで、生徒会長になったらおもろいなって。まわりからもはやし立てられて、で、立候補してみんなの投票で生徒会長になったわけなんですけど、「なったからには何か残さな」ということで、誰にもお願いされてないけど、朝の挨拶運動というのを一人で始めて、門に立って朝から「おはようございます!」ってでかい声でやるみたいな、そういうなんかおかしなことをやってたので、(体育館で激励した時も)「やらなあかんな」っていうモードでしたね。
―(自分が逃したレギュラーを激励する)時の感情は?
生徒会長としてやり切るっていう。誰にやれとも言われてないけど、生徒会で僕がアイディアを出して、送り出そうということで、Vの字になって7人ぐらいの生徒たちでやりましたよ。
「嬉しい」のに、すぐに「情けない」「悔しい」っていうそっちの感情に戻るというか。でもそれをみんなの前では見せられないので、明るくふるまって、頑張っていこうな~っていうのはやるけど、むちゃむちゃ心は泣いてましたね。

本業というか野球をやりに来てんのにっていう思いも当時はあったので、その悔しさのなかで応援する。「ほんまの意味で応援できてたのか」って考えてみるとちょっとわからないところもある。

そしてベリーグッドマンの歌へ

(音楽は)自然に湧き上がってきたものが「結果そうだった」って感覚が近くて、なんか自分でもちょっとわからないというか。19歳の時に作った「No rain,No rainbow」って曲があるんですけど「過去があって 今があるから 雨がやんで 虹架かるから」っていう。「高校のつらかった経験があっても、さあここから人生に虹かけていくぞ」みたいな曲なんです。なんか1曲目がそういうメッセージソングというか、応援歌だったんで、その時から今なお変わってないというか。自分の中から出てくるのがそういうメッセージだったという感覚です。

本当に負けを知っているからこそ、強い気持ちで今も誰かのために声を枯らせていられるし、
本当にこう延岡学園の高校3年間で、たくさん負けを教えてもらえたのは、今の音楽人生に確実につながっているというか。
なんか同じように苦しんでいる人もたくさんいると思っているんで。その人たちに刺さってたらいいなと思います。

音楽でつながった夢の甲子園

そんなMOCAさんに、ことし思わぬ形で夢への切符が届きました。甲子園でライブを行うことになったのです。今度は主役として甲子園の土を踏むことになりました。

―実際甲子園でのライブが決まってどうでしたか?
素直にうれしい。「映画が出来るんちゃうか」っていうか、「誰にも見てもらわんでも、自分で作って自分で見るように作ろうかな」って思いました(笑)。「こうやって形を変えて夢って叶うんだ」というか。

同時に、高校野球をやっていた時から春と夏にしか立てない特別な場所だと思っていたので、やっぱり選ばれた人しか立てない場所で、中途半端な気持ちで立ってはいけない場所だと思いました。甲子園の初戦であり、最後の夏の甲子園決勝戦みたいな、そんな熱い気持ちでした。

ベリーグッドマンのメンバーRover、HiDEXと不思議な縁で出会って、もう本当に野球部時代と同じ部活動をやっているようなノリで3人で頑張ってきたので、高校時代に果たせなかった甲子園。「チームとしては行ったけど、その球場には入れなかったという、その悔しさはようやく晴らせる時が来たな」っていう。「なんか最高に幸せな人生を歩めているな」っていう。

11月18日(土)甲子園ライブ当日。会場は3万人で埋め尽くされました。
野球部での経験をストレートに表現した曲「夢物語」も披露。

甲子園ライブの舞台

会場に駆けつけた同級生

甲子園ライブ当日は、野球部の同級生も駆けつけました。みんなで集まるのは高校以来で、まずはみんながMOCAさんに「ありがとう」という気持ちだったといいます。

ライブに駆け付けた同級生のみなさん

その中の一人が甲斐達雄(たつお)さんです。高校時代MOCAさんとレギュラー争いをした甲斐さんの背番号は19番。20番のMOCAさんと同じく甲子園の土を踏むことはできませんでした。今は延岡市で夢だった飲食店を営む甲斐さん。MOCAさんとは、卒業後も連絡を取り合い、互いに夢へ向かう気持ちやつらい胸の内を打ち明けてきました。甲斐さんは「高校卒業して4年くらい経ってMOCAは淡路島で海の家でバイトをしながら下積みというか、ライブをしたり、音楽活動をしてたんです。僕はその時ちょうど居酒屋の修行で熊本でちょっと苦しんでる時で、ちょっと連絡してみようかなと思って連絡してみたら、MOCAも苦しんでる時で、本当に嘘偽りのない言葉でいつも励ましてくれた」と言います。

MOCAさん(左)と甲斐達雄さん(右)

今回ライブのために「甲子園」に行った甲斐さんも、高校時代の時の悔しさが浄化されたような、気持ちになったそうです。そして「MOCAも僕も第二の人生で自分の道をしっかり、確実に進んでいて、僕も大きな夢を持って頑張っていきたいな」と思わせてくれたと話します。

チームメイトと延岡への感謝

その瞬間を一生懸命頑張ることによって、その時いい結果が出なかったとしても、この人生のどこかの瞬間で、輝く瞬間が待ってるよっていう。あの経験がなかったら誰かを励ます音楽なんて作ろうとも思えてなかったと思うので、本当にもう延岡学園と延岡の町には感謝でいっぱいですね。

てげビビ!ポーズいただきました
  • 辻本彩乃

    てげビビ!キャスター

    辻本彩乃

    音楽が大好きです♪

ページトップに戻る