【てげ探!】旧県営野球場の“気になる木”番外編
- 2022年09月12日
視聴者の疑問に答える「てげ探!」
再開発に向け更地となった宮崎市の旧県営野球場に、1本だけ、大きなクスノキが残されています。
かつて球場を囲むように並んでいた木立の、最後の1本です。前回は、「あの木が気になる」との調査依頼を受け、その起源などを調べましたが、今回はその番外編として、木に見守られて羽ばたいていった球児たちの”知られざる物語”を「てげ探」しました。
宮崎の球児を見守ってきた ”聖地の象徴”
球場のシンボルとして親しまれてきた、1本のクスノキ。半世紀以上、宮崎の球児たちを見守ってきました。
つい先日(2022年8月)、38歳にして独立リーグで現役に復帰した寺原隼人さんも、その一人です。
2001年、日南学園のエースだった3年夏。甲子園で当時の最速記録を更新し、プロへの道を拓いた寺原さん。
実は、その夢舞台への切符を旧県営野球場で争った、最後の世代。大きな木の記憶も鮮明に残っています。
寺原隼人さん(プロ野球選手)
僕の中では"休憩する場所"。下級生は日向、上級生は日陰。断然、日陰で食べるお弁当のほうがおいしいですよ。
いまも現役を続けられるのは、あの場所での経験があるからだと、寺原さんは言います。
寺原隼人さん(プロ野球選手)
負けた印象の方が強いので、正直悔しい思い出しかないですね。あそこで甲子園出場を決められなかったのは悔しい。やっぱり良い思い出だけじゃなく、そういう負けた苦い思い出というのも、人生の中では大事ですし大切なことなので。あそこが僕の"スタートライン"かなと思います。
”あの木”の下で… 亡き友との絆
あのクスノキに、「仲間との思い出」を重ねる元球児もいます。
宮崎南高校出身の奥野豊一朗さん。
プロ野球で活躍し、12年前に37歳の若さで亡くなった、あの木村拓也さんと同級生です。
奥野豊一朗さん
木の下でみんなでミーティングしたのを覚えています。負けると長いんですよね。ここでよく『拓也』とケンカ、言い争いもしましたよ。あのプレーはこうだこうだって。
当時、入学直後から活躍しすぐに主力になった木村さんには、”妬ましさ”すら感じていたと言います。
奥野豊一朗さん
足をケガした時も、監督さんが「無理するな、交代しようか?」と言ったら、拓也が「いや、もう走らないんで」と言ってスタンドに入れて、歩いてホームインした。あれだけ野球うまいのにまだ練習するんですよ?「クソ~」っていう思いもありましたよね。
卒業後プロへと進み、広島などで輝かしい功績を残した木村さん。一方奥野さんは、高校までで野球を辞めて、22年間地元の少年野球チームで教えてきました。2人が37歳のある時。プロを引退しコーチとなる前の木村さんが、奥野さんに助言を求めてきました。
奥野豊一朗さん
かたやプロでこっちは少年野球なんで、「いやいやいや!」と言ったら、「プロよりも大変な少年野球、子供を教えるその側面、そういうところから教えてくれ」って。
「要は人間関係。僕は大人で相手は子供でも、ここも人間関係がしっかりしてないと教えることができない」ってことを拓也に伝えたら、「ああそれだ!」って言って。
実績におごらず、イチから学び直そうとする木村さんの姿勢に胸打たれた奥野さん。野球の枠を超えて木村さんのような人間を育てるのが、新たな夢です。
景色は変わっても ”つながり”は消えない
いつも奮い立たせてくれた友をなくして、12年。
木村さんの父・茂夫さん、母・よし子さんを、”俺たちの両親”と慕う奥野さん。野球がくれたつながりを、生涯大切にしたいと考えています。
木村よし子さん(故 木村拓也さんの母)
なんであの木がまだあるんだろうね。
奥野豊一朗さん
なにが一番思い出があるかって言ったら、やっぱり甲子園決まった時?俺はベンチ入ってなかったけど~
あの頃と景色は変わっても、”つながり”は消えない。
奥野さんはこの日、木村さんに、「あの球場はなくなったよ」と語りかけました。
奥野豊一朗さん
たぶん拓也は「えー!?」って言ってると思います。でも、あの景色だったり、匂いっていうのはやっぱり、頭の中だったり心の中にしっかりと残ってますんで。拓也もそう思ってると思いますね。
今回たくさんの元球児にお会いしましたが、みなさんが思い出を楽しそうに語ってくれたのが印象的でした。こうしたエピソードが埋もれてしまわないように、取材して残していきたいと感じました。