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2024年4月1日(月)

住民が撮った“極限” 「未公開映像」で検証する能登半島地震

住民が撮った“極限” 「未公開映像」で検証する能登半島地震

「もうあきまへん下敷きになってます…」石川県珠洲市の自宅で生き埋めとなりその後救出された男性が撮影した映像には、命の危機が差し迫る極限の状況が映し出されていました。発災から3カ月、被災者自らが撮影したこうした“未公開映像”の存在が次々と明らかになっています。あのとき被災地はどんな事態に追い込まれ、何が生死を分け、そこから得られる教訓とは何なのか。記録を残した被災者とともに振り返り、被害の実像を検証しました。

出演者

  • 桑子 真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

「未公開映像」が明かす 能登半島地震の教訓

桑子 真帆キャスター:
極限の状況を被災者みずからが記録した映像。被害の実態を埋もれさせたくないと、3か月がたった今、私たちの元に次々と寄せられています。何が生死を分けたのか。そこから得られる教訓は何か。埋もれていた貴重な映像から迫ります。

15時間自宅の下敷きに 住民が撮った“極限”

「もうあきまへん。下敷きになってます。助けてください。台所の前の廊下に埋もれています」

石川県珠洲市で、倒壊した自宅の下敷きになった男性。
命の危機が差し迫る中、撮影した映像がありました。
生き埋めになって、およそ5時間後。

「何がどうなっとるの」

折れた柱や、むき出しのくぎ。スマートフォンのライトがついて、初めて周囲の状況が明らかになりました。

「胸に何かが載っていました。柱か梁(はり)かですね。脇腹にも2本載っていたみたいで。もうだめなんかなと」

15時間にわたり、自宅の下敷きになった巽通敏さんです。

桑子
「なぜ、この状況の中で撮ったんだと?」
巽通敏さん
「私も映像の仕事していますから。もし亡くなっても、データが残っていれば記録とか残りますから。どこかで皆さんに知ってほしかった。生き埋めになる怖さというのは」

地元のケーブルテレビの番組制作に携わる巽さん。元日も撮影に出ていました。

巽通敏さん
「正月らしい風景を収めようと思って、蛸島漁港行ったり、見附島行ったりしたんです。疲れたなと思って(自宅で)横になっていたら、いきなりグラグラきましたから。(撮影の)準備して下まで降りたんです。一眼レフ置いていたので。それ取りに行こうと思ったら、2回目の揺れがきて、立ってることも座ってることもできなくて、倒れ込んだところに柱とか落ちてきたみたい」

救助を要請しようとするも、電波は圏外。

巽通敏さん
「119が多いです。消防署と」

大津波警報を知らせる防災行政無線が鳴り響き、諦めそうになることもあったといいます。追い詰められる状況の中、何が生死を分けたのでしょうか。

巽通敏さん
「取り乱したらだめです。動揺すると、興奮したりして(心が)やられるかも分かりませんから。冷静になれというのは無理と思いますけど、落ち着かないとだめです」
巽通敏さん
「手を伸ばしたら、棒切れがあったんですよ。祭り太鼓ですね。祭り好きですから、“キリコ”を動かすときのリズムで気晴らししていた」

能登地方伝統のキリコ祭り。巽さんも毎年参加してきました。太鼓のリズムを刻むことで、気持ちをつないでいたのです。

そして、深夜1時過ぎ。腕を限界まで伸ばすと、僅かにスマホの電波が入る場所がありました。高台に避難していた兄・好弘さんに助けを求めることができました。

兄 好弘さん
「電話がかかってきて、『どこにおる?』って聞いたら『家にいる、助けて』って。どこにいるか分らんし、声出したら、ドンドンってたたく音がしたので」
巽通敏さん
「みんなが呼ぶ声がしましたので、助かるんだと思って。危険承知で来てくれましたから、感謝しかありません」

極限の状況を生き抜いた巽さん。壮絶な体験が、心身に影響を及ぼしています。

巽通敏さん
「1~2時間寝て、目覚めたりして、寝たつもりでも目覚めますから。病院の検査もだめです。MRIとか」
桑子
「狭い、暗い中に入る」
巽通敏さん
「狭いし。1回検査入ったんですけれど、やめてもらって。だめだめだめって」

みずから進んで見返したくはないという映像。それでも、3か月がたち、今後の教訓として生かしてほしいといいます。

巽通敏さん
「やっぱり撮ってよかったなと思うようにしないとだめですね。自分で見るのは嫌ですけれど、人に見てもらって、地震が起きたら躊躇せず、すぐ逃げてほしいというのがあります。いろいろ迷ったりしたら、こういう生き埋めになりますから。すぐ避難ですね」

津波が迫り来るその時

迫り来る津波の脅威も記録されていました。

SNSに投稿された、このドライブレコーダーの映像。
車を運転していた男性が、今回、初めてカメラの前で当時の状況を明かしてくれました。この地域には、大津波警報が発令されていましたが、防災行政無線は聞こえてこなかったといいます。

車を運転していた男性
「放送も何もなかったです。隣の人が『津波来るぞ』っていう話で、みんな高台に逃げたわけで。けっこう訓練とかは、ずっとここ何年かはやっていましたので」

高台へ避難しようとする道の途中、つえをつきながら、ゆっくりと歩く女性の姿が。男性は慌てて声をかけます。

男性
「地震が起きたのに(高台に)あがらなきゃ。波きたから行かないと、乗って」

女性を介助しようと車を降りた時、後方から津波が。

男性
「乗せるのが精いっぱいで、おばあさん足が悪いから、抱えるようにして乗せたものだから、波が迫っていたから無我夢中で」

なんとか女性を乗せ、ドアを閉めるまもなく発進。

集落一帯が津波にのまれる中、間一髪、高台へ逃れることができました。この地区では、津波が高さ4.7メートルにまで達したと見られています。それでも住民同士が声をかけ合い、津波で亡くなった人はいませんでした。
映像をSNSに投稿したのは、運転していた男性の息子、濱近朋紀さんです。

濱近朋紀さん
「こういう惨状が知られていないと思うので、広めたほうがいいだろうということで(SNSに)投稿した」

津波に襲われた状況を伝えるべきだと思ったのは、地震の翌日に投稿した、こちらの映像が注目を集めたからでした。

濱近朋紀さん
「1月2日に投稿したら、取材ヘリが上空を映してくださって、それでやっと、ここがこういう状態なんだと分かって、一気に支援が来たというのがあって。やっぱりそういう情報って大事だなと」

「未公開映像」孤立集落

今回の地震、各地で発生したのが集落の孤立でした。電気や水、通信など、ライフラインが断たれた過酷な状況も、住民によって克明に記録されていました。そこには、どんな教訓があるのか。

「地震発生から何分たった?10分たってないか。高台にみんな逃げています。潮が見にくいが、だいぶ引いています」

住民およそ100人が、11日間にわたり孤立した珠洲市高屋町。

「2日目は、ガス欠の車も増えてきちゃっているので」

建物は倒壊する危険があったため、氷点下の中、車中泊を強いられていました。
当時の状況を記録していた、番匠さとみさんです。食料の確保のために向かったのが、隆起して海底があらわになった海岸。

番匠さとみさん
「サザエはいると思うよ」

たくさんのサザエが手の届くところにありました。

番匠さとみさん
「この海藻の上を見ていたら、絶対いるだろうなと思って見たら、やっぱりタコがいて、まだ新しかったし、臭いはしない。すぐ洗って、持っていこうと思って。ごはんも釜を持ってきてる人もいて、木を切ってくれて、火を起こして、直接、火で炊いて、ごはん作ってましたね」

さまざまな工夫を重ね、食料を手に入れた住民たち。一方で悩まされたのが、情報不足による混乱でした。

番匠さとみさん
「自衛隊がガソリン持ってくる話が出て、船で。高屋町と隣町の人たちがいっぱい来て、車がすごく並んで大渋滞。2~3時間待ったら、全然違って、『体調の悪い人を優先にヘリコプター乗せますよ』と。結局ガソリンは当たらなくて(もらえなくて)。みんな携帯が通じてないから、すぐに確認取れないし、口伝えでやっちゃうと、訂正するのにもすごく時間かかってしまう。だからもう、適当なこと言っちゃだめだめって」

そして、孤立から11日目。住民たちは限られた情報の中で重い決断を迫られます。

「行政のほうでは、できるだけ高屋100人出てほしいと言っています」

ようやく道路が開通したものの、再び土砂が崩れ、孤立するおそれがあったため、集落から脱出することが急きょ決まったのです。
しかし、この時点では、避難先も避難する理由も分からなかったといいます。

番匠さとみさん
「なぜ、それ(避難)をしなきゃならないのか、頭の中ついていけなくて、あとでテレビ見て、二次災害を防ぐため出ようというのを理解した。ちゃんと説明を、こういうことがあるのでと説明してくれていれば、早く納得いけてたかも」

地震から3か月。およそ100人いた住民のほとんどは、今も集落を離れたまま。別の地域で暮らす決断をした人もいます。番匠さんは、孤立していた時の写真を複雑な思いで見返しています。

番匠さとみさん
「みんなと過ごすのは、これが最後かもと思ったし、あれ以上に地元の人が集まるのはもうない。いなくなってく。もう一気に過疎になったので。どうなるのかなと、先を考えると難しいですね」

「未公開映像」が語る “集団で生き抜く”ヒント

桑子 真帆キャスター:
今回、私たちに寄せられた記録の中には、穏やかな表情で肩を寄せ合う記念写真もありました。この場所は、震度7の揺れに襲われた輪島市の道の駅。たまたま居合わせた80人の観光客が、5日間、孤立する事態に見舞われました。極減の状況で、なぜこの1枚が生まれたのか。そこには、災害を集団で生き抜くヒントがありました。

能登半島随一の観光名所、白米千枚田(しろよねせんまいだ)。海沿いの急斜面を切り開いた美しい棚田が広がっていました。しかし、唯一の交通ルートが土砂崩れで寸断。地元住民だけでなく、観光客80人が孤立状態に陥りました。
金沢市在住で、千枚田を訪れていた兵吾桃花さん。夫と幼い子ども2人と被災しました。

「地震です」
「怖い」
「大丈夫、大丈夫」
兵吾桃花さん
「下の子は覆いかぶさって、ギャーと泣いて、上の子は怖いと言って半泣きでした」
地元の区長 白尾友一さん
「観光客の方がもうあちこちに車から出て、どうしよう、どうしようと。本当に困っている」
白尾真紀子さん
「緊張感のある雰囲気だったよね」

見ず知らずの観光客80人の孤立。地元の住民が道の駅にあった食料や山の湧き水を配り、飢えをしのぐ、緊迫した状況が続いていました。その空気を徐々に変えていったのが、愛知県から観光に来ていた8人の若者たちでした。

地元の区長 白尾友一さん
「(見た目は)最初はちょっと声かけづらいなと思ったんですけれど、飲料水もくまないといけないし、ちょっと声かけたんですよ」
白尾真紀子さん
「一言声かけたら『はい!』みたいな感じでね。すごい元気だし、なんか救われた」
水野翔太さん
「よく怖いとか言われることは多々あるので、そういうのも僕は気にしつつ、知らない土地で知らない人たちと、電波もない状態で、ごはんもない状態。その状況は、かなりまずい状況だったので、もうやれることはすべてやって仲間に入れてもらおうと」

孤立した人たちの団結が一気に高まったのが3日目でした。

地元の区長 白尾友一さん
「(地元住民で)寝たきりの方が1名いて。酸素吸入されている方で、ボンベのガスが、その日の(午後)4時までしかもたないと」

救助のために、上空までやってきたヘリコプター。

「ずらして、車ずらして、着陸できないから」

しかし、駐車場には持ち主のいない車が何台もあり、着陸することができません。

「あー、もう」

その時、車関係の仕事をしていると、みずから名乗り出たのが水野翔太さんでした。

水野翔太さん
「いつも事故車だとか、故障車を扱っているので、見慣れた光景」

水野さんの指揮のもと、着陸場所を確保。寝たきりの住民は無事救助されました。

広くなった駐車場で若者たちが始めたのが、子どもたちとのサッカー。

兵吾桃花さん
「子どもが楽しそうにしているのを見て、自分もすごい気が晴れて、軽くなって」
水野翔太さん
「まだ小さいので、夜も泣いたりすると思うので、昼間だけでも子どもの面倒を見て、ちょっとでも親御さんたちが休めたらいいなと思ってました」
地元の区長 白尾友一さん
「ここでサザエ焼いたり、魚焼いたり」
白尾真紀子さん
「そのころになったら、道の駅のスタッフとか観光客関係なく、みんながアイデア出し合って、ここにあるもので使えるものを使ったりしながら、みんながてんでん(それぞれ)にできることをやって」
地元の区長 白尾友一さん
「つらい中でも楽しかった」

そして5日目。救助のへリが続々と到着し、観光客は全員避難できることに。

「ありがとう。頑張ろうぜ」

別れ際に撮影されたのが、この集合写真でした。

兵吾桃花さん
「みんな赤の他人だったんですけど、朝が来たら『おはようございます』とあいさつしてたし、みんな『ありがとう、ありがとう』と言って、感謝しながらやっていた。そうやってやれば、みんなでつらいことも乗り越える」
水野翔太さん
「10歳の男の子から手紙。『水をくみにいってくれたり、遊んでくれてありがとうございました』僕たちはヤンキーに見えたらしいですけど、『あなたたちみたいな、かっこいいヤンキーになります』と書いてあります」

あの日々から3か月。千枚田はあちこちに亀裂が入り、担い手の農家も市の外に避難したままです。
孤立した観光客の支援に当たっていた区長の白尾友一さん。道の駅で寝泊まりしながら、復旧作業に当たっています。

地元の区長 白尾友一さん
「今年で復活とかって、そんなこと全然考えてないし、2年かかろうが3年かかろうがやりたいなと思っている」

災害の過酷な実態を映した当事者たちの記録。それは、被災した人たちのつらい記憶そのものでもあります。記録を残した人たちは、今どんな気持ちでいるのでしょうか。

兵吾桃花さん
「自分が何もできなくて情けなくて、そこの感情がすごい残っていて。あの怖さの地震ひどかったなとか、いい人たちだったなとか、こういう経験したからこそ、いろんなことに感謝して生きていかなきゃいけないなと。何かできることはないのかなと、いつも思っています」

能登半島地震3か月 続く住民たちの“記録”

被災者による映像の発信は、今なお続いています。
珠洲市に住む、竹下あづささんです。2月末、SNSに発災当時からほとんど変わらない街の風景を投稿しました。


インスタグラムより
“復興してます”的な報道が増えているようですが
現地はとても“復興しています”とは言えません
竹下あづささん
「3月入る前後ぐらいで急に(支援が)引いてしまった、いなくなった印象があって」

ボランティアの人たちの受け入れ態勢を少しでも整えようと、竹下さんは、自宅を宿泊先として開放しています。

竹下あづささん
「滞在先がないからボランティアに来られない方が非常に多いので、体の負担も考えると、本当にうちでよければという気持ちで使っていただいています」

自分たちにできることは、被災地の現状を伝え続けることだと竹下さんは考えています。

竹下あづささん
「やっぱり被災地の声が全国的に届いていない。だから最近支援に入ってこられた方が『こんなにひどかったんだね』って驚かれるケースがけっこう多くて、そこのギャップがいちばんもどかしくて。そこはうまく発信して、つながっていけたらいいなと思っています」

住民たちが、今伝えたいこと。


「復興の形がどんな風になっていくのか
不安を抱えているのも事実です」

(白尾友一さん・真紀子さん)

「私は食堂をしていますが、今年は通常営業ができないかもしれません」
「6月以降は素もぐり漁が始まりますが、隆起した海の中の海産物が気になっています」

(番匠さとみさん)

そして、自宅で生き埋めになった巽さん。撮影したのは、住み慣れた街から見た風景。


「たとえ倒壊していても
我が家の前からみる夕日は
いつもと変わりありません」

(巽通敏さん)
見逃し配信はこちらから ※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

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