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2023年8月2日(水)

「はだしのゲン」はなぜ “消えた”?

「はだしのゲン」はなぜ “消えた”?

戦後78年を迎えた2023年、広島市の平和教育副教材から漫画「はだしのゲン」が削除され波紋が広がっています。原爆が投下された広島で、戦中戦後の苦難な時代を生き抜こうとする少年を描いた同作は、累計発行部数1,000万以上。世界各国で読み継がれてきました。そんな「はだしのゲン」が、なぜ削除されたのか?情報公開請求で入手した膨大な改訂記録や、議論に関わった市教育委の担当者・教員たちの証言から、知られざる背景に迫りました。

出演者

  • 草原 和博さん (広島大学大学院教授)
  • 桑子 真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

「はだしのゲン」はなぜ削除されたのか?

桑子 真帆キャスター:
78年前、原爆が投下され、その年だけで14万人が犠牲になったとされる広島。
「ほかの誰にもこんな思いをさせてはならない」という被爆者の願いと平和を求める市民の心をもとに、広島市では平和教育を教育の原点に掲げてきました。

漫画「はだしのゲン」は、作者の中沢啓治さんが6歳の時に被爆した実体験をもとにした作品です。
原爆投下直後の広島の変わり果てた街の様子、苦しみ亡くなっていく人々、そして主人公ゲンが戦後の広島を懸命に生き抜く姿が描かれています。
そこに中沢さんが込めたのは、子どもたちに逆境の中でもたくましく育って欲しいという願いでした。

そうした思いも受け継ぎながら、10年前、平和教育の教材に「はだしのゲン」を採用した広島市の教育委員会。2023年、差し替えることになったのは、なぜなのか。そのプロセスをたどると、教育現場が抱える深刻な課題が浮かび上がってきました。

削除された背景に何が

今回、論争の的となったのは「ひろしま平和ノート」。広島市教育委員会が独自に作る教材です。

小学校から高校まで、年間3時間。広島市立のすべての学校で計画的に平和教育を進めようと、10年前に導入されました。

先生
「何を奪ったんだろう。原子爆弾と戦争は?」
児童
「多くの命だと思います」
児童
「心を奪ったんだと思います」

この平和ノートの小学校3年生で扱われてきたのが「はだしのゲン」です。

8月6日、ゲンが家族を失う場面。ゲンの気持ちを想像し、原爆によって引きさかれる家族について考えます。しかし、今回の改訂でこうした内容がすべて削除され、新たな題材に差し替えられたのです。

教育委員会は「はだしのゲン」を削除した理由について「現場の教員から出た課題に対応するため」だとしています。

広島市教育委員会 指導第一課長
「現行と新たな素材のどちらがより使いやすいかという観点から見直すこととしたものでございます」

ただ、現場の教員からは今回の決定に疑問の声も聞かれました。

広島市立小学校 教員
「なんでだろう。そこだけですね。職員室では『あれを教えたかったのに』という声も聞かれました」
広島市立小学校 教員
「家族について考えるという意味では、僕はすごくいい教材だなと思って。ゲンが削除された理由が、いまいち納得がいく説明になっていない」

広島市の小学校の教員を対象に、NHKはアンケート調査を実施。

「はだしのゲン」について「効果的でないと感じる部分もあった」が36%。「効果的な教材だった」と回答したのは61%でした。

ゲンの削除はどのように決められていったのか。情報公開請求で改訂に関わる会議の資料を入手。独自に分析を行うと、これまでの教育委員会の説明とは異なる側面が浮かび上がってきました。

改訂に向けた議論は2つの会議を経ています。まず行われたのが、これまでの教材の課題を洗い出す「検証会議」です。大学の研究者や学校長、現場の教員など15名が集められました。

「検証会議」では、ゲンが家族を助けるために浪曲を歌うシーンなどは「子どもには理解が難しい」と課題を指摘する意見もあがりました。しかし、こうしたシーンも「補足すれば理解できる」として、子どもたちにとって身近なゲンは教材として使用できると話し合われていたのです。

検証会議に参加した教員
「削除しようというところまで話にはなってないと思います。はだしのゲン自体は、ぜひ読み継がれてほしい。子どもたちもよく読んでいるので、大事にしたい教材であることは確かだなと」

しかし、現場の教員を除いたメンバーで議論する「改訂会議」が始まると、教育委員会側は「ゲンを削除する方針」を示しました。

教育委員会があげた理由は、「家族のために鯉(コイ)を盗む内容が教育上不適切」ということ。また、教員から「補足すれば使用できる」と意見があった浪曲も「今の時代に合わない」として、削除の理由とされました。

新教材の作成を担当 検証会議に参加した教員
「(はだしのゲンは)課題があるので、新しい教材で、よりより教材を探してつくっていきましょうという話がありました」
取材班
「別のシーンを探すとか、そういったことは?」
新教材の作成を担当 検証会議に参加した教員
「なかったです。説明としては違う教材を探していきましょうということだったと思うので」

改訂会議で突然示された「ゲン削除の方針」。議事録の検証を進めると、有識者の1人がある発言をしていました。

「どんなところから見ても耐えうるような教材を私たちは作り出していかなければならない」

この発言をしたのは、教育委員会が改訂内容を頻繁に相談していた会議の会長とみられる人物です。さらに続けてこう発言していました。

「『はだしのゲン』を使用し続けるのであれば、どこからも批判されない方がよいですよね」
「すべてに役立つものというのは何の役にも立たないと私は思っていますが、使命を帯びて作り出す側としては、そういうところを排除していかなければならない」

発言の真意を聞こうと、この人物に取材を申し込みましたが「年だから記憶があいまいだ」などとして取材に応じることはありませんでした。

「はだしのゲン」を巡っては過去にも論争が起きてきました。

10年前、松江市では、ほぼすべての小中学校が図書室での閲覧を制限。その後、撤回するなど混乱が生じました。背景にあったのが、保守系の団体の動きです。

ゲンの中に描かれている、天皇の戦争責任を問う場面。こうした歴史認識を巡る表現を理由に、学校や図書館からの撤去を求めていたのです。

また、平和ノートに「はだしのゲン」を掲載することが決まったときにも、同様の批判の声が教育委員会に寄せられていました。

10年前「平和ノート」を作成 策定委員会委員長 中山修一さん
「当時の事務方(教育委員会)の責任者の課長さんから私に対して『きょうも電話がありました』。何度かあるなかで、ほとんどの場合、非常に苦渋に満ちた顔というか。課長として本当に苦しいという立場を私は表情でわかりました」

当時、教材の作成を担当した1人は、教育委員会の中で熟慮を重ね、掲載に踏み切ったと振り返りました。

元広島市教育委員会 指導第二課 平和教育を担当 三吉和彦さん
「やはりそれまで読み継がれてきた、あるいは先生方の実践のなかで取り上げられた読み物であるとかいうものはやはり大事にしていこうと。(当時)影響を受けるとか振り回されるとかそういうことは私の中にはなかったと思っています」

今回の改訂にあたっても「はだしのゲン」の削除を求める声があがっていたことが取材で分かってきました。

日本の教育について考える活動を展開し、「ゲンは教材として不適切だ」と主張してきた広島の保守系団体です。

この日の定例会には、日本会議のメンバーや現役の教職員が出席。自民党の一部の国会議員や地方議員も来賓として参加していました。

現在小学校の教員をしている代表は、平和ノートからの削除を教育委員会などに働きかけたと話しました。

日本教育文化研究所 広島支部代表 竹本祥士さん
「口頭で教育委員会や校長会のメンバーなどに言わせていただきました。私は校長関係が多かったんですが、(団体の)事務局長が教育委員会よく知っていましたので、こういう問題があるよということの説明等はいろいろしてきていたということですね。外から、外野からやっていたということですかね。」

「はだしのゲン」は、なぜ削除されたのか。教育委員会の改訂の責任者が取材に応じました。

取材班
「検証会議以外に別のところから変更を求める声はあったのでしょうか」
広島市教育委員会 指導担当部長 中谷智子さん
「全くありません。いろんな立場の方がいらっしゃるとは思うんですが、われわれは教材を作成しました。本市の子どもにとって目標に達成しやすいもの。その教材を作成する上で先生たちのご意見を大事に聞きながら作成をしたもので、周りの意見というのはまったく私たちは耳には入れてないのが現実です」

改訂会議で出ていた「どこからも批判されない方がよい」という意見については。

中谷智子さん
「実際に『ゲン』があることで批判を受けているというような声も、われわれ聞いていないんです。ですから、この(発言の)真意については私もちょっと分かりかねるところではあります」
取材班
「10年前の策定時にどのような経緯で(はだしのゲンが)掲載に至ったかは、お調べになりましたでしょうか」
中谷智子さん
「ごめんなさい。これは記録等も残念ながら残っていないので、われわれには分かりかねるところです」
取材班
「『ゲン』を使っていきたいという声ではなく、課題にのみ注目したのはなぜでしょうか」
中谷智子さん
「やはり課題として挙がってきたものは、このたびの改訂はチャンスですから、そこでなんとか改訂をもちろんしていく。教材ですから先生たちが一定時間のなかで、ねらいに到達しやすいもの、扱いやすいものにしていこうと考えました」

今回の教育委員会の判断が与える影響について、現場の教員の中には懸念を抱く人もいます。

広島市立小学校 教員
「平和教育も中立性を保ちなさいということで。政治的な偏りがあってはいけないとかすごくどこでも言われていることなので、削除されたはずの『はだしのゲン』を使うということになると、またちょっといろいろと言われたりする可能性があるという。教育委員会が出しているものに逆らってまで『はだしのゲン』を使おうという現場は少なくなってくると思います」

削除決定までの議論 浮かび上がる不透明さ

<スタジオトーク>

桑子 真帆キャスター:

広島市教育委員会は「このコイを盗む内容は教育上不適切だ」。「浪曲は児童の生活背景に即していない」。この2点を主な削除の理由として挙げ、「現場の先生から課題がある」との声があがったと説明しています。

一方で、取材を進めて明らかになったことが大きく3つありました。

取材で明らかになったこと①
検証会議…削除求めず
改訂会議…削除の方針

まず1つ目。「検証会議」では削除を求める声はあがっていなかったものの、その後の「改訂会議」では削除の方針が示されていた。

取材で明らかになったこと②
会長とみられる人物「どこからも批判されない方がよい」

そして2つ目です。その「改訂会議」では会長とみられる人物が「どこからも批判されないほうがよい」といった発言をしていました。

取材で明らかになったこと③
保守系団体代表「削除もとめた」
教育委員会「そうした声 まったくなかった」

そして3つ目です。保守系の団体の代表は「ゲンの削除を求めた」と主張していましたが、教育委員会側は「そうした声は全くなかった」としていました。

時代に合わせて教材というものは改訂されていくものですが、そのプロセスの不透明さが浮かび上がってきたわけです。

きょうのゲストは、平和教育の現場に詳しい草原和博さん、そして広島局の石川記者です。

まず、ずっと取材をしてきた石川さんに聞きますが、今回の改訂プロセス、一連の取材を通して今どういうことを感じていますか。

石川拳太朗 記者(NHK広島):
市の教育委員会は、「検証会議」から削除の方針を示した「改訂会議」までの間に、どのような議論をしたのかは一切明らかにしておらず、その判断に至った経緯が分かる資料も残されていないとしています。
また、保守系団体の代表が削除を求めていたということについても、意思決定をする教育委員会のどのレベルにまでそれが伝わっていて、実際のところどう影響したのかどうか分かっていません。取材した関係者の多くは経緯については語ることを避けていて、決定までの議論が不透明のままになっているのは問題だと感じました。

桑子:
議論がこれまでにどう継承されているのかということも気になってくるわけですが、草原さんにも伺いますけれども、この一連の中で「どこからも批判されないほうがよい」。このあたりも含めて、どういうことを感じていますか。

スタジオゲスト
草原 和博さん (広島大学大学院教授)
平和教育の現場に詳しい

草原さん:
この言葉は、今回の象徴的な言葉だろうと思っています。戦争や平和にまつわる記念碑だとか、博物館、あるいは教科書や教材というところに何をこそ記憶として入れていくべきなのか、あるいは外していくべきなのかというのは常に論争的なものであります。これを「記憶の政治」とよんでいるんです。今回それが非常に露呈したということになりますね。

一方で広島県は、過去のいろんな政治的な運動に子どもたちを過度に巻き込んだという記憶も今なお強く教育関係者の中には残っています。広島の記憶の仕方を巡っては今なおいろんな批判もあるところでありまして、論争を避けたいという判断も間接的には影響したと予想されます。

桑子:
「はだしのゲン」を教材として評価する声もあったわけですが、今回削除されたということに対して現場から声は何かあったのでしょうか。

石川:
今回の市教委のゲン削除の判断についての考えを、現場の教員にアンケートで聞いたところ、判断が妥当かどうか、結果はばらつきが見られました。
最も多かったのは「いずれでもない」という回答で、34%でした。その理由として「考える余裕がないのでどちらでもよい」とか「市の方針ですので」といった意見が見られ、取材をすると「ゲンをこれからも使いたい」とするものの、「平和教育の教材研究はなかなか進められていない中で、今回の改訂に意見できる立場ではない」といった声も聞かれました。

桑子:
草原さん、先生方の声も含め、広島の教育現場というのは今どういう状況になっていると見ていますか。

草原さん:
今回のアンケート結果で非常に象徴的だというのは、「平和教育が相対的に地位が下がっている」ということだと思います。かつてであれば平和教育は「何にも先んじて行うべき」「一丁目一番地」だったものが、さまざまな教育内容が膨らんでいく中で、「相対的にこれは落としてもいいのかな」という時間的な余裕のなさの中で徐々に相対的に地位が低下しているというのが1つです。

もう一つは、「標準化の受け入れ」ということだろうと思います。ここ20年、平和教育を巡る議論が下火になる中でどういうふうにカリキュラムを作っていけばいいのかという検証が徐々に少なくなっていく。その中で、ある程度標準化された教材があるのであれば、それをこなしておけばいい。むしろそのほうがリスクが避けられるというような判断も先生方の中に働いているのではないかなと推測します。

桑子:
では、この平和教育がどうあるべきなのか。全国的な課題となっていますが、沖縄のある小学校の取り組みを今回取材しました。

子どもの「疑問」に向き合う教育とは

太平洋戦争末期、激しい地上戦が繰り広げられ、住民の4人に1人が亡くなった沖縄。本島南部の公立小学校で、5年生の平和教育の授業を担当している米須清貴さんです。

米須清貴さん
「キクさんの紙芝居でね、どんな疑問が出たか、覚えてる?」
小学生
「壕(ごう)の中で何してるのかなと思いました」
小学生
「なんで壕(ごう)を追い出されたか?」

取り組んでいるのは、子どもたちが78年前の出来事に持つ「疑問」に向き合う平和教育です。

米須清貴さん
「子どもが考えるという立場で進めていくことがとても大事なこと。教材からこれも省きましょう、あれも省きましょうと子どもが見えないかたちで排除してしまうと、子どもはどうやって学んでいけばいいんですかって。大人が決めた中だけで学んでいくんですかって」

「疑問」を入り口に、当時への関心を高めていく子どもたち。

小学生
「収容所とか、疑問に思ったことを書いた」

その関心は時に、旧日本軍による住民への加害など、教育現場で避けられがちな論争のあるテーマに及ぶこともあります。

小学生
「日本兵は、市民を仲間だと思っていたんですか?」
講師
「平和な時は仲良くやっていたけど、戦争が始まったら邪魔だと思ってたんじゃないかな。自分たちは逃げるのに精いっぱい。日本兵だっていろいろ思うことはあるよね」

子どもたちには多様な考え方を提示し、みずから考えられるようにしています。

米須清貴さん
「平和教育を、例えば自衛隊の問題とつなげないでくださいとか、ウクライナの話と今の話とつなげないでくださいねって、ちらほら聞くんです。平和教育の政治性をもってしまうと、難しさはあるんですけど、なんのために平和教育をするのか。政治的な価値観に偏って教えるというつもりはそもそも毛頭無いですが、でも平和教育、沖縄戦を学ぶっていうのは、自分の生き方をよくしていくとか、政治への向き合い方をよりよいものにしていくとか、より賢くなっていくためにやるものだと思ってるんですね。子どもが意欲的になって自分から手を伸ばして、それを取りに行くっていう場面を作るかっていうのが私たちの仕事だと思っています」
米須清貴さん
「こんな悲惨、残酷なことが2度と起こらないために、どんなことができるかな」
小学生
「すぐケンカしないようにする」
小学生
「いろんな国と仲よくする」
小学生
「今のロシアとウクライナも戦争してるけど、あれもなくなってほしいなって思った」

平和教育の今後は

<スタジオトーク>

桑子 真帆キャスター:
こうした例もありましたが、これからの平和教育に求められることはどういうことだと考えていますか。

草原さん:
子どもたちを「記憶の継承者・消費者」としてだけ位置づけるのではなく、いかに子どもたちが主体的に歴史を語り、物語を作っていくかだと思います。
広島の例であれば、例えば今回「なぜゲンの教材化を巡って賛否両論があるのか」とか「私たち広島市民はゲンを平和ノートにいかに残していくべきなのか」「どのページ、どのカットだったらふさわしいのか」ということを子どもたちが主体的に議論していく。そういう場が必要だろうと思います。

桑子:
どう扱うのかということも含め、世界を見ると今、新しい争いの歴史というのがどんどん刻まれ続けていますよね。そうした中で重要なことはなんでしょうか。

草原さん:
2023年、過去の記憶を都合よく操作し、自分たちの戦争行為等を正当化する動きというのは各地、ウクライナ、ロシア等でも起きているかと思います。そういう動きに対抗していくためにも、教育現場はもう少し記憶を巡る議論というものを積極的に取り扱い、子どもたちに参画させていく必要がある。
今回どういうふうに記憶が作られ、作り替えられていくのかということをもっともっと教育現場で議論するべきだし、今回のゲンの問題というのは非常にそうしたことを考えられる題材だったのではないかなと思います。

桑子:
ありがとうございます。
これからの未来を作っていくのは、今の子どもたちです。みずからの頭で考え、生き抜く力を養うために、大人たちが及び腰にならない自律的な姿勢を持つことが必要ではないでしょうか。

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