“中国舞踊を広めたい”鈴鹿でかなえる夢の舞台
- 2024年04月19日
中国からの移住に3人の子育て。一度はあきらめた「中国舞踊の指導者になる」という夢を実現させたい。鈴鹿市に住む中国人女性が中国舞踊の教室を開いたきっかけは、ある日偶然目にしたステージでした。
(津放送局 鈴村亜希子)
子どもたちに中国舞踊を
中国伝統の衣装を着て舞踊を披露する子どもたち。しなやかな身のこなしや愛らしい表情は見る人を笑顔にさせます。
子どもたちを指導しているのは、鈴鹿市で中国舞踊の教室を開いている潘麗莉(ハン・リリ)さんです。
指導者めざし中国舞踊に打ち込む
潘さんは中国の武漢出身。もともと体が柔らかく、親の勧めで8歳のときに中国舞踊を始めました。
10歳で寮のある舞踊学校に入り、中国国外でも公演をしたこともあるそうです。将来は指導者になろうと、北京にある国内最高峰の舞踊専門の大学に進学しました。
大学では第一人者からの指導を受けた潘さん。卒業後は母校に戻り、指導者としての道を歩み始めました。
潘さんは「指導すると何も分からなかった子どもがやがて踊れるようになってくれる。達成感がすごくあり、このままもっと頑張ろうという気持ちがありました」と指導する喜びについて語ります。
結婚を機に来日 舞踊から離れて
学生時代、潘さんは後に夫となる日本人留学生と出会います。
結婚を機に18年前、夫の赴任先の鈴鹿市に。指導者として積み上げたキャリアをいったん手放すことに葛藤はありましたが、恩師たちが背中を押してくれたと言います。
当時、務めていた学院の院長先生たちから『日本にいても、ちゃんと中国舞踊やりなさい。それで日本と中国の交流ができるように頑張ってください』と言われたのをはっきり覚えてます(潘麗莉さん)
その後は3人の子育てに追われ、舞踊からは長い間、遠ざかりました。ただ舞台への思いは、常に心の中にあったと言います。
小さい頃からずっとステージで踊っていたので、恋しい感じがすごくありました。離れたらすごく寂しい。技術や知識を持っているのに、このまま何もしない、できないことに悔しい気持ちがいっぱいでした(潘麗莉さん)
“いつかこの舞台で中国舞踊を”
そんな日々が変わるきっかけとなったのが5年前、市内の商業施設で開かれていたイベントでした。鈴鹿市の国際交流協会が開いた「わいわい春まつり」。
さまざまな国にルーツのある人たちの華やかなステージに目を奪われました。
潘さんは「中国舞踊をこのステージに立たせたい。生徒をこれから育てて、いつかこのわいわい春まつりのイベントに参加したい」と思ったといいます。
中国舞踊+中国語+中国文化
自身もイベントに関わろうと決意した潘さん。すぐに市内で中国舞踊の教室を開きました。国籍を問わず募集していて、最初の生徒はたった2人でしたが現在は40人近くに。生徒のほとんどが中国にルーツのある人たちです。
教室で潘さんは大切にしていることが2つあります。
1つ目は、指導の際には中国語と日本語を交えること。舞踊の練習を通して自然に中国語にふれてもらいたいと考えています。
「一、二、三(イー、アル、サン)、停走(ティンゾー)(止まって)!」
教室では中国語と日本語が常に飛び交っています。
そして2つ目は中国の文化を伝えること。
この日練習したのは、桃の花を題材にした潘さん自作の舞踊。中国では古来、桃の花に特別な意味があると伝えました。桃が咲くと幸福が舞い下りてくる、そんな意味があるそうです。
そんな潘さんについて、教室に来ている子どもたちにどんな先生か尋ねると…。
「優しくて分かりやすく教えてくれる」
「先生はダンスをしてる途中に、一緒に中国の昔のこととかも教えてくれるから、一石二鳥」(教室の子どもたち)
子どもたちにも大人気です。
“寂しかった気持ち 今は風のように”
ステージを夢みてはじめた教室。少しずつ、地域での発表の機会も増えてきました。
この日の舞台は、鈴鹿市に先月オープンしたばかりの商業施設で踊りを披露することになりました。
まずは「唐宮夜宴」。唐の時代の踊りで、楽団が宴の準備をするようすを表現した踊りです。当時はふくよかな女性が好まれたことから、スカートを重ねてふっくらとしたシルエットを作っています。
続いては、あの桃の花を題材にした「桃花笑」。春が来て桃の花が咲き、少女たちが笑顔になるようすを表現しました。ピンク色の衣装を着て舞う子どもたちはまるで桃の花の妖精のよう。
舞台の端には、満足そうな表情をした潘さんの姿がありました。
「5年前の目標を、今少しずつできたかなと感じたので、当時ちょっと寂しかった気持ちは今はもう風みたいにふーっと飛んでいくような感じでした。
中国舞踊の作品を、毎年新しい作品を出して、日本人にも外国人にもたくさんの方に見てもらいたいです」(潘麗莉さん)