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いま“テロの歴史”から学ぶこと

安田善次郎暗殺事件の教訓
  • 2023年05月11日

4月15日、岸田総理大臣の近くに爆発物が投げ込まれた事件が発生。
1年に満たない間に2度も要人が襲撃されるという異例の事態となりました。
私たちの社会はテロが相次ぐ事態にどう向き合っていけばよいのか。
現在の社会状況と共通点が多いとして、およそ100年前に起きた富山県出身のある人物の暗殺事件とその後の歴史が、いま注目されています。
1921年、安田財閥の創始者、安田善次郎暗殺事件です。

戦前のテロの原点? 
安田善次郎暗殺事件とは

去年、安倍元総理大臣が殺害された事件のあと、注目されている本があります。
戦前の安田善次郎暗殺事件を検証した「テロルの原点」。

著者は近代の政治史が専門で東京工業大学教授の中島岳志さん。
戦前から現代に起きたテロなどについて研究する中島さんに話をききました。

中島教授

私は安田善次郎暗殺事件が今、省みるときに重要な事件だと思っています。というのも、この事件をきっかけにしてその後15年間ほど、二・二六事件に至るまで様々なテロ・クーデターが連鎖していく時代に入っていったのです。

中島さんが戦前のテロの原点として指摘するのは、1921年9月に富山県出身で安田財閥の創始者、安田善次郎が神奈川県の別荘で突如暗殺された事件です。

殺害された安田善次郎
(1838-1921)

殺害した青年は朝日平吾という青年でした。
当時の日本は第一次世界大戦後の不景気の真っ只中。
物価が高騰し、庶民が生活で苦しむ中、財閥などの一部の富裕層に富が集中して格差が拡大していました。

犯行に及んだ朝日平吾

朝日平吾は「財閥などが富を独占していることが不平等の原因である」と断定し、犯行に及んだのです。
さらに朝日は知人や新聞社に犯行声明を送付し、同様の犯行を起こすように呼び掛けます。

朝日平吾の遺書や声明を取り上げる当時の新聞

すると安田善次郎暗殺の1か月後、今度は時の首相、原敬が暗殺される事件が起きます。 
朝日の主張に影響を受けた若者による犯行でした。

暗殺された 原敬 (第19代内閣総理大臣)

自らの主張を暴力によって社会に訴える手段として、テロが力を持ちはじめます。 
のちの昭和天皇を狙った虎ノ門事件や、五・一五事件、二・二六事件などが立て続けに発生。
 軍部が実権を握り、戦争の時代へと突入していったのです。

テロの連鎖などを考えると1921年と「今」が非常に類似して見えます。そして歴史を見つめることによって、気をつけなければいけないことのいろんなヒントがあるはずだと思います。

歴史を繰り返さないために何が必要なのか。 
中島さんは三つのポイントを指摘します。

教訓1 テロによって変わらないこと

中島さんは犯行を起こした朝日平吾をめぐる世論の変化に注目します。
事件直後は朝日平吾を一同に非難していた世論。
しかし事件から数日後に安田財閥の遺産相続問題がメディアで大きな話題となります。
安田に莫大な財産があることが明らかになると、安田家非難へと世論が一転しました。

逆に朝日平吾が一種ヒーロー視されるようになりました。 
「世の中にパンドラの箱を開いてくれたのが朝日平吾である」という言説が出てきたのです。

そして朝日平吾の犯行を賛美する言説が世の中の1つの空気になってきた時、「同じような事件をやってみよう」と思った中岡艮一が原敬を暗殺します。

中岡の上司が朝日の事件を見て「君みたいな根性のない若者は彼のような立派なことはできないだろう」と言ったところ、中岡は「なんだとー」と思い、犯行に及んだのです。

原敬を暗殺し逮捕された中岡艮一
(なかおか・こんいち)

原敬を暗殺した中岡艮一は当時18歳。
取り調べに対し、中岡は「朝日と同様の称賛を受けたいと思い、殺害した」と供述しました。
テロを賛美する世論が次のテロを呼んでしまったのです。

「テロ」と言う言葉は、英語の"Terror(恐怖)"から生まれました。つまり、恐怖を与えることによって社会のあり方を、自分の思う方向へ変えていくことが目的です。

それゆえ、テロリストにとって最も怖いのは、社会が微動だにしないことです。テロが起きたことによって、私たちが社会を変えないことがとても重要なのです。

教訓2 社会が個人を孤立させない

戦前テロが連鎖した背景に、人々がつながりを失い、孤立していった社会があったと分析する中島さん。
 その状況は現代にも通じるものがあると指摘します。

1920年代はいわゆる「大衆化社会」の中で地方から東京とか大阪に人が集まっていました。いろいろな地域・地縁から切り離された「大衆・群衆」のような存在が生まれたのですが、この層が社会の中の位置づけられていなかったことが非常に大きかったと思います。

1920年代当時の日本に欠落していたものとして中島さんが指摘するのが「中間領域」の存在です。
中間領域とは地域の集まりなど、国家と個人の”中間”に存在する小・中規な共同体のこと。
犯行に及んだ朝日平吾や中岡艮一も社会の中でそのような居場所を失っていたと中島さんは分析します。
そして異なる他者と出会い、合意形成を行う中小規模の共同体を人々の生活の中で数多く用意しておくことが、人を社会・政治と結び付けるために重要だと語ります。

私は異なる他者と出会い、合意形成していく場を作っていくことが「政治」だと考えています。

今の社会で言うと、選挙だけが政治ではない思います。確かに「主権の行使」として選挙は大切ですが、統一地方選や国政を入れて年に1回ほど、近所の小学校とか中学校などで1票入れるだけ。それで「あなたは主権者だ」と言われても、実感がないと思うんです。

そうではなく、日常生活の中で政治とのつながりがある社会をもっと作っていかないといけないと思います。例えばお子さんが生まれた家庭だと、保育園がいっぱいで困った…など様々な悩みがあるのではないでしょうか。そのような時に近所の子育てサークルなど、一緒に声を上げるような空間があったりすれば違うと思います。

政治というのは日常生活の様々な問題に対応するように無数に張り巡らされている力だと思うんです。1920年代と同じく現在も行政と個人の間に入る「中間領域」が弱っています。このような場所を生活の中で数多く作っていくことが重要です。

教訓3 「ものが言えない時代」にしない

テロが起きない社会を作る一方で、中島さんはもう一つ忘れてはならない戦前の教訓があるといいます。

テロ・クーデターが連鎖すると、治安維持権力が強化されます。それによって言論が畏縮していき、「ものが言えない時代」が誕生していきました。

重要なのは、治安維持権力の肥大化を容認する空気が世論の中に生まれてくることなんです。「取り締まってくれよ!」となってくる。

1925年、当時の政府は相次ぐテロなどを受けて治安維持法を制定。 
この法律のもと、様々な思想や言論への取り締まりが行われました。
中島さんは同じ歴史が繰り返されるとは限らないとしながらも、次のように指摘します。

二・二六事件当時の政府鎮圧軍

今回も、このような事件が相次ぐと「もっとSPを大量に導入しろ」とかになりますよね。そしてこれにほとんど異議申し立てをしない。「これはもう仕方ない」とみんな思っている。こうなってくると治安維持権力が一方的に強まるのではなく、私たち市民の側が治安維持権力を望み始めるんです。ブレーキをかけないと、どんどん治安維持権力が肥大化してくるのが戦前期の1つの教訓だと思います。

そして気をつけなければいけないのは、私たちが自主規制や忖度をし始めた時に権力が最大化するということです。SNSでこれ以上書くと目をつけられるんじゃないか…やめた方がいいのではないか…など、自分の中で忖度したり、自主規制したりすると、言論がどんどん畏縮してしまいます。「見られているかもしれない」と思うと勝手に自主規制し始めるんです。これが起きるのが私は最も怖いと思っています。

100年前の歴史から
いまを考えてみませんか?

インタビューの中で中島さんは歴史から学ぶ重要性を強調します。

人間はどういう行動に出やすいのか、どういうことに気をつけなければいけないのかなど、総合的な判断や見通しを立てるためには、歴史を見ることがよいと思います。

そして1921年の日本がその後どのような道筋をたどったのか、私たちは知っています。そこから考えなければいけないことがたくさんあるのではないでしょうか。

要人が相次いで襲撃される事件が起きる中、いま改めて歴史を振り返り、私たち一人一人が冷静に考えるときが来ているのではないでしょうか。

(聞き手:池田航)

  • 池田航

    ディレクター

    池田航

    令和3年入局。富山局が初任地。自然・環境問題から社会課題まで幅広く取材。

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