能登半島地震~鳥取から石川・輪島へ思いを寄せる
- 2024年03月18日
3月に入り、能登半島地震の発生から2ヶ月がたちました。甚大な被害を受けた地域では、現在も多くの人が避難所での生活を続けています。実は鳥取県は、石川県輪島市と特産の「輪島塗」を通じて100年に渡るつながりがあります。
「鳥取から輪島へ」 思いを寄せる男性を取材しました。 (鳥取放送局 鶴 颯人)
塗り重ねられた漆に繊細に表現された模様。輪島塗の香炉です。
この香炉の持ち主である賀川英広さん(鳥取県八頭町在住)は、30年かけて20点以上の輪島塗を収集してきました。「輪島塗は生活を潤す大切なもの」と話します。
鳥取で100年続く「輪島講」
賀川さんは八頭町で開かれる「輪島講」という習わしに参加しています。輪島講は、高額な輪島塗をできるだけ負担少なく購入するための仕組みです。
講の仲間が毎年集まり、お金を出し合います。集まった金額は、その年に輪島塗を買いたい人が受け取って、輪島塗を購入します。
これを毎年繰り返して、最終的には参加者全員が支払った金額を受け取れるようにします。分割払いに近いシステムで、一度に支払う金額は少なくすみます。また講では、通常よりも安い特別価格で輪島塗を購入できる利点もあるといいます。
鳥取での輪島講は明治時代後期に始まり、今でも毎年3月に輪島塗の関係者を招き、講を開いています。かつては全国に輪島講が開かれていましたが、輪島漆器商工業協同組合によると「現存するのは鳥取県内だけではないか」ということです。
(輪島塗の工房とは)商品の話をしたり、購入した後も感想を伝えたりと連絡を取り合っています。輪島講を通じて、輪島とのつながりを持つことが、生活での楽しみの1つとなっています。
能登半島地震で”輪島塗”に大打撃
ところがことしの元日、能登半島地震が発生し、輪島塗の工房が並ぶ輪島市中心部も甚大な被害を受けました。
地震の発生後、賀川さんが特に心配してきた人がいました。輪島市に住む塩安眞一さんです。
塩安さんは輪島塗の工房を営んでいて、祖父の代から100年以上も輪島講のために鳥取に通っています。賀川さんとも講を通して深く交流してきました。
能登半島地震のあと、賀川さんは「少しでも助けになれば」と講の仲間に義援金を募って、塩安さんに送金しました。
塩安さんの自宅は火災のあった朝市から近いんです。地震のあと、心配になって電話をかけて「命は無事」と聞いて本当に安心しました
地震から2か月 現地の状況は?
地震から2か月たち、賀川さんは塩安さんに電話で現状を聞くことにしました。
家や仕事場はどうなっていますか?
自宅は電気や水もほぼ復旧して、普通に生活しています。家で風呂に入る、洗濯ができることが、いかにありがたいのか身にしみて分かりました
震災当時、輪島市内の工房にいた塩安さん。地震によって作品の多くが破損しました。被害は数千万円規模になり、従業員の大半は今も輪島市外に避難しています。
そんな苦しい状況でも、塩安さんは工房内の一部を使って、店を再開することを決断しました。
しかし、3月に予定していた鳥取での輪島講は延期になりました。
輪島講のことはあせらなくてもいいので。体だけは気をつけて
私にとって鳥取は輪島に次ぐ「第二のふるさと」。鳥取からは何人も電話をくれたり、いろいろ励ましのことばをいただいている。「焦らずにしっかり復興してください」と言われると、本当に涙が出るような気持ちになります
地震の発生後も受け継がれる、鳥取と能登の人たちの交流。
賀川さんは、ふたたび輪島塗に出会える日を心待ちにしています。
「これからも輪島塗を続けていこうという気持ちを感じたので、本当に頑張ってほしい。元通りには、なかなか一気にはいかないと思うが、輪島講はずっと続けていけたら」
取材後記(鶴カメラマン)
震災の1週間後、私は石川県に入り、地震の被害が大きかった輪島市や能登町で取材をしました。
被災地では、道路が隆起しコンクリートはめくれ、建物は根元から崩れていました。避難所では、水が使えず感染症も広がる大変な状況でも、多くの方が取材に答えて下さり、被災された方の人間的な強さを感じました。
鳥取に戻ってから、能登半島と鳥取のつながりはないかと取材する中で「輪島講」の存在を知りました。
「輪島から直接鳥取に出向き、顔をつきあわせて商売をする」。
手間のかかる仕組みだと思います。それでも現在まで続いている理由には、鳥取と輪島の人が1世紀をかけて紡いだ深い結びつきがありました。
塩安さんによると、延期となった輪島講は、今年6月ころに開きたいということです。
震災を経て、どのような「輪島講」になるのか。取材を続けたいです。