WEBリポート
  1. NHK
  2. 首都圏ナビ
  3. WEBリポート
  4. 東京オリンピック聖火ランナー 控えの経験が人生のレガシーに

東京オリンピック聖火ランナー 控えの経験が人生のレガシーに

  • 2021年7月22日

間もなく始まる東京オリンピック。聖火リレーの最終走者が聖火台に火をともす光景は、多くの人の心に残る象徴的なシーンです。しかし、1964年の東京大会の最終ランナーに“控え”がいたことをご存じでしょうか。 その当時の“控えランナー”が、今回聖火ランナーの一人に選ばれました。 長い年月を経て2020大会のトーチを握った男性は、“控え”の経験こそが人生の“レガシー”になったといいます。
(長野放送局/カメラマン 谷田希)

2021年 晴れて聖火ランナーに

7月21日、東京都品川区で行われた聖火セレモニー。このセレモニーに、聖火ランナーとして参加した落合三泰さん(74)。落合さんがオリンピックのトーチを手にするのは、実はこれが初めてではありません。落合さんは1964年の東京オリンピック聖火リレーの“練習”で、何度もトーチを手に走った経験があるのです。実は落合さんは、聖火リレー最終ランナーの“控え”だったのです。

前回大会の聖火リレー

1964年に行われた東京オリンピックの聖火リレーは、国内の地上走行距離6755km、参加者10万713人というものでした。その最終ランナーを務めたのは坂井義則さんという当時19歳の学生でした。広島に原爆が投下された8月6日生まれで、「平和の象徴」として最終走者に選ばれたのです。

開会式の10月10日、坂井さんは国立競技場のトラックを美しいフォームで走り聖火台に点火し、東京オリンピックを象徴するシーンとなりました。

君は“最終ランナーの控え”

最終走者の万が一の事態に備え、“控えランナー”が用意されていたことはあまり知られていません。そのランナーが当時17歳、高校2年生の落合さんでした。
全国高校総体・五種競技で2位になるなど、将来を期待されたアスリートでした。

最終日の聖火ランナー

その年の8月中旬、聖火リレー最終日のランナー10人のうちの1人に選ばれた落合さんは、本番に備え熱心に練習に励んでいました。
しかし、1か月ほどたったある日、「“正走者”ではなく、“最終ランナーの控え”として走ってほしい」と告げられます。

「確かに悔しい気持ちはあった」という落合さんですが、その後も精いっぱい聖火リレーの練習に取り組みました。本番と同じ国立競技場で行われた開会式のリハーサルでは、不在だった坂井さんの代わりに最終ランナーとしてトーチを手に聖火台に上ったこともありました。

リハーサルで走る落合さん

10月10日の開会式当日。落合さんは坂井さんの50メートルほど後ろを、競技場のスタンドの下まで黙々と走り通しました。そして、満員の観客の視線を一身に浴び、聖火台へ続くスタンドの階段を登る坂井さんの後ろ姿を見上げていました。

落合さん
「本番でトーチを持って走れず悔しい思いはありました。しかし、超満員の観客の盛り上がりを見ると、これまで練習してきた思い出とともに、まるで自分が点火したようなすがすがしい気持ちになりました」 

控えの経験 人生の“レガシー”に

大学卒業後、大手百貨店に就職した落合さんは洋服や服飾品を扱うアパレル部門に配属されました。華やかなアパレル業界とは無縁の学生生活を送ってきたため、最初は戸惑うことも多かったといいます。

ただ、商品の企画や買い付けといった華々しい仕事だけでなく、バックヤードで黙々と行う地味な仕事にも、手を抜くことなく真剣に向き合ったといいます。
そんな仕事ぶりの礎になったのが、“控えランナー”としての経験でした。

「物事を成し遂げるには控えや裏方の存在が不可欠。周囲の後押し、協力がないと物事はうまくいかない」

競技場を感動で包んだ聖火リレーの成功体験から得た教訓です。
その後も、スポーツ用品売り場や子ども服売り場などさまざまな現場を担当しましたが、裏方の役割を担うスタッフに気を配り、目立たない小さなことにも手を抜かずに仕事を続け、気がつけば子会社の代表取締役になっていました。

“控えランナー”の経験は、落合さんの「心のレガシー」となり仕事や人生を支えたのです。

坂井さん死去 思い引き継ぐ

2013年9月、再び東京オリンピックの開催が決まりました。その直後、落合さんはラジオ番組に出演していた坂井さんが、「2回目の東京オリンピックが開催される。私に何かできることがあればお手伝いをしたい」と話しているのをたまたま耳にしました。

しかしその翌年、坂井さんは脳出血のため69歳で急逝してしまいます。
「何かお手伝いができれば…」という坂井さんの言葉が心に残っていました。
「坂井さんは何を手伝いたかったのだろう。もう一度聖火リレーに参加し、1964年と2020年をつなぎたかったのではないか…」

そう考えた落合さんは、坂井さんの思いを引き継ぎ、そして今度こそ自分自身も本番のランナーとして走るため、2020年東京オリンピック聖火リレーのランナーに応募することを決意します。

念願かない聖火ランナーに

2019年12月、落合さんのもとに聖火ランナーに選ばれたことを告げるメールが届きました。うれしさのあまり、自宅で何度も何度もメールを見返すなど、まさに念願がかなった瞬間でした。

「坂井さんのように美しいフォームで走るのは難しいかもしれない。でも、今回走るおよそ1万人の参加ランナーの中で、一番きれいなフォームで走りたい」 

聖火ランナーに選ばれて以降、落合さんは、日課にしている朝の散歩にジョギングを加えました。

コロナ禍でのオリンピック

新型コロナウイルスの影響で延期となったオリンピック。聖火リレーも延期されました。コロナ禍での開催についてさまざまな意見がある中で、落合さんは延期後も毎朝欠かさずトレーニングを続けてきました。
実は落合さんは高齢で持病を抱えているため、ワクチンを打つことができません。新型コロナウイルスは落合さんにとってまさに脅威です。

しかし、聖火リレーという大きな目標が、落合さんを支えました。毎日のジョギングを続け健康的に過ごすことが、感染を防ぐ大きな役割を果たすと考えたのです。

「聖火リレーに元気な姿で参加するために、一日一日頑張ろう」

トーチを手に聖火リレーを走ることを夢見て、コロナ禍を過ごしてきました。

“控え”から表舞台へ!~57年越しの思い

7月9日から都内で始まった聖火リレーは、新型コロナウイルスの感染防止のため、島しょ部を除き公道でのリレーは行われないことになりました。その代わり、ランナーが聖火をつなぐ「トーチキス」のセレモニーが行われることになりました。
落合さんは21日、品川区で行われたセレモニーに参加しました。

 壇上に上がった落合さんは、少し緊張した面持ちです。そして前のランナーから聖火を引き継ぐと、手にしたトーチを頭上に高々と掲げました。誰にも負けない美しいランニングフォームを披露することはできませんでしたが、見事にその役割を果たしました。

壇上でトーチを掲げていた時間はわずかでしたが、57年間にわたる聖火リレーへの思いが凝縮した瞬間です。そして、亡くなった坂井さんの遺志を2021年につなげることもできました。 

落合さん
「聖火リレーに参加することができてよかったです。ただ、坂井さんのような美しいフォームで走りたいと練習してきたので、公道を走れなかったのは残念でした」 

緊急事態宣言下でのオリンピック

今、まさに4回目の緊急事態宣言が発令される中、オリンピックへの様々な意見が噴出しています。私は落合さんに、「今回のオリンピックについてどう思いますか?また、何が得られると考えますか?」とあえて問いかけてみました。

落合さん
「選手たちはどんなことがあろうと、何年間も、何十年間も努力を積み重ねてきた。私は、1964年10月10日の開会式で感動し、そのときの感動がその後の人生のレガシーになった。だから、選手たちはたとえ無観客であっても持てる力を最大限出して、最高のパフォーマンスをしてほしい。その限界を超えていく姿が、見る人の感動を生み、それぞれ何かのレガシーにつながっていくのではないか」

  • 谷田希

    長野放送局 カメラマン

    谷田希

    2005年入局。福井局、静岡局、報道局などを経て2020年から長野局所属。スポーツを中心に、ニュース取材を手がける。

ページトップに戻る