ビキニ事件70年・声を上げなかった漁船
- 2024年03月13日
ビキニ事件から3月1日で70年を迎えました。
当時、ビキニ環礁の周辺海域で操業していた船はのべ1000隻を超えると言われています。
しかし、静岡県の漁船では第五福竜丸以外の被ばくの実態についてはほとんど分っていません。
こうした中、今回の取材によって、被ばくの可能性がありながら声を上げなかった焼津市の漁船の存在が浮かび上がってきました。
第五福竜丸だけではない
水爆実験の影響を受けた焼津の漁船
元高校教師で郷土史家の枝村三郎さんです。
水爆実験によって影響を受けた船を50年にわたって調べてきました。
水産研究所や保健所などの資料から、当時、海洋汚染によって漁獲物を廃棄した船の数を割り出しました。焼津の漁船は、全部で113隻あったと言います。
静岡県の場合は、第五福竜丸だけが脚光を浴びせられているけども、多くの漁船被害、漁業被害っていうのを今までは問題にされてこなかったんだね。
NHKが外務省より入手した資料です。そこには第五福竜丸とは別の漁船の乗組員の証言が残っていました。
その船の名前は、第二吉祥丸。
海上保安庁の聞き取りに対し、船長は
「3月27日3時30分ごろビキニ方向にて閃光を見た。」と答えていました。
アメリカがビキニ環礁で2回目に行った水爆「ロメオ」の閃光でした。
第二吉祥丸はビキニ環礁からおよそ600キロメートルの地点で操業していました。
帰港した時に検査された放射線量が、外務省の資料に残っていました。
乗組員の体からは、100カウント。船体や漁具などは、最大3000カウントでした。
長年、被ばくした高知県の漁船の訴訟に携わってきた医師の聞間元(ききま はじめ)さんです。
第二吉祥丸が被ばくしていた可能性があると言います。
3000カウントっていうのは
帰ってくるまでに船体が雨にあたって洗われたりしたんでしょうが残ったカウント数としては大きいんじゃないかと思います。
人体についた放射性物質は服を着替えたり、シャワーを浴びることで洗い流されるので、乗組員の被ばくの実態を考える上で、船体のカウント数が参考になります。
第二吉祥丸の乗組員は
水爆実験遭遇をどう捉えていた?
第二吉祥丸の乗組員は30人でした。
乗組員たちは水爆実験に遭遇したことをどう捉えていたのか、遺族を訪ねました。
当時のことを証言してくれたのは、副漁労長の鈴木賢次さんの娘、敏代さんです。
鈴木賢次さんは、当時34歳でした。
船のことについてはあまり聞かされてこなかったのですか?
そうですね、母には言っていたでしょうけど、私は聞いていないです。
なぜ聞かなかったのだろうと悔やまれるんですけどね。
他の家族も・・・
機関長の鈴木亀太郎さんです。
22歳でした。
めいの嘉茂章世さんは、父と亀太郎さんは仲の良い兄弟だったといいます。
しかし父は、ビキニ事件のことは語りませんでした。
やっぱりね思い出したくないような。あんまり語らないですね、詳しいことは。
(叔父の)お墓に行った時に少し、お墓の掃除をして、きれいにして、でもその時も語らないんです。
当時のことをわずかに伝え聞いていた家族がいました。
操機手の橋本定雄さんです。
当時26歳でした。
弟の勝男さん、娘の和子さん、孫の雄介さんに話を聞きました。
おばあちゃんから「おじいちゃんが、俺らも黒い雨っていうのは浴びているって言っていた」とは聞いた。
いわゆる死の灰ですか?
そう。
その話は、兄貴から直接聞いていたが、それは「あくまでもうちだけの話だよ」と、「外には漏らすなよ」と兄貴も言っていました。
定雄さんが水爆実験に遭遇していたことは、家族の間でも避けるべき話題だったといいます。
私はそういう話は一切聞いていません。
そうね、「そういうことについては話してはくれるな」と父から言われましたね。
第二吉祥丸の乗組員たちはなぜ、水爆実験に遭遇したことを語らなかったのでしょうか。
当時に関する証言は他にも・・・
マグロから放射能が出たって、市内に埋めに行った。
じいちゃんが乗っていた船も水爆実験の被害を受けたのに、福竜丸だけ有名になったもので「何で福竜丸だけ有名になったんだ」って、じいちゃんがばあちゃんに愚痴をこぼしたって聞いた。
風評被害で生まれた
声を上げない空気感
当時、魚が放射性物質で汚染されているという風評が全国に広がり、焼津の魚は売れなくなりました。
これは、焼津の魚市場で働いていた男性が、その頃の胸の内をつづった手記です。
「福竜丸は忌まわしいものを焼津へ持ち込んで焼津の水産業を駄目にした」
長年、第五福竜丸の乗組員たちへの聞き取り調査を続けてきた第五福竜丸展示館の学芸員・市田真理さんです。語らなかった裏にはこうした町の空気があったと考えています。
焼津の町、マグロとかカツオという漁業の町に打撃を与えた、ふるさとに何か打撃を与えてしまったっていうような後ろめたさのような、本来抱えるべきじゃない後ろめたさを皆さんご自身で抱え込んでしまっていたような気もします。
第五福竜丸に浴びせられた非難
漁業関係者の多くが声を上げない中、日米の政府交渉で、第五福竜丸の乗組員には補償金が支払われることになりました。
全国から「一躍金持ち」「甘ったれるな」
といった手紙が、第五福竜丸の乗組員たちに寄せられました。
こうした風潮は、より漁業関係者が口を閉ざすことに繋がっていったと、第五福竜丸展示館の市田さんは話します。
第二吉祥丸のその後
ビキニ事件の後、第二吉祥丸の乗組員たちは、
新たに造った第十八吉祥丸で操業し続けました。
しかし、水爆実験の5年後の1959年2月10日、
第十八吉祥丸は台風に巻き込まれて遭難。
27名全員が亡くなりました。
焼津市内の墓地には乗組員を弔うため、慰霊碑が建てられました。
声を上げることがなかった第二吉祥丸の乗組員たち。70年前、焼津で何が起きていたのか、真相を明らかにするために残された時間はわずかです。
情報をお持ちの方はお願いします。
当内容は、NHK静岡放送局のニュース「たっぷり静岡(平日18:00~18:59)」で放送させていただきました。
放送後、第二吉祥丸の関係者と話す男性から情報提供をいただきました。
乗組員の男性からマグロを分けてもらっていた。
ビキニ後にも乗組員と話したそうですが、
外務省の資料では、第二吉祥丸の乗組員の人体から、
100カウントの放射線量が検査されたことについて
当時、乗組員たちは身体検査を受けなかったと言っていた。
と話してくださいました。
被ばくの真相はどうであったのか、今後も取材していきます。
第二吉祥丸や、その他の船について情報をお持ちの方は、下記の問い合わせまでお願いします。