震災遺構の学校の卒業生が社会人に 就職前に訪れた思いは
石巻市の震災遺構・門脇小学校。去年4月に公開されてから1年になりました。震災当時この学校の4年生だった女の子は、今月から社会人としての一歩を踏み出しています。就職を前に学校を訪れた彼女。どんな思いであの日を振り返ったのでしょうか。
(仙台局 藤家亜里紗記者)
【震災遺構 門脇小学校】
石巻市の門脇小学校。12年前、校舎の1階まで津波が押し寄せ、その後の火災の被害も受けました。当時の教訓を伝える震災遺構として、去年4月から公開されています。
津波で倒れた金庫や机が散乱する校長室や、火災で真っ黒になった教室などが残されています。
先月20日、ある女性が門脇小学校を訪れました。この学校の卒業生、阿部明日香さん(22)。震災当時は4年生でした。自分が過ごした校舎の今の姿を近くで見て、あらためて震災の被害の大きさを感じていました。
阿部さんは揺れが起きたとき、4年1組の教室にいました。先生たちが校舎の外にでるよう必死で叫んでいたのを覚えているといいます。その後、先生たちの誘導で裏山に避難しました。当時学校にいた子どもたち224人は無事でした。
阿部明日香さん 「上靴のまま、先導してくれる先生や先輩の後ろを必死について走りました。自分は逃げているけど他の家族は大丈夫かなという思いもありました」 |
【学校にも自宅のあった場所にも行けない】
阿部さんの自宅は小学校よりも海側にありました。自宅にいた祖父母は津波で亡くなり、自宅も流出しました。
阿部さんは震災後、高台にある高校で避難生活をしていました。小学校は被災したため、高台にある中学校の校舎を借りて授業が始まりました。この時から、つらい記憶を思い出すため、小学校や以前暮らしていた場所の近くに行くことができなかったといいます。
阿部明日香さん 「祖父母が亡くなったこともつらかったですし、いままでいた自分の街が変わってしまったということを感じたくなかった。できればうそであってほしいと思っていました」 |
学校の友達の前では自然にふるまおうと心がけていましたが、ふさぎこんだ思いを持ちながら生活していたという阿部さん。避難生活のあとも、母親に頼んで高台に住宅を再建してもらったといいます。
【少しずつ向き合った震災】
そうしたなか、たくさんの人と関わるなかで、時間をかけて震災に向き合えるようになってきたといいます。なかでも大きかったのが、小学6年生から始めたオーケストラでの活動です。街を元気づけようと結成されたこのオーケストラには、ほかにも震災の影響を受けているメンバーが多くいました。
阿部さんは、テナーサックスを担当。地元にとどまらず県外などでも演奏し、多くの人たちと接する中で、徐々に地元や震災に向き合えるようになったといいます。
【ようやく母校に】
去年ようやく公開された小学校を見たかったという阿部さん。大学を卒業し、もうすぐ社会人になるという時期に、足を運ぶことにしました。
校舎を見ながら「本当に白黒ですよね。焼けた影響でこうなっているんですよね」と小さな声で話してくれました。それでも、目を背けずじっと見つめる姿が印象的でした。
阿部さんは自宅が流出したため、震災以前に持っていた物が全く残っていません。
学校に置いて逃げたランドセルも燃えてなくなり、思い出を感じられるものがなかったといいます。しかし今回、思い出が展示されているコーナーで自分の写真を見つけました。
学年で発表した太鼓の演奏の様子です。音楽が好きな阿部さんは写真を見て、そのリズムまでも思い出せたと話してくれました。
阿部明日香さん 「門脇小学校が残っているのは自分がいた証なんだと感じて、ここで学んできたんだなという思いがあふれ出てきました」 |
【これからは私が守る】
阿部さんが選んだ仕事は保育士です。春休みの時間を使って、子どもたちのために手袋を使った遊び道具を作っていたそうです。保育士になるにあたり、震災で先生や多くの人に支えられてきたからこそ、今度は自分が子どもたちを守りたいという決意を語ってくれました。
阿部明日香さん 「今度は私が手を差し伸べてあげられるような人になりたいなと思っています。子どもたちには保育所での生活を“楽しい”や“幸せ”と感じられる何気ない日常を過ごしてほしいと思っています」 |
石巻支局 記者 藤家亜里紗
2019年入局
仙台局で事件取材を経ておととし11月から石巻支局