3月11日 あの日に生まれて

13年前の2011年3月11日、あなたはどこで何をしていましたか?

東日本大震災が発生したあの日、私は東北で取材をしていました。
取材をしながら「多くの命が助かってほしい」と必死で祈っていました。

そんな日、被災地では新たな命が誕生していました。
過酷な状況の中で生まれ、多くの人に守られ、希望の存在にもなった子どもたち。
中学生になり、あの日に生まれたことについて自分のことばで語り始めています。

(映像センター 藤田日向子)

 

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小林ひなのさんは東日本大震災が起きた日に岩手県二戸市で生まれました。
レストランを営む両親と姉の家族4人で暮らしています。

震災後、一時は営業できなかったレストランを再開し、現在は家族で力を合わせて店を続けています。
そんな両親の姿を見てきたひなのさんは、家族思いで優しく、忙しい時はレストランを手伝っています。

両親は、3月11日がくるたびに欠かさず続けてきたことがあります。
誕生日を祝う様子を映像で記録して残すことです。

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多くの命が失われた日だからこそ、誕生日を迎えられることがかけがえのないものだということを伝えたいからです。

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(父・温さん)
「当たり前が簡単に手に入るものだと思うと、きっとそれはちがう。当たり前でいられる日々はものすごくありがたいことなんだなって。日々を大事に生きていくことの大切さを紡いでいけたらいい」

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ひなのさんは成長するにつれて、あの日に起きたことを理解するにようになりました。そして、複雑な思いを抱えるようになったといいます。

(小林ひなのさん)
「自分が生まれた日だからおめでたい日でもあるけど、同じ日にたくさんの人が亡くなったと考えると、悲しい。ニュースとか見ていると『あぁ、こういう日に生まれたんだ』と重く受け止めて、自分が何もできなかったことが申し訳ないって気持ちになってしまう」

そんなひなのさんはある日、両親にこう尋ねました。

「多くの人が亡くなった日にお祝いをしてもいいの?」

母親の洋子さんは、「いつか聞かれるかもしれない…」と思っていたものの、この問いかけにショックを受けたといいます。
それでも、ひなのさんに伝えようと思っていたことを話しました。

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(母・洋子さん)
「その言葉を言われた時は悲しかったのと同時に、そういうことがちゃんとわかる年齢、わかる子になったんだな、成長したんだなと。今でも悲しんでいる人がたくさんいるのは本当のことだけど、悲しむだけじゃなくて、亡くなった人の分もちゃんと生きよう、幸せになろうと思って、これから生きていけばそれでいいんだよ」

その言葉を聞いたひなのさんは、何も言わずにただうなずいたといいます。

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ことしの3月11日にひなのさんは13歳になりました。
両親の思いもあり、何気ない日常の大切さを意識するようになっています。

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(小林ひなのさん)
「なんでこういう日に自分は生まれたんだろうって思うときもあったんですけど。命の大切さ、重みを知ることができる日でもある。今、こうやって普通に生きられるのを大事にしようと思ったし、すごく命って尊いものなんだなと思って。この命をくれたからこそ、がんばって生きようとすごく思います」


 

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宮城県名取市で、両親と弟の家族4人で暮らす佐藤雛咲さん。
毎晩、家族で一緒にご飯を食べ、その日あったことを話す時間を大切にしています。

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雛咲さんも、2011年3月11日に仙台市の病院で生まれました。両親の結婚から6年目に生まれた待望の子どもでした。

ところが、喜びはつかの間でした。
誕生から12時間後に激しい揺れが襲います。

退院後も余震や停電といった震災の混乱が続く中、母親の寛美さんはミルクやオムツを買うことも難しく、手に入ったわずかなミルクを薄めてあげることしかできない状況でした。

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(母・寛美さん)
「子どものものだけでもちゃんとしたものをあげられたら良かったんですけど。あぁ情けないなって思いました。子どもが生まれた喜びを表に出してっていう感じではなかったですね。不安や心配、戸惑いの方が多かったので」

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雛咲さんは成長するにつれて、学校などで震災について学ぶ機会が増えました。
そして、あの日に生まれたことの意味を考えるようになったといいます。

(雛咲さん)
「たくさんの人が亡くなったとか、何万何千人とかよく聞いていたから。学校でも、誕生日には朝会で言われたりするから。そのときの写真を使ったり、映像を見せたりするから怖くなった。そんなに多くの人が亡くなったなら、自分も一緒に死んでしまいそうなのに、なんで生きてたんだろうって。自分が生まれたから津波とか地震が来たと思っていた」

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自分の思いを言葉にした雛咲さん。
3月11日が近づく2月下旬、家族で、母親の寛美さんのふるさと、気仙沼市を訪れました。
そこで見たのは、津波で大きな被害を受けた町が復興していく様子でした。
寛美さんと父親の文彦さんは、被災地にあるのは悲しみだけではないと語りかけました。

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(母・寛美さん)
「すごいね。大きな橋ができて。どんどん新しくなっていってる」

(父・文彦さん)
「震災でさ、いろいろなくなっても、13年か。13年たつと、ここまで戻るんだよ。だから能登(能登半島地震の被災地)も13年すればこうなる。戻るさ」

(母・寛美さん)
「人間ってすごいね。みんなでがんばろうがんばろうって、まちを作っていくんだね」

家族と一緒に町の様子を見つめていた雛咲さんは少し柔らかな表情で、心境を語ってくれました。

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(雛咲さん)
「知らないことを、話だけではなくて見ながら教えてもらえてよかった」

両親は、どれだけ傷ついても復興していく町の力強さを知ることで、雛咲さんには前を向いて生きていってほしいと願っています。

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(母・寛美さん)
「あなたはあなたの居場所があって、あなたのやりたいことをしてよくて。大きくなってほしい」

 

【取材後記】
NHKは、3月11日に生まれた子どもたちとその家族の取材をこれまで継続してきました。13歳になり、中学生になった子どもたち。インタビューでそれぞれの思いをしっかりと話してくれたのは、今回が初めてでした。自分の思いをこれほどまでに言葉にできるようになっていたこと、年月を感じたと同時に、震災、そして命と深く向き合ってきたことを知りました。これから年を重ねていく子どもたちが、今後何を感じ、どう生きていくのか。今後も取材を続けたいと思っています。

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映像センター 記者 藤田日向子
2010年入局 
秋田局・仙台局・社会部を経て現所属
去年2人目の育休から復帰
母としての視点も忘れず、これからも震災の取材を続けていく