【キャスター津田より】4月8日放送「福島県 浪江町」

年度が替わり、この番組も13年目に入りました。今月から「NHKプラス」でも配信され、放送後2週間、インターネットを通じて全国どこでも視聴可能です。「NHKプラス」での視聴を広めていただければ、全国の方々が被災地の声を聞き、現状を知ることができます。よろしくお願いいたします。
(NHKプラスの詳細は、https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=27292

 今回は、福島県浪江町(なみえまち)の声です。人口は約15000で、東京電力福島第一原発の事故で全住民に避難指示が出されました。2017年、町の中心部など人口の約8割が住んでいた地区で避難指示が解除され、それ以外は“帰還困難区域”として避難が続きました。しかし今年3月31日、帰還困難区域の中でも一部に限って避難指示が解除され、居住が可能になりました。
 2017年以降、町内では100戸以上の災害公営住宅が整備され、認定こども園や小中一貫の「なみえ創成小中学校」が開校しました。診療所、金融機関、ビジネスホテル、宿泊保養施設「いこいの村」も開業しています。大手資本のスーパーが進出し、移動販売も始まりました。食堂や居酒屋、自動車学校も営業し、最近はJR浪江駅の西側に、デイサービスなどの介護関連施設や交流施設、屋内遊び場や町民グラウンドを集約した「ふれあいセンターなみえ」も完成しました。酒蔵や伝統工芸品「大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)」の展示即売所が入る「道の駅なみえ」も、休日は賑わっています。コメの乾燥・貯蔵を行うカントリーエレベーターや、農家が共同利用するコメとタマネギの育苗施設も完成しました。世界最大級の水素製造拠点や産業用ロボット等の研究開発拠点も設けられています。

 はじめに、町中心部に住む葛西優香(かさい・ゆか)さん(36)を訪ねました。おととし東京から移り住んだ方で、都内のイベントで浪江町の臨時職員と知り合い、誘われて町を訪れたのが移住のきっかけです(※現在、町内に住む移住者は約60人)。移住後は隣町にある震災の伝承館の研究員となり、防災をテーマに研究活動を行っています。避難先で暮らす町民からも信頼され、古くから伝わる郷土資料を預かるまでになりました。地域の防災組織の復活も進め、来月、初めて避難訓練を行います。

「最初の時点でなぜか、“いつかここに住む”って思ったんですよ。私も分からないです。心が安らぐというか、不便は不便なんでしょうけど、住んでいる感覚が心地よすぎて、不便という考えに至らないですね。地元の方は“何かをしたいから移住してくる”と思っていて、まずは“何しに来た”ってよく言われるんですけど、“私は浪江じゃなきゃダメなんです”と答えるしかなくて…。“浪江が好き”という言葉の裏には、自分も気づかない、人生で大事なことが隠れているかもしれないので、“浪江に来たのはこういう理由だったんだ”と気づくように、いろんな人に出会って過ごしたいと思います」

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 復興支援活動のために移住する例は過去にもよくありますが、震災から12年経ち、“住む場所”として純粋に気に入って移住する方も出てきました。
 また、帰還困難区域のうち3月31日に避難指示が解除され、居住可能になった地区にも行きました。除染とインフラ整備が完了した“復興拠点”と呼ばれるエリア(4地区の計661ヘクタール)です。
ここで出会ったのは、室原(むろはら)地区の志賀隆成(しが・たかなり)さん(63)と、妻・律子(りつこ)さん(59)です。震災前の自宅は取り壊し、去年、新築しました。律子さんは、“避難先の人と合わなかった…何もない所で育ち、生まれも育ちもここなので、ここの方が落ち着くんです”と言いました。3代続く農家で営農再開を目指していますが、避難先には両親と暮らす家があるため、2つの拠点で交互に暮らす生活が続きそうです。隆成さんはこう言いました。

「将来は浪江の家がメインになるのは、間違いないでしょうね。息子も娘も親も、皆で乗り越えた12年でした。いろいろあった家族もあるらしいけど、うちは気持ちだけはバラバラにならなかったから」

 移住者の増加や避難指示の解除など、町内では確実に復興の進展を感じます。ただ、15000人以上が住民登録しているものの、実際に町内に住んでいるのは1964人(2月末現在)と、約1割に過ぎません。 
そこで次は、避難先にいる町民を取材しようと、福島市に行きました。福島市には帰還困難区域の津島(つしま)地区にあった寺が“別院”という形で移っていて、住職の横山周豊(よこやま・しゅうほう)さん(83)によれば、去年、浪江町の寺は解体したそうです。避難指示は3月31日に解除されましたが、檀家の帰還が進まず、新たな本堂建設の先行きは不透明です。

「解除は本当ありがたいと思います。でも、これから先が至難な道ですよ。住民はそう簡単には帰りませんよ。津島には商店もなければ、病院もない、運転できない人たちは交通手段が何もないから。 “津島に帰りたい”という要望のお檀家さんもかなりいらっしゃいます。皆さんとお会いすると、人が変わってしまった感じがしてならないんです。物資的な復興も大事ですけど、問題は心の復興ですよ」

 また、南相馬(みなみそうま)市の災害公営住宅では、室原地区の吉田(よしだ)トヨ子さん(75)に話を聞きました。2016年から南相馬市に住み、自宅の避難指示は3月31日に解除されましたが、夫の通院のため帰還は諦めました。おととし自宅を解体し、月に1度、草刈りのため跡地に通っています。

「避難指示の解除は“いまさらだな”という感じ。せめて建物を解体する前だったら、ちょっとは違うと思ったんだけど、何も無くなっちゃったし、周りの人も帰ってくる気配が全然ないのでね。手放してもいいとは思うんですけど、どういう人が買い取るのか分からないし、そのことで周りに迷惑をかけないかなと思ったり…。こういう状態が何年続くのかと思うと、悩みの種っていうかね」

 吉田さんの趣味は、仮設住宅にいたころ出会ったハーモニカで、仲間が近くに移り住み、交流が続いています。何でも打ち明けられる友だちが、一番の支えだと言いました。
 さらに町外居住者の中には、今も自宅が帰還困難区域のままだという人もいます。復興拠点は、帰還困難区域全体の3.6%(人口は約880)に過ぎません。9割の帰還困難区域がそのまま残り、復興拠点外には約1700人が住民登録しています。今回は、帰還困難区域の家に一時帰宅するという、末永一郎(すえなが・いちろう)さん(66)に同行させてもらいました。12年間手つかずの自宅は、畳に土やほこりがこびりつき、あらゆる家具が散乱して、一部は床も抜け、壁には野生のタヌキやハクビシンが開けたという穴がありました。正直、家とは思えない荒廃ぶりです。息子と石材店を経営する末永さんは、9年前、大玉村に自宅と会社を再建したため、帰還は断念しました。

「帰る・帰らないは別の問題だって言ってんだ。汚したものは、きれいにして返せって。国の復興計画を立てる人たちに、ここ来て見てもらいたい。12年過ぎてどういう状況になっているのか…。無力感はあるよ。でも、訴え続けないと。今でもこういう状況で苦しんでいる人がいることを、訴え続けないと。自分の生まれたふるさとに、いつでも安心して戻れる状態にしてくださいというのが希望です」

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 政府は今年2月、帰還困難区域内の復興拠点を外れた地区について、戻って暮らしたい人がいれば、自宅をはじめ周辺道路などの生活圏を国費で除染し、必要なインフラ整備を国が代行する方針を決めました。逆に、避難先にも生活拠点を残し、町内の自宅との両方で暮らす意思を示した人や、帰還しない人には、国は家の解体も除染もしてくれません。復興から取り残された方々は確実に存在します。

 最後に、町出身の若者に会って話を聞きました。去年から、仙台市にある東北学院大学の歴史学科では、浪江町で200年以上続く郷土芸能「南津島の田植踊り」を継承する授業がスタートし、20人ほどが取り組んでいます。帰還困難区域の南津島地区は今も住民が離散したままで、授業を発案したのは南津島出身の学生、今野実永(こんの・みのぶ)さん(20)でした。中学3年生の時、多くの町民が避難する二本松(にほんまつ)市で初めて踊りを披露したそうです。

「踊り終わった後、自分を見守ってくれていた地域の人たちから、泣きながら“ありがとう、ありがとう”とすごく言われたんですよ。その時、南津島には帰れないかもしれないけど、地域の人たちにできる唯一の恩返しの機会かもしれないと思ったんです。この田植踊りを途絶えさせないためにどうすればいいのか、高校3年間考えて、進路を“民俗学”が勉強できる学院大学の歴史学科にしたんです。」

 「田植踊り」の授業では、避難中の住民が1年がかりで踊りを教えました。仙台市出身の佐久間奈帆(さくま・なほ)さん(20)や南相馬市出身の伹野就斗(ただの・しゅうと)さん(20)など、浪江町にゆかりのない学生たちは、南津島の人たちに田植踊りの継承を感謝され、感極まるとともに、力になれている実感があったそうです。今野さんは、“住む人がいないことより、守り伝えるものが途絶えた時こそ、本当にふるさとは消滅する”と、かみしめるように言いました。

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