東日本大震災の記憶をつなぐ、12の食事の物語。

東日本大震災が起きた13年前の2011年3月11日。
みなさんは、当時食べたものを覚えていますか?
つらい体験と重なる味もあれば、優しく寄り添ってくれた味も・・・。
全国各地にいた人たちの“料理にまつわる物語”とともに、
“あの日”のさまざまな記憶をお伝えします。


案内人・ムロツヨシさんが震災当時の料理をご紹介する番組を放送します。

東北ココから「“あの日”を語る料理店」[総合・東北地方向け]

3/8(金)【総合】午後7:30~ ※岩手県は午後8:15~
3/9(土)【総合】午前10:30~ <再放送>
※NHKプラスで3/22(金) 午後7:56まで見逃し配信中 こちらから

ドキュメント20min. 「“あの日”を語る料理店」[総合・全国]

3/11(月)【総合】午前0:00~ <日曜深夜>
※NHKプラスで同時・見逃し配信1週間
※NHKオンデマンド、TVerでも放送後に配信します。

 



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「砂まじりのおにぎり」 高橋未央さん(46) 宮城県石巻市出身

東日本大震災が起きた3月11日。高橋未央さんは生後4か月の子どもを抱えて、実家の裏山に避難していました。津波から逃れ、着の身着のまま、電気も食べ物もない山の中で一夜を明かしたのです。

翌朝、一緒に逃げた近所の人たちが、がれきの中から見つけてきたのが、2キロの米袋。
拾った鍋と川の水で米を炊いて、おにぎりを作ったそうです。

本当に味のついていない、ただのごはん。2口3口目くらいでジャリっと感じて、砂入っているんだ、と思って。

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未央さんが考えていたのは、自分の空腹を満たすことより、一緒に避難した息子のことでした。
十分な食事がとれず、母乳が出なくなっていたのです。
息子はずっと泣いていて、周りの人たちもそれに気づいていました。

おばちゃんたちが「食べろ食べろ」と言ってくれて、おいしかったです。胸が張ってくるのが分かるんです、母乳が出るっていうのが分かる。この子は私がいないと生きていけない。生きるために食べなきゃ、何としても食べなきゃっていう、必死だったんです。


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「“生ぬるい”おむすび」 吉田千春さん(53) 宮城県気仙沼市

発災直後、被災地の避難所では食べ物が不足していました。
吉田千春さんが、避難先の学校の体育館で最初に口にしたのは、小さな丸いおむすび。
1人1個をルールとして順番に配られましたが、中にはルールを守らず何度も並ぶ人や、子どもや他の人を顧みず我先にと取り合う姿も見て、悲しい気持ちになったそうです。

そのおむすびは、給食センターで働く人たちが必死で作って届けてくれたものでした。
支援してくれる人への感謝の気持ちと、そんな食べ物を取り合ってしまう人間の嫌な一面を目にしたことで、”おむすびはとても複雑な、生ぬるい”記憶として残っているといいます。

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「“ありがたみ”の意味を知った魚肉ソーセージ」 竹内絵里子さん(46) 福島市

竹内絵里子さんは食べるものがなかった3月11日の夜、同じ避難者から1本の魚肉ソーセージをもらいました。避難所で配られた白ふかしの“おかず”にして、少しずつ噛みしめながら食べたそうです。大変な状況でも「食べ物を分かち合おう」という気持ちが心にしみて、“ありがたみ”の本当の意味を知ったといいます。

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「炊き出しのカップの海鮮丼」 NHKディレクター 当時 宮城県石巻市取材

被災地を取材していたNHKのあるディレクターは、プラスチックのカップに盛られた海鮮丼のことを覚えていました。津波の被害を受けた鮮魚店が、冷蔵庫に残ってしまった新鮮な魚介を、避難所の炊き出しのために提供したものです。大トロ・ウニ・イクラ・・・地元で採れたメカブもあって、不思議なくらい豪華だったそうです。

震災当時の食事には、いろんな現実や感情が入りまじっていたのです。

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「涙が止まらない野菜炒め」 菅原貴子さん(53) 宮城県多賀城市

菅原貴子さんは、震災から10日ほど経ったころ、野菜炒めを食べました。
物流の混乱や買い占めが起き、お店で品切れが続く中、近くに住む母親が差し入れてくれたのです。
具は、ニラとキャベツとシメジの3品だけ。塩こしょうで味付けたシンプルなものでした。

「あれ、キャベツってこんな味だったっけ?」というぐらい、野菜の味一つ一つがすごい飛び出てきて。自分が子どもの時に食べた味のような気がしたんです。そうしたらスイッチが入っちゃったみたいに、わんわん泣いてしまいました。

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貴子さんにとって、非常食ではない手作りの料理を食べたのは本当に久しぶりでした。
でも、涙が止まらなかった理由は、それだけではありませんでした。子どもたちの小学校は休校が続き、貴子さんも仕事に行くことができず、これから先の生活を考えると不安で仕方がなかったのです。
子どもたちの前で不安な気持ちを隠し、気丈にふるまっていた貴子さんを、お母さんの野菜炒めはあたたかく包み込んでくれました。

私が不安だったところに、母の気持ちが伝わったのかな。「大丈夫、大丈夫、元に戻るから。続かないよ、こういうのは。」っていう。食べ終わった後に「あ、頑張ろう」って思えたんです。

いつもは何気なく食べている料理でも、震災当時に食べたときの味は全然違うようでした。
被災した地域では、他にも、こんな食事の話を聞きました。


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「ご近所を励ますラーメン」 阿部繁之さん(56) 宮城県仙台市

仙台にある町中華の店主・阿部繁之さんは、毎日300人分くらい大盛りのラーメンを作って出し続けたと話してくれました。近所で働き続ける警官や店員たちを見ていて、あたたかくて腹持ちのいいラーメンを出そうと思ったのです。
ガスが止まっていたので、親戚からプロパンガスを調達して、足りなくなったら薪を燃やして、スープを仕込みました。お客さん一人ひとりからもらった感謝の言葉は、今でも忘れられないそうです。

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「最後に食べた目玉焼き」 10代男性 当時 福島県大熊町

福島では原発事故が起きて、たくさんの人が突然、ふるさとを離れなければならなくなりました。
当時小学1年生だった男の子が、避難の直前に家で食べた目玉焼き。お母さんが、地震で割れなかった卵で作ってくれたそうです。そのあとすぐ、少しの荷物を持って避難のバスに飛び乗りました。
「あれが我が家での最後の食事になるとは夢にも思わず、忘れられない」と教えてくれました。


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「分け合ったお土産」 小林敬一郎さん(58) 東京都練馬区

東京で医療機器の営業をする小林敬一郎さんは、3月11日、仙台からの出張帰りで新幹線に乗っていました。午後2時46分、乗っていた新幹線は緊急停止。深夜まで閉じ込められ、その後、救援のバスで栃木県の体育館へ避難することになりました。
敬一郎さんの手元にあったのは、仙台で家族へのお土産に買っていた笹かまぼこでした。

何とはなしに笹かまぼこを開けて、輪になって座っていた10人ぐらいに『これ食べてください』と言って分けたんですね。そうすると『ありがとうございます。じゃあ私も』とお菓子を開けて配ってくれたご年配の女性がいらっしゃったんです。

ふいに始まったお土産の交換会。疲れ果てた人たちの間に、束の間、穏やかな空気が流れました。

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お茶菓子を持ち寄っておしゃべりするような感覚に一瞬なりましたよね。本当に親戚でも友達でも全然ないんですけど、すごい縁だなというか。毎年3月になると「あの当時の人、どうしてるのかな?」って思い出します。

被災地だけでなく、どの地域にいた人にとっても、“あの日”は非日常だったのではないでしょうか。

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「味のしない高級ステーキ」 三村由美子さん(73) 長野市

長野県に住む三村由美子さんはあの日、40年勤めた銀行を定年退職する人生の節目を迎えていました。
昔からお気に入りだったステーキ店での送別会を楽しみにしていましたが、その日はキャンセルに。

しかし自分のことより、東北の人のことが気になって、平常心ではいられなかったそうです。
由美子さんにとって東北は、何度も旅行で訪れてきた親しみのある土地だったからです。

子どもが小さい頃から東北が大好きだったので、夏休みとかに足を運んでました。東北の人は気持ちがあったかいですよ。

由美子さんは東北の店舗の支援や、義援金集めに奔走しました。
同僚が改めて、同じステーキ店でお祝いの席を設けてくれたのは、2週間後のことでした。

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送別会はひとつの区切りなので、やって区切りをつけなきゃいけなかったんです。
でも、東北の地震のことが絶えず頭に浮かんで、おいしいステーキの味さえも記憶から飛んでいるんです。

それ以来、ステーキ店を訪れることはできていないそうです。
でもいつかまた、孫たちを連れて行ってみたい、そこで震災の話も伝えたい、と語っていました。

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「イチゴをのせるはずだった6歳の誕生日ケーキ」 50代女性  当時 宮城県仙台市

“あの日”が娘の6歳の誕生日だったお母さんに教えてもらったエピソードです。
イチゴをのせたら誕生日ケーキが出来上がるというところで、地震が起きました。
娘の誕生日は震災のあった日になり、「お祝いしていいのだろうか」と、うしろめたさを感じた時期もあったそうです。でも今は毎年、娘が大好きなケーキのイチゴを沢山のせて、誕生日をお祝いしています。

2011年3月11日は金曜日でした。
仕事があったり、卒業式やイベントがあったり、それぞれの1日があったと思います。

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「先生が作ってくれたロコモコ弁当」 浅沼千尋さん(30) 宮城県石巻市

13年前、高校生だった浅沼千尋さんは、津波で自宅を流され、避難所から学校に通っていました。
クラスの中でただ一人、自宅が全壊し、思い出の物も全部なくなってしまった千尋さん。
家が残っている友達のことを「うらやましい」と感じることもあったそうです。
誰か自分の気持ちに共感してくれる人に、心の内を話したいと思っていました。

そんなある日、弁当が持参できない千尋さんに、担任の先生が作ってきてくれたのが「ロコモコ弁当」でした。

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「すごっ!」みたいなことを言ったと思います。先生と向き合ってお弁当を食べていた時間が、唯一、自分の思っていたことを話せた時間でした。うれしかったです。自分も今お弁当作るようになって、作る側の気持ちが分かるようになって。食べてもらいたいって考えながら作るって、すごい特別なことなんだなって思います。

年々愛おしくなる、あの日の、あの味。
高校の卒業以来、12年ぶりに当時の担任、佐々木祥子先生に会いに行きました。

(千尋さん)先生がそういうことをして下さるタイプだと思ってなかったから、気持ちがうれしくて。

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当時の感謝の気持ちを込めて、今度は千尋さんがロコモコ弁当を作って手渡しました。
「私の作ったお弁当よりずっとおいしい!」と喜んでくれた佐々木先生。高校生の千尋さんを見ていたときの気持ちを教えてくれました。

(佐々木先生)元気を装っていたけど、本当は違ってたよね?やっぱりちょっと悲しい表情をしたりしてたよね。私は何もできずにただ見ていて、何かできることがあるならやりたかったっていうのもあるけど、何かすることによって、自分も前に進んでいるじゃないかなって思ったのかもしれません。

相手を思いやる気持ちがつまった、優しい味。
2人は当時のことを振り返り、「悲しい記憶だけではなかった」と話してくれました。

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「緑色の手作り蒸しパン」 新井梢さん(39)茨城県筑西市

最後にご紹介するのは、新井梢さんが、今も時々作っている料理。
当時、地震で不安がる息子のために手作りした「蒸しパン」のエピソードです。

梢さんが、息子の裕翔(ひろと)くんに作る蒸しパンには、昔から隠し味がありました。
それは、青汁パウダー。幼い頃、便秘気味だった裕翔くんのために「“抹茶”の蒸しパンだよ」と言って、食べさせていたそうです。
あの日も緊張を和らげてくれたのは、食べ慣れた緑色の蒸しパンでした。

いつもおちゃらけていたり、『怖い』とかすぐ泣いたりする子だったのに、そのときは泣かなくて、必死で我慢しているのを感じました。少しでもほっとできる時間を作ろうと思って、いつものおやつを出しました。裕翔が普通に「おいしい」と言って食べてくれたので、「良かった」と私も安心しました。

当時4歳だった裕翔くんは今、高校2年生になりました。

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(裕翔くん)あの日、蒸しパンを食べたことは覚えてないや全然。覚えてないからなんとも言えない。

(梢さん)でも、おいしいって言って食べてたね。食べてほっとしていたら、後からばあちゃんが来たんだよね。覚えてない?

(裕翔くん)じいじんち行ったのは覚えてる。

いつもと変わらない味は、“あの日”と今を、つないでいました。


13年後を生きる私たちに、大切なことを思い出させてくれる、“あの日”の味。
NHK仙台では、「あの日」のエピソードをHPで募集しています。

もしよろしければ、みなさんの物語も教えてください。
あの時、どこでどんな食事をしていましたか?

あなたの“思い出の食事”のエピソードも聞かせてください。

NHK仙台では、「あの日、何をしていましたか?」と題して震災当時のエピソードを募集してきました。
これまで全国各地から2500をこえる投稿をお寄せいただいています。
あの日の食事のことでも、他のことでも、どんな些細なことでも構いません。
NHK仙台の特設サイトからあの日のエピソードを投稿できます。

NHK仙台 みんなの3・11プロジェクト「あの日、何をしていましたか?」
https://www.nhk.or.jp/sendai/311densho/souieba/


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放送の情報 =====

東北ココから「“あの日”を語る料理店」[総合・東北地方向け]

3/8(金)【総合】午後7:30~ ※岩手県は午後8:15~
3/9(土)【総合】午前10:30~ <再放送>
※NHKプラスで見逃し配信2週間

ドキュメント20min. 「“あの日”を語る料理店」[総合・全国]

3/11(月)【総合】午前0:00~ <日曜深夜>
※NHKプラスで同時・見逃し配信1週間
※NHKオンデマンド、TVerでも放送後に配信します。


20240306-ryouriten_022.jpg【イラスト】
endo mayuko(遠藤 真裕子)
1996年生まれ。宮城県名取市閖上出身。宮城野高校美術科を卒業後、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)に進学。情報デザイン学科にて、グラフィックデザインやイラストレーションを学ぶ。卒業後は都内にあるブランディング企業やデザイン事務所で働き、2022年独立。現在は宮城県を拠点にフリーランスのデザイナー/イラストレーターとして活動中。職業の傍ら作家活動にも勤しみ、作家として様々な形態の作品を制作している。
NHK仙台「みんなの3.11プロジェクト」のリーフレットのイラストも担当。


20240306-ryouriten_021.jpg【執筆者】
仙台放送局ディレクター 岩戸良輔
2016年入局。 “あの日”は大学受験に落ちた翌日で、昼間から部屋で寝込んでいました。
仙台局では「みんなの3・11プロジェクト」のメンバーとして活動を続けています。今回の番組で取材したお一人の方に「あの日、みんなバラバラの場所で経験した食事の記憶が料理店を舞台として大切に集められていることに心強さを感じる」と言っていただきました。その方自身は被災していましたが、自分とは違う立場の方とも思いがつながったことを、喜んでくださいました。人それぞれに体験や思いが異なる“東日本大震災”を、どう伝えていくか、誰かを置いてけぼりにしていないか、いつも自問しているので少しほっとしました。「食べ物」という、身近な題材をきっかけに、普段は交わらない地域や立場の方の思いにも、触れていただけたら幸いです。