二女子町 四女子町 五女子町 名古屋市中川区の地名の謎を追う
- 2024年03月15日
今回マチコエ調査班に寄せられらたのは、こんな疑問。
「名古屋市の地名で二女子(ににょし)町、四女子(しにょし)町、五女子(ごにょし)町がありますが、地名の成り立ちや『一』から『三』もあったのかなど気になります」。
「漢数字」に「女子」が付く、名古屋市中川区にある独特な地名。その由来は?そして「一女子」「三女子」もあったのか?地名の謎を探りました。
(NHK名古屋 ディレクター 富永康介)
漢数字に女子 独特な地名の由来は?
疑問に出てきた地名は、中川区の東部。
中河運河を挟んで東側に二女子町(ににょしちょう)と五女子町(ごにょしちょう)、西側に四女子町(しにょしちょう)があります。
さっそく、現場にいた人たちに地名の由来を聞いてみました。
まったく予想がつかないです
五女子の由来はね、5人の美女がおったもんで…
親として嫁に行かしたんじゃないの?
美女がいた数?お嫁さん?街の人に取材してさまざまな予想が出てきましたが、はっきりとしたことは分かりませんでした。
実は「7」まで!ナゾは解き明かされていた!
取材を進めると、地名の由来に詳しい方が中川区にあるお寺にいらっしゃるという情報をつかみました。
こちらでは、中川区内の歴史や地理を勉強する会が月に1回、開かれています。
会のメンバー、久田貞夫さんは、はっきりとした理由が分からなかった地名の由来を、様々な文献を集めて5年前に解き明かしたといいます。これは、期待できそうです!
久田貞夫さん
「一から七までありましたよ、とここに書いてあります。実は七まであったんです。」
1から7!?
久田さんによれば、一女子、三女子だけでなく、六女子、七女子もあったといいます。
どういうことなのか…
久田貞夫さん
「『古渡志』の記載を見ますと、『福有之人有リ』、つまり、お金持ちの人がいましたよ、と。娘が7人いまして、7か所へお嫁にやって、『子孫栄へたり』『一女子村ヨリ七女子村マデノ号アリ』ということで、一から七まであったと。」
久田貞夫さん
「お嫁にやった先(の土地)を夫に与えたという風になっていますね。それほど土地をたくさんもっていた裕福な人がいたということで。」
久田さんによれば、そのお金持ちというのは、8世紀・奈良時代頃、名古屋一帯を治めていた尾張氏の当主。
自分の7人の娘のうちの長女に、相当の領地を付けてお嫁に出したそう。
その地が、名付けて一女子村(いちにょしむら)。
その後、次女、三女、そして七女まで同様につづき、この地名のルーツになっているそうです。
幻の一・三・六・七の女子村はどこだった?
では、マチコエのもう一つの疑問、一女子、三女子はどこにあったのか?さらに予想外の六女子と七女子の場所とは?
過去の文献を元に、幻の4つの女子村を探し出します!
◆一女子村
『古渡志』の文献によれば一女子村は現在の古渡町を中心としていたことが判明しました。
◆三女子村(2つの候補地あり)
三女子村については、2つ候補地があり、ひとつは江戸時代後半の村絵図で確認できる、現在の西生寺の北側周辺。
もう1つは、絵図から15年のちにしるされた『尾張国地名考』で、「くらがりの森と佐屋街道との間にあり」と書かれていることから、現在の闇之森八幡社と佐屋街道の間。
◆六女子村と七女子村
絵図を見ると、六女子村という文字が。
さらに絵図とほぼ同じころに編さんされた地理記録を見ると、七女子村は松ノ木という場所、かつ、六女子村は七女子村跡と地続きの地と書いてありました。
◆一女子村から七女子村のまとめ
一女子村:現在の古渡町を中心としていた
三女子村:現在の西生寺の北側周辺、または現在の闇之森八幡社と佐屋街道の間
六女子村:現在の小塚町あたり(七女子村跡と地続き)
七女子村:現在の松ノ木町中心
一から七の女子村の場所はこのようではないかと考えられそうです。
〇女子地名のナゾ 調査結果
・実は「一女子」から「七女子」まであった。
・由来は8世紀ごろの尾張氏の当主が7人の娘のために土地を与えたというエピソードから。
(※諸説あります)
ペンネーム 弥八さん、すてきな疑問をありがとうございました!
中川区のみなさんも、お話を聞かせていただきありがとうございました。
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