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マリウポリの20日間 ~アカデミー賞映画監督 M・チェルノフ氏インタビュー~

3月10日、第96回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞したウクライナのムスティスラフ・チェルノフ監督。ロシアの軍事侵攻が始まって間もない2年前の2月、監督はAP通信のカメラマンとして、同僚と共にマリウポリに入りました。

現地に残るのはAP通信のクルーのみで、ロシアの包囲が続く中で、現地の映像を世界に発信し続けてきました。

監督らは優れた報道などに送られるピュリッツァー賞を受賞、映像をまとめた映画「マリウポリの20日間」も数々の賞を受賞しました(日本では今月下旬から全国で順次公開)。現地で監督が見たものとは、そして映画に込めた思いとは。

(政経国際番組部 プロデューサー 田中 雄一)

映画をご覧になった方、このインタビューを読んだ方からの感想をお待ちしています。
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侵攻前日にマリウポリに行くと決めた

ーーロシアの軍事侵攻の直後にマリウポリに入られています。なぜマリウポリに入ろうと考えられたのか、どのように入られたのか、教えてください。

ムスティスラフ・チェルノフ監督
チェルノフ監督

マリウポリは戦争が始まった当初から象徴的な存在、ウクライナ国民の象徴的な場所でした。そして、ロシアにとってマリウポリはクリミア半島への回廊で戦術的な目標であり、常に必要としていましたし、ロシアにとっても象徴的な目標だったのです。


私は実は本格的な侵攻が始まる前からマリウポリに行くことを決めていました。侵攻の前日には、私たちはロシアが24日に攻撃するかもしれないという兆候を見て、23日の夜に準備をし、マリウポリに行くことを決めました。

ーーマリウポリに入られることを決めたときに、ロシアによる攻撃や包囲がこれほど激しく、かつ長引くと考えていましたか?

チェルノフ監督

非常にいい質問です。私はマリウポリがいずれ包囲されることは予想していましたが、そこが占領されるとは思ってもいませんでした。ウクライナ軍がマリウポリの守備隊を助けるために軍隊を派遣するのは非常に難しいだろうとは思いましたが、しかしまた、これほどの無差別爆撃や、これほどの集中的な破壊も予想していなかったのです。私たちは、戦闘は主に都市の外で起こると考えていました。

撮影は「悪夢を見ているような気分」だった

ーー映画では子どもを失った親の慟哭(どうこく)など、多くの人々の痛みや悲しみが記録されています。どんな思いでカメラを回していましたか?

チェルノフ監督

撮影は難しかったです。それは映像が生々しいからでも、血が流れているからでもないと思います。子どもを失った親にとって、精神的なダメージがあまりにも大きいからです。私も子を持つ親で、覚めることのない悪夢を見ているような気分でした。毎日毎日、次から次へと子どもが死んでいきます。(治療にあたる)医師たちも同じように感じていました。


この「なぜ」という問いは、この映画の中心にある問いですし、ウクライナ国民全体にとっても、私にとっても中心的な問いだと思います。なぜロシアがこれほど多くの人々を攻撃し、殺す必要があったのか、私たちはまだ理解できていません。


どこに行っても、紛争があり、人々は死んでいきます。彼らは皆、等しく同情に値するのです。ただ、今回は自国での戦争です。自分たちの家が破壊され、隣人や愛する人が殺されていくのを目の当たりにします。だから、より一層、撮影は難しかったです。

ーーカメラを回し続けることに葛藤はなかったでしょうか?

チェルノフ監督

もちろん、苦しんでいる人々を撮影するのは簡単なことではありません。撮影されることを嫌がる人たちもたくさんいました。


ただ、映画の中でも分かるように、非常に多くの人々が、私に話しかけ、撮影を続けるよう求めていました。そして、もし私が撮影を続けなければ、誰も撮影する人がいなくなることも人々は理解していました。何が起こっているのか、誰にも分からなくなってしまうのです。


だから、私にとってはどんなに大変なことであっても、その重要性、必要性を感じていました。私はこれはやらなければならないことだと、理解していたのです。

ーーロシアの攻撃が続き、街には水や電気もほとんどない中でどのように撮影を続けてきたのですか?

チェルノフ監督

特に危機的な状況で撮影しているとき、アドレナリンが分泌されるからか、必死で生き延びようとするものです。いつまた空爆があるかわからないし、別の飛行機が飛んできて爆弾を落とすかもしれませんから。


ただ、ジャーナリストの私にとっては、別の困難もありました。1日街を歩けば缶詰などの食料は手に入るし、雪を溶かして水を得ることもできました。しかし、バッテリーを充電し、2分ほどの短い映像を送ることは最も困難なことでした。ウクライナの赤十字の建物は爆弾で破壊され、そこでバッテリーを充電することはできませんした。充電していたホテルの発電機はすぐにガソリンを使い果たしてしまいました。残されたのは病院だけです。手術室は発電機で動いていましたが、負傷者が絶え間なく押し寄せていたので、常に稼働していました。充電できるのはそこだけでした。充電して撮影する。写真はどうやって送ればいいかというと、動画は非常に小さなクリップに分割する必要がありました。10秒のクリップを送るために、何らかの回線を見つける必要がありました。接続は非常に弱く、3台の携帯電話を使って行いました。近くで爆弾が落ちてくる中、誰もいない通りにある食料品店のコンクリートの階段に座って、映像を送ることもありました。


マリウポリにいた20日間で送ることができた映像は40分程度だったと思います。マリウポリから脱出したときには約30時間の映像がありました。ハードディスクやカードをすべて手元に残せたのは幸運でした。(ロシア軍に見つからないよう)車のシートの下などに隠して持ち出したのです。

「最も打ちのめされた」のは最終日に見た光景

ーー取材の中で最も辛かったこと、困難だったことは何でしょうか?

チェルノフ監督

私が最も打ちのめされた瞬間は、取材の最終日、20日目だったと思います。


赤十字のスタッフが私たちを地下に連れて行ってくれました。そこで助からなかった人たち、救うことができなかった人たちの遺体をすべて見せてくれました。そのとき、彼が広げ始めたのは小さな包みでした。それは赤ん坊の死体でした。私はぞっとしました。その直後、私たちは街を離れましたが、その映像はずっと私の心に残り、今に至るまで私の心に残っています。彼らは私たちがこのことを世界に伝えることを望んでいたのです。このことを世界に。

ーーその後、マリウポリを脱出することになりますが、どんな思いで現場を離れましたか?後ろ髪を引かれるような思いはあったのでしょうか?

チェルノフ監督

街を離れる人々にとって、それは共通の感情としてあったと思います。街を離れることになった医師たちも罪悪感を抱いていました。私たちはその感情とともに生きていくしかないのです。おそらく、その感情が私の背中を押し、人々の物語を伝える原動力となるのです。それが私の仕事であり、責任です。私は自分の仕事をし、責任を果たす決心をしたのです。自分の義務を果たすために危険を冒すことも厭(いと)いません。私の義務なのです。

過酷な環境下での「希望」も伝えたかった

ーー映画の中では悲惨な映像だけでなく、子どもの誕生や、人々が助け合う姿も描かれていて、そこに希望も感じました。映画にどんな思いを込めましたか?

チェルノフ監督

子どもの出産の映像は、私たちが包囲網から抜け出したときに初めて送ることができました。あの時は、他に送る方法がなかったのです。


あのとき、医師たちが「病院で人が死んでばかりだから出産は奇跡だ」と言いました。私は希望を失いかけていましたが、その瞬間、私はこう感じたのです。「人生は続いていく」と。そう、希望を感じたのです。


子どもの誕生の瞬間だけではありません。過酷な環境の中でも人々が互いを思いやり、知らない人同士でも互いのために危険を顧みず助け合うこと、それは感動的なことでした。繰り返しますが、希望はありました、多くの希望があったのです。希望の気持ち。暗闇の中の一筋の光。それが私の望んだこと。それが私の感じたこと。そしてそれこそが、私が映画を通して観客に伝えたかったことなのです。

取材後記

ロシア軍の包囲によって、インターネットも遮断され、情報がほとんど届かなくなったマリウポリ。様々な手段でアクセスを試みても、街の中で何が起きているのか分からない状況が続いていました。

そうした中で、唯一、現地から映像を配信し続けていたのがAP通信です。私は東京で日々のニュース制作に追われながらも、「そこで誰かが命をかけてカメラを回し続けている」その事実に深い感動を覚えたことを今でも鮮明に記憶しています。もしそこにチェルノフ監督らがいなければ、決して伝わることのなかった人々の悲しみや苦悩が映像には記録されていたのです。

しかし今回、映画化された作品を見て、さらに強く心を揺さぶられることになりました。新しく誕生した命を前に微笑む医療スタッフたち、絶望的な状況の中でも助け合おうとする人々、その姿が編み込まれていたからです。監督はそれを「希望」と呼びました。侵攻から2年、ウクライナの苦境も伝えられていますが、監督の言う「希望」の光は決して途絶えることはない、そう感じています。

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