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愛媛にJリーグの種をまいた豊島吉博

  • 2023年05月16日

1993年5月15日は、サッカープロリーグ、Jリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスが行われた日です。
実は、この1か月後に、愛媛県で初めてのJリーグ公式戦が松山で行われたのをご存知でしょうか。
当時、地元チームもなく、立派なスタジアムもなかった愛媛で、あの試合を実現させた方に迫りました。

(NHK松山放送局 田中朋樹)

日本初の仮設照明でのJリーグ開催

Jリーグが開幕した30年前、愛媛には、地元のプロチームも、Jリーグの基準を満たしたスタジアムもありませんでした。その時、愛媛でのJリーグ公式戦開催に動いたのが、当時愛媛県のサッカー協会理事長だった豊島吉博さん(現・名誉会長)です。

初めて愛媛でJリーグが開催されたのは、開幕からわずか1か月後の1993年6月12日。サンフレッチェ広島と鹿島アントラーズのカードでした。

愛媛県サッカー協会名誉会長 豊島吉博さん

「やっぱりどうしても、この盛り上がりのなかで、愛媛の人、愛媛の子どもたちにやっぱり夢というかね、本当に素晴らしいものを、見せてあげたいなと」

この試合が実現したのは、地元愛あふれる豊島さんの情熱の賜物でした。
Jリーグの開催基準の一つに、照明設備の設置がありました。しかし、会場の愛媛県総合運動公園陸上競技場(現・ニンジニアスタジアム)には、いわゆるナイター照明設備がありませんでした。
何とかして試合を開催できないかと、豊島さんは一計を案じます。

「ナイター照明をとりつけて試合ができるようにしたら、やらせてあげるという、Jリーグ側の言質を取ったんですよ」

そこで豊島さんが相談したのは、音楽の野外ステージを手掛けていたイベント業者。
ふだん何もない野外でステージ照明をしている点に着目しました。
その業者は、「仮設照明を、スタジアムの外からクレーンでつるして、中を照らす」という大胆なアイデアを提供し、見事実現させることができました。

Jリーグの熱狂は四国にも

この日、競技場につめかけたのはおよそ2万5千人。
豊島さんは、想像以上の観客の多さに、最後まで無事開催できるか不安を感じながらも、Jリーグ人気の凄さを肌で感じました。

「続々と人が来て、座れないだとか、入れないとか、みんな大混乱してて・・・運営に追われ、試合もろくに見てないという感じでした。まあほんとに、うれしいのか何か大変なのかよく分からないうちに終わったというのが正直なところです」

「でも、終わったあとに、楽しんだお客さんの表情とか雰囲気見たら、何かこう込み上げるものもあったんじゃないですか」

「私もここで生まれて育って、やっぱり田舎のハンディっていうのは、やっぱり本物を見る機会が少ない。本物を見る、実際体で見て、感じて、やるというのはすごく情操にプラスになるんですよ。これが田舎は決定的に都会との差なんで、そこをなんとかしてあげたいという一心でした」

愛媛にJチームの種をまく

豊島さんは、将来的に愛媛にもJリーグチームを作りたいと、愛媛FCの前身となる高校生年代のチームを立ち上げるなど、種をまきました。
その後、地方での実績を買われ、日本サッカー協会やJリーグの要職も歴任しました。

2005年、愛媛FCがアマチュアのJFLで優勝し、翌年からのJリーグ参入が決定。
当時、豊島さんはリーグ側からの立場で、愛媛県初のJリーグチーム誕生をサポートしました。

「Jリーグ参入の基準を満たすスタジアムを作ってほしいと、当時、愛媛県の人が20万人ぐらい署名してくれたんじゃないですかね。愛媛とJリーグを結ぶ調整役として、奔走しました。愛媛県の各自治体に、お金を出して支えていただいた。愛媛FCは、県民クラブという形でJリーグに送り出せたというのは大きいなと思いました」

Jクラブは地域の宝

しかし、2015年。愛媛FCに不正経理問題が発覚。
逆風の中、豊島さんは社長に就任しました。何とかチームの窮地を救ってほしいと、地元の要望に応えてのことでした。

「愛媛FCは県民クラブとして出発した『地域の宝』。決して潰してはならない、そこで乗り出しました」

豊島さんは当時、愛媛FCのチームカラー、オレンジ色のはちまきを自作。サポーターらと一丸となって危機を脱しようという思いから作りました。

「ハチマキ姿で、みんなの前に出ることで、サポーターや地域のみなさんからは『頑張れよ』『頼んだよ』とか言っていただいた。みんなが見えるところで社長が頑張っている姿を見せて、みんなも一緒に頑張りましょう。そういう一つのシンボルになりたいと思って」

30年前には想像もつかなかった景色

その後、2020年にFC今治もJリーグに昇格。
愛媛にJリーグチームが2つも誕生することは、30年前に想像がつかなかったといいます。

「愛媛に2チームも存在するのはありがたいですね。まだ芽が出たばかりだと思うんですよ。四国中央市から愛南町まで小さい町クラブがあり、町クラブの上に輝くスターがJリーグの愛媛FCとFC今治というのが理想でしょうね。
そこでみんながスポーツに楽しんでいけるような、スポーツでもっと幸せな愛媛にという感じになっていただければ、本当に嬉しいなと思いますね」

取材実感

Jリーグが開幕した時、私は大学4年生でした。日本リーグ時代のサッカーも観ていたので、1993年5月15日の国立競技場の光景は衝撃的でした。そのわずか1か月後に、愛媛・松山で公式戦が行われたのは、とてつもなくすごいことです。
いつどこで見たのかは忘れましたが、クレーンで吊るされた仮設照明の映像に度肝を抜かれたのを覚えています。

Jリーグ2年目の1994年に新人アナウンサーとして徳島局に赴任し、当時まだJクラブではなかった大塚FCヴォルティス徳島に出会って以来、サンフレッチェ広島や清水エスパルス、ジュビロ磐田といった日本トップクラスのJクラブだけでなく、Jクラブになって地域を盛り上げたいという地方の小さなクラブ、地震と原発事故と戦いながらJリーグにたどり着いた福島ユナイテッドなど、日本各地の多くの方の情熱、苦労、涙、歓喜を取材させていただいてきました。そうした地域への思いをJリーグ元年に持っていて、その後の愛媛県のサッカーの発展につなげた豊島さんの先見の明には、本当に驚かされます。

Jリーグは、「Jリーグ百年構想 〜スポーツで、もっと、幸せな国へ。〜」というスローガンを掲げています。百年構想のうち30年、3分の1ほどが経ちましたが、これからの70年、豊島さんの思いがさらに多くのみなさんに広がって、「スポーツでもっと幸せな愛媛に」なることを願います。

  •  田中朋樹

     田中朋樹

    初任地・徳島局で現・徳島ヴォルティスとの出会いをきっかけに、サッカーを29年取材。 広島局でサンフレッチェ広島時代の駒野選手と出会い、静岡局ではジュビロ磐田時代を取材。松山局では今治でのホーム引退試合に立ち会った。

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