ある日突然失われた戦友たちの命
- 2023年08月29日
熊本県菊池市にあった、陸軍の菊池飛行場。
飛行場の隣には、航空機での通信業務を担う兵士などを養成する通信教育隊も併設され、全国から若者が集まっていました。
太平洋戦争中の昭和20年春、沖縄の特攻作戦が始まると、菊池飛行場は特攻の中継基地となります。多くの兵士が菊池飛行場から鹿児島県の知覧などに飛び立っていきました。
当時16、17歳で少年飛行兵として陸軍航空通信学校に通っていた少年は、昭和20年に菊池飛行場を襲った空襲で戦友を失いました。当時のことを「今更懐かしいなんて思わない。平和がずっと続いてほしい」と振り返ります。
(取材:熊本放送局アナウンサー 佐藤茉那)
飛行兵に憧れた少年時代
昭和2年8月25日に熊本県菊池市で生まれた前田祐助さん(97)。
少年飛行兵に憧れ、昭和19年4月、17歳になる年に、菊池の陸軍航空通信学校に入学しました。
(前田さん)
「飛行機乗りの航空隊は、胸にプロペラ、ウィングマークがついている特別な服を着ていて、それだけで当時はかっこいいと思っていました。空の勇士というか。街なかに出ると「少年飛行兵が来た!」と言われるくらい皆が憧れるような存在だったんですね」。
飛行機に乗ることは、死と隣り合わせ。
陸軍航空通信学校に入学してすぐに、自分の遺影の写真を撮るよう指示されたといいます。
「平和」だった学校生活
少年飛行兵には、飛行機を操縦する人、整備をする人、飛行機上で通信業務を担う人など、任務ごとに種類があります。前田さんは、通信兵として訓練を受けてきました。
(前田さん)
「通信兵は、飛行機に乗って、モールス信号で地上とやり取りをする役割です。例えば『いま有明海上空何千メートルを南下飛行中』と地上に連絡を取ったり、爆撃の戦果を報告したりする訓練をしました。
飛行機というと一人乗りの戦闘機をイメージする人が多いですが、自分が乗ったのは5人ないし8人くらいが乗る飛行機。同じ飛行機に乗っている人には、それぞれ役割がありました。例えば、操縦士、副操縦士、地上と通信する人、爆撃投下の操作をする人…。自分は通信兵だったので、操縦桿は触ったこともありません。
通信で使うのは、モールス信号です。1分間に何文字以上と決まっています。それを下回ると罰則で長距離走らされるので、みんな必死に訓練を受けていました」。
午前中は学科を受講し、午後は体育(実習)で実際に飛行機に乗っての訓練などをしていました。
全国から若者が集まるなか、前田さんは地元・菊池での採用。休日には近くにいる家族がたびたび飛行場に顔を見に来てくれるなど、平和な学校生活だったといいます。
空襲で一変した菊池飛行場
「平和」だった生活が一変したのは、5月13日。菊池飛行場が初めて経験した空襲の日です。
ちょうど昼時でした。
仲の良かった戦友・ 宮内さんが、自分の代わりに昼食を炊事場に取りに行ってくれた時。
空襲警報が鳴り響きます。
(前田さん)
「敵機は、偵察のために一度降下して低空飛行します。そして飛行機が上昇するときは速度がゆっくりなので、敵兵のパイロットが飛行機の窓(天蓋)を開けて、外のようすを見るんです。飛行機からも地上が見えるし、逃げている人からもパイロットの顔が見える距離感でした」。
炊事場に行くため外を歩いていた戦友の宮内さんが、深い穴に逃げ込む姿が見えました。
…そこに爆弾を落とされます。宮内さんはじめ、同じ穴に逃げ込んだ大勢の人たちが土に埋もれました。前田さんは、必死に土をかき、見つけた人から順に、息ができるよう顔だけ出してあげたといいます。
そこに、再び来た敵機。
土から顔だけが出ていた戦友達は、機銃掃射の的となり、打たれて、亡くなりました。
敵機が去った後、前田さんは、仲間たちを掘り起こしました。
夕方までかけて最後にようやく、宮内さんを見つけられたといいます。
(前田さん)
「宮内は、私の飯ごう(ご飯を入れる容器)と宮内自身の飯ごうを2つ腕にかけ、目を手で覆った状態で、一番下に埋もれて冷たく固まっていました。
なんと私たちの戦争は無惨。泥を堀りあげて…埋まった人間を掘り起こすのが最大の仕事でした…」。
少年飛行兵など30人以上が亡くなった菊池飛行場の空襲。
前田さんは亡くなった戦友たちを道路に並べ、ガソリンをかけて火葬しました。
一晩中かけて焼き、朝に残った骨を全部集めて、彼らの故郷に送ったといいます。
「死なんでよかった」と初めて思った終戦の日
終戦の日は、大柿(おかき)の山の中で、訓練を受けていました。
玉音放送は聞いていませんでしたが、軍隊のなかで「戦争は終わった」と告げられて日本の敗戦を知ったといいます。
(前田さん)
「終戦の知らせを受けて、うわぁ、死なんでよかったと思いました。死なないんだ、と初めてそのときに思いました。それまでは、必ず死ぬと思っていたから。みんな死ぬから、俺も死ぬ、と。死というものがものすごく当たり前みたいになっていました。それが突然、「死なないのか」と。これから生きるのかと思うと、変な感じがしましたね」。
今年で戦後78年 平和を願い続ける
5月13日。菊池飛行場の空襲の日に開かれた慰霊祭。
前田さんは、代表として、慰霊の言葉を語りました。
「死ぬ時は一緒」と誓い合った同期生と、生き残った我々に、既に78年の歳月が流れました。会者定離(えしゃじょうり)とは言うものの、今日この地に立てば、万感胸に迫るものがあります。グラマンの猛射に倒れた彼らはさぞ無念だったことでしょう。生き残った残り少ない私達は既に頭髪も薄い老人となってしまいましたが、毎年5月の慰霊祭に参加し、彼らの冥福を祈っています。経験をした者として戦争の悲惨さ、平和の尊さを正しく証言し伝えていくことが、生き残った私達の務めだと思っています。国を愛する純粋な心で、祖国と家族・親類の平安を信じ、散った先輩や同期のご冥福をお祈りすると共に、これからも日本の平和が続くことを心から願っています。(一部抜粋)
語り部として、自らの戦争経験を伝え続けてきた前田さん。
「いまさら懐かしいなんて思わない。平和が続くことを願っている」と、力強く語りました。
取材を終えて
菊池市内の住宅街を歩いてみると、いまも当時の施設がたくさん残されていました。
ほかにも、弾薬庫、油倉庫、格納庫基礎などがあり、弾痕がそのままになっている箇所もありました。住宅街という日常のなかに、戦時下で使われたものが残っているのを見て、空襲がこの地で起きたこと、忘れてはならない歴史があることを改めて実感しました。
これらの戦跡をどのように維持管理していくのかや、どう戦争を語り継いでいくのか。
戦争を経験していない世代の人たちも一緒になって考える必要があると感じました。