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「ヒメタツ」に魅せられて

命湧く海に潜る
  • 2023年03月09日

かつて水銀に汚染されたものの、再生を果たした水俣の海。その海でいま、世界中から注目が集まる存在がいます。

新種のタツノオトシゴ、「ヒメタツ」です。

毎年、春から夏にかけて、水俣の海ではヒメタツの赤ちゃんが次々に生まれます。その数は、国内はもちろん、世界でもあまり例がないほど。その出産の場面に立ち合いたいと、多くのダイバーが水俣を訪れています。

この「ヒメタツ」の観察を長年続けてきた水俣のダイバーがいます。そこには「命の誕生に湧く水俣の海」を伝えたいという思いがありました。

(熊本放送局 カメラマン 河村信 ・ 記者 西村雄介)

水俣の海を伝えるダイバー

「水俣病が起きた影響で『潜るのは大丈夫なのか』と、マイナスのイメージを持たれる人が今でもいますが、ここは貴重な生き物が多く生息し、命が生まれる瞬間に立ち会える海となっています」

語るのは水俣市の森下誠さん、53歳。

15年前から市内でダイビングショップを経営しています。

全国、そして、世界から水俣を訪れるダイバーを海で案内し、市内外の小学校でも講演。

ふるさと、水俣の海の豊かさを多くの人に発信し続けています。

明かせなかった出自

昭和31年に公式に確認された水俣病の原因物質、有機水銀に汚染された水俣の海。

魚や貝を食べた多くの人たちが病に倒れ、いまも多くの人たちが苦しめられています。

熊本県は、昭和49年から23年間、一帯の海を網で覆って封鎖。汚染されたヘドロや魚を埋め立てる工事などを行い、平成9年に海の安全宣言を出しました。

水俣で生まれた森下さんは、ヘドロが取り除かれる海を見て育ちます。

高校卒業後、県外でダイビングの仕事に就きますが、その出自を周りに明かすことができなかったといいます。

(森下誠さん)
「自分が水俣の出身だというと、『あぁ、水俣病のあったところだね』と言われてしまう。そう言われるのが嫌で、自分が水俣の出身だということは段々と口にしないようになっていきました」

38歳のとき、ふるさとの海に向き合いたいと、森下さんは水俣に戻ります。

そこには、かつて汚染された海の姿はありませんでした。

タチウオやカタクチイワシ、マダイなど、多くの生き物にあふれ、豊かで美しい本来の姿を取り戻していたのです。

ふるさとの海に誇りをもつ思いの表れとして、ダイビングショップの名前にも「水俣」をつけました。

(森下誠さん)
「日々水俣の海に触れる中で、海が復活した、生まれ変わったんだということを多くの人に知って欲しいと思うようになっていきました」。

小さな命に魅せられて

その森下さんが、水俣に戻って初めて海に潜った際、発見したのが、タツノオトシゴでした。

何度も何度も潜り続け、他の海にはないほど、タツノオトシゴが水俣の海に高い密度で住んでいること、そして、深夜に出産が行われることを突き止めます。

(森下誠さん)
「タツノオトシゴは自分が特に好きな魚。ひとつひとつの個体に表情があります。目を動かすことが出来るため、思わず感情移入してしまう。水俣に戻って、いきなりたくさんのタツノオトシゴを見つけた時は、テンションが爆上がりしました。タツノオトシゴのことをもっともっと知りたいと思うようになり、毎日のように潜って観察するようになりました」

メスがオスに卵を渡し、オスがおなかの中で卵をふ化させるタツノオトシゴ。

おなかから飛び出すのは、1センチに満たない小さな命です。

しばらくたつと。

自分の力で元気に泳ぎ出します。

(森下誠さん)
「初めて水俣の海で出産の瞬間を見たときは心から感動した」

幸せ運ぶ「ヒメタツ」の出産

2017年、この海のタツノオトシゴが新種であることが判明し、「ヒメタツ」という名前が付きます。

森下さんは、この「ヒメタツ」の「出産予報」の精度を上げたいと、観察を続けてきました。

メスからオスに卵が渡された時の水温など、様々な条件と経験や勘を駆使し、今では、出産日の予想がかなり正確に出来るようになっています。

ピーク時、毎日のように赤ちゃんが生まれる「ヒメタツ」には、出産後の場面にも特徴が。

出産を終えたお父さんを待ち受けるのはお母さんです。

お父さんがおなかの中で子育てしている間、お母さんのおなかには新しい卵が出来ています。

おなかが空っぽのお父さんに、一息つく間なく次の卵が。

ハートの形に見えるこの受け渡しの瞬間。

見た人は幸せになれると言われていて、この瞬間を予想する森下さんの案内で水俣の海に潜りたいと、訪れるダイバーが増えています。

命の誕生に湧く海を世界に

「ヒメタツ」の出産のタイミングを明らかにすることに情熱を注いできた森下さん。

その理由は、かつて「死」のイメージがついてしまった海で命が誕生する瞬間を、多くの人に見てもらいたいという思いがあったからです。

たゆまぬ森下さんの努力によって、水俣の海は「命の誕生に出会える海」として、世界的に知られる場所となりました。

徐々にその生態が明らかになっているものの、「ヒメタツ」にはまだ分かっていないことも多くあるとして、森下さんは観察を、そして、その愛らしい姿、命の誕生に沸く水俣の海を世界に発信し続けていきたいと考えています。

海の保護めぐる課題は

(森下誠さん)
「いつまでもヒメタツたちが安心して出産できるような海であって欲しい」

再生を果たした水俣の海を見守り続けてきた森下さん。

一方、海の保護に向けて残る課題にも目を向けています。そのひとつが海洋のゴミの問題です。

近年、釣りの道具が海藻やサンゴに絡みつくのが目立つといいます。また、水俣の砂浜には空のプラスチック容器などが流れ着いてくることも。

森下さんが気づいたのは、その容器に書かれている言葉が日本語ということでした。

(森下誠さん)
「外国語のものは一度、韓国語で書かれているのを見たぐらい。つまり、外海から入ってくるゴミはほとんどないということで、不知火海の沿岸から生じたものと思います。不知火海を循環して、水俣の砂浜に辿り着く。沿岸の人の意識、協力があれば、沿岸のゴミ問題の解決は早いと思います」

また、気候変動に伴う温暖化の影響についても言及しています。

去年は赤潮の発生によって、1メートル先が見えないほど海が濁り、貝やヒメタツがダメージを受けました。

また森下さんが近年、よく目にすると言うのが、「ガンガゼ」と呼ばれるウニの仲間です。

体中に長いトゲがあるガンガゼは、魚たちが卵を産みつける「海のゆりかご」、海藻を食べてしまいます。

このガンガゼが温暖化で水俣の海で大増殖しているというのが森下さんの見立てです。

森下さんはガンガゼを海で見つけると、ダイバーに海を案内する際に使う指示棒で鮮やかにトゲを払い落とします。

すると。

寄ってきたクロダイなどが、トゲのなくなったガンガゼをパクリ。少しずつ、その数を減らしています。

市民で「ヒメタツ」保護区を

水俣の海の保護に向けて森下さんはある取り組みを仕掛け始めています。「ヒメタツの保護区」を作ることです。

環境省などの行政機関から認定を受けるものではなく、市民の間で定め、砂浜の清掃などを重点的に行う地域を設けたいといいます。

また、産卵を行うヒメタツや魚たちの姿を撮影し、ライブ映像で地上にいる人たちに見てもらいたいと考えているという森下さん。

これまでに行った海中からの中継は、参加した人たちから大好評でした。「保護区」の取り組みの一環としても、続けていきたいとしています。

(森下誠さん)
「ウミガメなどの保護区があるのは有名ですが、海の中にいる生き物を保護する区域を作るというのは聞いたことがありません。命の生まれる海を守る気持ちを市民で共有する、そして、保護していくためにも『保護区』を設けられたらと思っています」

再生を果たした水俣の海。そして、新たなシンボル「ヒメタツ」。

森下さんの今後の新たな発見にも、目を離すことができません。

  • 河村信

    熊本局カメラマン

    河村信

    NHK潜水班に所属。
    流氷の下からサンゴの海まで、 20年以上に渡って潜水撮影を続けている。
    水俣の老舗の最中が好物で、ロケの時には大量に買い込んでいます。

  • 西村雄介

    熊本局記者

    西村雄介

    2014年入局 熊本局が初任地
    水俣病や熊本地震・令和2年7月豪雨を取材

    へこんだ時は水俣の海を見に行っています。

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