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札幌市長選挙 戦いの歴史 道都決戦の記録

  • 2023年3月20日

190万を超える人口を有する道都・札幌。統一地方選挙では、北海道知事選挙とあわせて札幌市長選挙も行われ続けています。今回の統一地方選挙で、知事選挙とあわせて市長選挙が行われる政令指定都市は、札幌市のほかは相模原市と大阪市しかありません。過去の札幌市長選挙はどのような戦いだったのかー。選挙管理委員会の記録やNHKに残っている当時の資料などをもとに、その戦いの歴史を“深掘り”します。(札幌放送局  三藤紫乃)


札幌市  これまでの歩み

まず、選挙の歴史をひもとく前に、札幌市の歴史を振り返ります。
1922年(大正11年)、「市」となった札幌市。
その後、周辺の町村と合併を繰り返し、自治体の規模を大きくしてきました。
戦後では、1950年(昭和25年)の白石村を皮切りに、札幌村、篠路村、琴似町、豊平町、手稲町と6町村を編入合併しています。
1970年(昭和45年)には、人口が100万人を突破。
2年後、札幌オリンピックが開催された1972年(昭和47年)4月1日に札幌市は政令指定都市に移行します。
札幌市と同時期に移行した、いわば“同期”の政令指定都市は川崎市と福岡市です。

政令指定都市移行では、中央、北、東、南、西、白石、豊平の7つの行政区が設けられました。
その後も人口は増え続け、1989年(平成元年)、厚別区が白石区から、手稲区が西区からそれぞれ分区します。
さらに1997年(平成9年)、清田区が豊平区から分区し、いまの10行政区の形になりました。


政令市以前の選挙は

それでは、札幌市長選挙の歴史を振り返っていきます。
公選制となった戦後、札幌市長選挙は統一地方選挙の1つとして行われ続けてきました。
2003年(平成15年)は、4月の選挙でどの候補も法定得票数に達しなかったことから6月に「再選挙」が行われ、これを2回とカウントしますと、戦後の札幌市長選挙は前回・4年前の選挙までで20回行われました。

戦後最初の選挙は、1947年(昭和22年)の第1回統一地方選挙です。
このときは、全国すべての地方選挙が同時に行われ、札幌市長選挙も北海道知事選挙と同日でした。
この選挙は6人の争いとなり、無所属で立候補した弁護士の高田富与氏が当時の社会党や自由党、共産党の候補らを抑えて、初当選を果たしました。
いまの札幌市の都市規模からすると驚かされますが、当時は、周辺町村の合併が始まる前でもあり、選挙当日の有権者数はわずか12万人余りでした。
その中、高田氏の得票は2万8000票余りで、当選者の得票としては前回までで過去最少です。
戦後初の札幌市長となった高田氏はその後3期務めたのち、衆議院議員に転身しました。

その後、札幌市長選挙は知事選挙と投票日がずれる形が続きました。
現在の統一地方選挙では、知事選挙と政令指定都市の市長選挙は4月前半に、政令指定都市以外の市長選挙はその2週間後に行われています。
しかし、こうした形になったのは1971年(昭和46年)の第7回統一地方選挙からで、たとえば、1951年(昭和26年)の第2回統一地方選挙では、札幌市長選挙は知事選挙よりも1週間、投票が「早く」行われていました。また、投票日が日曜日になったのも1971年からで、これ以前の6回の札幌市長選挙の投票日は土曜日が2回、月曜日、火曜日、木曜日、金曜日が1回ずつとなっています。

高田氏の次、戦後2人目の札幌市長となったのは、1959年(昭和34年)の選挙で初当選した原田与作氏で、3期務めました。
実は、この原田氏から3人続けて市の助役経験者が市長になっています。いまの秋元克広市長も副市長からの転身で、札幌市長は市役所の“ナンバー2”から就任するケースが際立っています。
また、歴代の札幌市長にはもう1点、共通点があり、全員、無所属ですべての選挙を戦っています。
戦後1人目の高田氏は、初当選の選挙は社会党の候補と1万票余りの差でしたが、その後の2回の選挙はいずれも共産党の候補との“一騎打ち”で圧勝しています。
2人目の原田氏は、3回とも得票率が50%を超え、次点に一定の差をつけました。2回目と3回目は社会党の同じ候補を2回連続で退けました。

そして、1971年。
政令指定都市に移行する前の最後の市長選挙は一転、大接戦となりました。
自民党の推薦を受けた板垣武四氏が、“一騎打ち”の相手となった社会党と共産党が“社共共闘”した候補に7000票余りの票差で競り勝ち、初当選を果たしました。
「当選者なし」となった2003年4月の選挙を除けば、この票差は当選者と次点者の最小票差の記録です。


政令市移行後の選挙は

政令指定都市に移行後、次の1975年(昭和50年)の選挙から、札幌市長選挙は2003年(平成15年)6月の再選挙を除いて、統一地方選挙前半として知事選挙とあわせて行われています。
1975年の選挙は、自民党などが推薦した板垣氏と“社共共闘”の候補の“一騎打ち”となり、構図としては1つ前の1971年(昭和46年)の選挙と同じでした。
板垣氏は、この選挙では相手に20万票近い大差をつけて2回目の当選を果たします。
この選挙の投票率は78.69%で、1971年の選挙から一気に10ポイント以上も上がりました。
よほどの失政がなければ、新人と比べて現職は「選挙では有利」とされます。
板垣氏はこの2回目の選挙で弾みをつけ、その後、3選目、4選目、5選目と“社共共闘”や共産党単独の公認・推薦候補を大差で破り続けます。
板垣氏は結局、昭和から平成にかけて連続5期という長期政権を担うことになります。

平成に入って最初となった1991年(平成3年)の選挙。板垣氏の引退を受けて後継として立候補した桂信雄氏は、自民、公明、民社、社会の4党から推薦を受けました。
社会党はこの1つ前、昭和最後の1987年(昭和62年)の選挙では自主投票としていましたが、この選挙では桂氏を推薦。桂氏は、札幌市長選挙としては初の“与野党相乗り”の候補となりました。
桂氏は53万票余りを得て、共産党が推薦した佐藤冨士雄氏らに大差をつけ、初当選を果たしました。


1995年(平成7年)の選挙は、桂氏を自民、新進、社会、さきがけ、自由連合、公明の6党が推薦。
自民党と社会党が再び“相乗り”した桂氏が、共産党が推薦した石川一美氏に大差をつけて、2回目の当選を果たしました。
桂氏の得票は63万票余りで、前回までで唯一の60万票超え、過去最多の得票数です。
また、2人の票差は49万票余りで、当選者と次点者の票差としても過去最大の記録です。


1999年(平成11年)の選挙は、自民、民主、公明、自由、社民の5党の推薦を受けた桂氏が45万票余りを得て、民主党を離党した元参議院議員の中尾則幸氏と共産党が推薦した高橋重人氏を抑えて、3回目の当選を果たしました。

桂氏はこの選挙が最後となりますが、戦った3回の選挙いずれも与野党が“相乗り”するかたちとなりました。
これが次の選挙では…。


平成後期は与野党対決に

2003年(平成15年)4月に統一地方選挙として行われた選挙は、桂氏の引退を受けて新人7人が立候補しました。7人の候補者数は前回までで過去最多です。
結果は、民主党が推薦した弁護士の上田文雄氏が17万2512票、2度目の挑戦となった中尾氏が16万8474票、自民党と保守新党が推薦した前札幌市議会議員の道見重信氏が15万9787票などとなり、7人いずれも法定得票数(=有効得票の4分の1)に届きませんでした。

このため公職選挙法の規定により、政令指定都市としては初の再選挙が行われることになりました。

その再選挙は6月に行われました。
上田氏と中尾氏は、4月の選挙に続いての立候補でした。
このうち上田氏に対しては、民主党は再選挙では政党色を薄めようと、4月の選挙で出した推薦を支持に切り替えました。上田氏には4月の選挙では自主投票だった社民党も支持を出しました。
中尾氏は4月の選挙に続いて、政党の推薦・支持を受けずに戦いました。
一方、自民党は、4月の選挙で道見氏など3人に経済界や保守層の支持が分かれたことが再選挙の原因だとして、道見氏ではなく知名度などを理由に前衆議院議員の石崎岳氏を擁立し、支持層の一本化を目指しました。
石崎氏に対しては、自民党のほか保守新党が推薦し、公明党が支持しました。
共産党は、4月の選挙で推薦した佐藤宏和氏ではなく、公認候補として青山慶二氏を擁立しましたが、「再選挙は4月の選挙の決選投票という意味合いがあり、当初から候補者を擁立せず、市民の意思を尊重すべきだった」などとして、告示後、青山氏の運動を取り止め、自主投票とすることを表明しました。
このため再選挙は事実上、上田氏、石崎氏、中尾氏の3人の争いとなりました。
その結果は上田氏が28万票余りを得て、石崎氏らを抑えて初当選を果たしました。

一方、投票率は4月の選挙では57.32%でしたが、再選挙は46.38%に落ち込みました。この投票率は前回までで過去最低の記録です。
なお、統一地方選挙として行われた選挙では、前回・2019年(平成31年)選挙の投票率が過去最低の記録です。

2007年(平成19年)の選挙は再び統一地方選挙の1つとして行われ、民主党と社民党が推薦した上田氏が53万票余りを得て、自民党と公明党が推薦した国土交通省前技監の清治真人氏らを抑えて、2回目の当選を果たしました。


2011年(平成23年)の選挙は、東日本大震災の直後に行われました。
民主党、社民党、国民新党が推薦した上田氏が53万票余りを得て、自民党が推薦した元総務省自治大学校研究部長の本間奈々氏を抑えて、3回目の当選を果たしました。

上田氏はこの選挙が最後となります。
与野党“相乗り”が続いた前任の桂氏とは対照的に、上田氏は与野党対決の戦いを3回続けて制しました。
相手の自民側の候補には、初当選の選挙は迫られましたが、現職として臨んだ2選目、3選目は大差をつけました。

前々回・2015年(平成27年)の選挙は、上田氏の引退に伴って新人5人の争いとなりました。
結果は、上田氏のもとで副市長を務めていた秋元克広氏が民主党と維新の党から推薦、社民党や新党大地から支持を受けて45万票余りを獲得。
自民党が推薦し2度目の挑戦となった本間氏や、共産党の春木智江氏らを抑えて、初当選を果たしました。

そして、平成最後となった前回・2019年の選挙。4年前の選挙で自民党の推薦候補と激しく争った秋元氏でしたが当選後は“市民党”を掲げ、どの政党とも適度な距離感を保った市政運営を進めました。
こうした姿勢を評価した自民党はこの選挙で秋元氏への支持を決定。札幌市長選挙としては実に20年ぶりに与野党相乗りの形となりました。
秋元氏は立憲民主党、国民民主党、新党大地から推薦、自民党、公明党、社民党から支持を受けて63万票余りを獲得。
共産党が推薦した弁護士の渡辺達生氏を抑え、2回目の当選を果たしました。


投票率  平成に入り低迷続く

次に投票率の推移を見ていきます。
過去、最も高かったのは1951年(昭和26年)選挙の78.93%で、政令指定都市移行後最初の1975年(昭和50年)選挙の78.69%が続きます。
政令指定都市移行後は3回続けて70%台後半の高い投票率を維持し、初めて当日有権者数が100万人を突破した1983年(昭和58年)の選挙は78.10%でした。
しかし、投票率はその後、下落傾向となります。

平成最初の1991年(平成3年)は65.75%、1995年(平成7年)は61.00%、1999年(平成11年)は59.58%、2003年(平成15年)4月は57.32%、2003年6月の再選挙は46.38%と、投票率は回を重ねるたびに下がり続けました。
この2003年6月の再選挙は、前回までで過去最低の記録です。
続く2007年(平成19年)の選挙こそ62.22%と60%台に持ち直しますが、2011年(平成23年)には58.54%、前々回・2015年(平成27年)は58.75%と再び50%台に。与野党の対決色が強まる中にあっても、投票率は低迷を続けました。
そして、現職に与野党が相乗りする形となった前回・2019年(平成31年)。
投票率は56.25%と、統一地方選挙としてとして行われた選挙では過去最低となりました。


歴代市長  年齢は

最後に、「当選者なし」の2003年(平成15年)4月を除いた過去19回の選挙について当選者の年齢を見てみますと、50代が8人、60代が10人、70代が1人となっています。
70代の1人とは、連続5期の長期政権を築いた板垣氏です。
1987年(昭和62年)、昭和最後の選挙で5回目の当選を果たしたとき、71歳でした。
逆に、若い当選年齢では、1947年(昭和22年)選挙の高田氏と2003年再選挙の上田氏が54歳で並んでいます。
くしくも2人とも弁護士で、民間出身の市長であることが共通しています。
一方、戦後、札幌市長は6人誕生しています。
その初当選時の年齢を見ますと、桂氏の60歳を除いて、ほかの5人はいずれも50代です。
本稿とは別の記事で、知事選挙についても当選者の年齢を分析していますが、札幌市長選挙は知事選挙と比べて、総じて年齢は高めです。
戦後の市長6人のうち、4人が市役所出身で助役や副市長からの転身であることも、初当選年齢の高さに関係しているようです。

前回・2019年(平成31年)の結果は👇
統一地方選挙2019【札幌市長選挙】

2023年2月22日

4月9日投開票 前半戦はこのほかにも👇

“春の政治決戦”に向けた動きをまとめています👇

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