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呉のLPガス容器開発秘話 メーカーの歴史そして未来

  • 2024年03月14日

生活に欠かせないガス。家庭や飲食店でよくLPガス容器を見かけます。実はこの容器、呉市のメーカーが国内シェア1位なんです。困難を乗り越えたメーカーの歴史、そして未来に向けて取り組む姿を取材しました。

(広島放送局記者 重田八輝)

戦後から続く “プレス加工技術”

訪れたのは呉市広名田にある1950年創業の中国工業。ガシャンガシャンと大きな音がする工場では、薄くも強度のある鋼の板が自動で丸められ、溶接されていました。安全性を確認するために圧力検査や気密検査も行われます。ここでは1日に4000本ものLPガス容器を製造。国内の3本に1本をつくるトップメーカーなんです。

なぜ、ここまでシェアが伸びたのか。戦後から続く加工技術が1つのカギになったといいます。

写真中央のおわん型の容器が「鏡板」

この巨大な装置では、容器の両端をふさぐおわんのような形をした「鏡板(かがみいた)」という部品をつくります。円形の鋼の板を上からプレスして加工していきますが、この装置に上部に取り付けられているわっかの形の「金型」に高い技術がありました。

金型の内側の丸みはミリ単位で調整されています。少しでもずれると「鏡板」にひずみや傷ができて品質が悪くなってしまうというのです。

細川常務

中国工業 細川光一常務
「手で触ってコンマ1ミリ、コンマ01ミリがわかります。ここまで高い加工技術は、昔は中国工業以外でなかったわけですね。先輩たちの技術を受け継いでやってきて、今もそれが生かされているんです」

“天は自ら助くるものを助く”

戦後から続く高い技術。社史を開くとその経緯が見えてきました。

「世の中に貧ほどつらいものはない。貧者にとって年の瀬ほどつらいものはない。貧者の一燈を心にともし合って持ちこたえている愛する会社をかなめに、仕事捜しに金繰りに開きすぼみながら、だれ一人、弱音は吐かず、がん張ろうを合言葉に力づけ合った」

この会社では、創業以降、主に鉄構製品の製造を行ってきましたが、経営の苦しい様子がうかがえます。転機は5年後の1955年、LPガス容器に着目したのです。このときのことについて、細川常務は先輩から聞いた話として「海外からの情報で、これからはLPガスというものがエネルギーとして出てくると知って、取り組んだのが最初ですね」と話しています。

当時、国内ではLPガス容器はあまり生産されていませんでした。花田卓夫社長(当時)が「とにかく、一か八か、やって、みましょう」と発したのに対して、複数の幹部は血相を変えました。

「海のものとも山のものとも分からぬ危険な仕事に手をのばすのは中止してはどうでしょうか」
「本当に、踏切るのはもう少し需要の見通しが確実になってからでもーー」

しかし、竹本土市専務(当時)のひと言で、生産への道を進むことになります。

竹本土市専務(当時)

「天は自ら助くるものを助く」

呉の海軍工廠 写真

社史には竹本専務(当時)には思惑があったことが記されていました。それは、戦時中、呉の海軍工廠で行われてきた「弾頭」のプレス加工技術でした。会社には、その技術を知る海軍出身者たちがいて、高い品質の容器をつくれると考えたのです。狙いは見事、当たります。LPガス容器は次第に全国に広がっていき、国内一のメーカーへと発展していきました。

先輩たちのように将来を見据えて

会社では近年、将来の燃料として期待される水素に取り組んでいます。自動車や家庭でも水素を利用できるよう専用の容器をつくろうとしてきたのです。

実験施設に案内してもらうと、激しく壊れた容器が置かれていました。ここでは強度の高いカーボンを使った容器に圧力をかけて、壊れる限界点を探る作業を幾度となく繰り返し改良を続けてきました。圧縮した水素を入れるには、LPガスの数十倍もの圧力に耐えられる必要があるためです。

新たなエネルギーとなり得る水素。細川さんたちは、戦後LPガス容器の生産の道を進んだ先輩たちのように将来を見据えて、地道ですが一歩ずつ進んでいました。

中国工業 細川光一常務
「先輩たちが会社を築き上げ市場のシェアを守ってくれて、大きな売り上げを確保してるわけです。それはそれで大事にしながら引き続きやっていくのですが、私たちはさらに新しいものをつくらないといけない。次の世代の生活に合った製品をつくっていくために後輩たちとともに研究開発をこれからも続けていきます」

時代に合わせて形を変えながら、呉の技術が人々の生活を支えて続けている。取材を通じて、そう感じました。

  • 重田八輝

    広島放送局 記者

    重田八輝

    2007年入局。福井局・大阪局・科学文化部を経て2021年秋から広島局。石川生まれ千葉育ち。

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