クイーン

生きるのが苦しいと感じたとき

「『ありのままの自分は受け入れられない』と知った 小中学校」

小学校上がる前まで、親戚とか家族の中で「今の時点で十分いい子だからそのままでいてね」みたいなことをしばしば言われていたんですよね。ただそれが、じゃあそのまんまの自分で小学校入って、それで環境に適応できたかと言われれば、それは適応できなかったわけで。
4~5年生とかになっても、なかなか静かな授業にはならないっていうのが常だったので、そこには馴染めないというか。馴染みたくないというか。当時、学級委員とかやってて、ちょっとでも何か言おうものなら、授業中によく騒いでる一部の人たちに小言を言われたりとか。それが結構グサグサ刺さってきて。「あっ、自分を出したらここでは生き延びることはできないぞ」って。
逃げ場はほとんどなかったのがでかいですね。家でよく言われたんですよ。「みんな大人になるから。ちょっと待ってあげな」とか、「そのうちもっといろんな人と会えるから」とかって。一応、口では「そのままでいいよ」とか、そういうことを言ってくれるんですけど、じゃあ「学校でこういうことがあって、ものすごく嫌なんだ」って言っても、クラスで馴染めないとかそういう話なんですけど、なんか、「中学上がれば、高校入れば、変わるからきっと」って。その一点張りだったんですよね。それって「今こういうことを思ってて、こういう感情があって、だからすごく負担なんだ」っていう、それが自分のありのままだとしたら、そこは受け入れてもらってないっていうことにもなると思うので。

小学校と中学校がものすごく近所で、学区もほとんど変わらなかったんです。だから、学年のメンバーが9年間一緒。9年間そこで耐えるほかなかった。耐え続けた結果、中3ぐらいで限界がきましたね。

「中学3年の体育祭と 家出」

通ってた中学の体育祭が、基本的に全部生徒が仕切る、みたいな。ちょっと先生が手を貸すだけで、もしちょっとでも不手際が起ころうものなら、体育主任の怒号が飛び交う。なのに僕は、体育祭実行委員会の委員長をやるって言っちゃったんです。
多分いろんなことがあったと思うんですよ、頭の中には。これは中学上がる前からそうでしたけど、「クラスに馴染めないなら先生に守ってもらえばいい」ってことで、とりあえず優等生みたくやっとこうって。だから先生からのポイントが稼ぎたかったっていうのもあると思うし。あとは、げきを飛ばされてへこむ人、泣く人もいたわけで。人がそうなってるのは見たくない。だったら自分でやろうって。

その年がゴールデンウィーク期間と学校の開校記念の休日とが被って、全然学校に行けなかったんですよ。ちょうどそこでいろんなことが決まっていく忙しいタイミングなのに。当時まだ携帯とか持たせてもらえなかったんで、学校行ってみんなで打合せするしか、他に連絡手段がなかったんです。「5月入ってから連休のどこかで、実行委員で1回学校来よう」と。「じゃあ何時にここ集合ね、そのあと色々準備しよう」ってことになって、時間通りに行ったら、いなかったんですよ。誰も。
学校中どこ探してもいないし、唯一見つけたのは、体育主任の先生がしかめっ面してタバコを吸っている喫煙所。それでもう怖気づいちゃって。「どう責任取らされるんだろう。これでもし、全部うまくいかなくなったら…」って。気づいたら立ち上がって、荷物全部置いて歩き出してて。
家に帰るほうには行かないで、反対方向に行って、国道沿いをずんずん歩いていって。3~4つ隣の町にあるちょっと広い公園で、うずくまってた。もうかなり日が暮れて寒くなってました。近所にちっちゃいショッピングセンターがあったんで、うろうろしながらできるだけバレないように、こそこそしていました。段ボールを2~3枚もらってきて、適当に敷いて、公園で寝ました。日が昇ったら段ボールを茂みに隠して。そこから2~3日は、帰る気が全くしませんでした。

「みんなで集まろう」って言った日の朝、めちゃめちゃ不安で怖くて、両親に今にも泣きつきそうな感じだったんです。でも「行きゃあ何とかなるんだから。自分でそう言ってたでしょ?じゃあ行きなよ」って、それだけだったんで、なんか…。事実はとても見てくれるけれども、気持ちまではなかなか見てくれない、見ようとしてくれてない。肝心なところをこちらが見せなかったのもあるし、見てくれなかったのもあるし。噛み合わなかったなって。

いざ帰ったら、怒鳴られはしなかったんですけど、結果として「お飾り委員長」みたいなふうになって、ほとんど何もできなかったというか、しなかったというか。
スクールカウンセラーさんに言われたのが、「あなたちょっと無理し過ぎよ。みんなが何でもできるわけじゃないんだから。スーパーマンでもないのに」って。
そのとき、「でも今までここで生きてきたのって、自分が優等生を頑張ってきて、スーパーマンでできるだけやろうとして努力してたからであって、その看板を下ろしちゃったら、ここでは何も残らないよ、ここでやってけないよ、もう」って、素で思ったんですよね。

「高校進学 『自主性を重んじる』校風を選んだ」

一応は第一志望の学校に行かせてもらいました。なんやかんや、自主性を大事にしているところ。そういう環境に身を置いてたっていうのは、「自分の素を出したい」っていうことの裏返しだったのかもしれないです。
高校のチョイスは当たりだったと思います。そこでやっと、ああ、こいつら仲間かな、って思える人にも出会えましたし。一番幸せだったのは、修学旅行の思い出ムービーを自分で作ったこと。学年みんなが色々撮ってたんで自分で集めて。それを曲に合わせて編集して。みんな、大層喜んでくれて。楽しかったのは多分それですね。逆に一番きつかったのは何だったろう。まあ高3がほぼ全部、ですね。

「転機は高校3年 先生たちの言葉」

「受験は団体戦だ」。試験を受けるのはたしかに個人ですけど、そこに至るまでの準備、みんなで勉強する、これは団体戦だろう、と。だから例えば「今日すごい疲れたけど、あいつも今自習室いるからもうちょっと勉強してこうかな」とか。そういう空気感をもって「団体戦」っていうふうに言いたかったのかなあって。「受験準備、早くやろうぜ」っていう空気感を、先生方は醸成したかったのかなって。実際それに乗る人はいましたし、僕もそれに乗ってこうと思いましたけど。
受験勉強が本当に手に付かなくなってからは、その言葉は拷問でしたね。「自分が団体の輪を乱してる」って。それが怖いのと申し訳ないのとで、学校に行きづらくなりました。

「勉強も手に付かず学校に行けず―『死にたい』」

ノート開いてて、ペンを持ってて参考書がここにあって、書こうとして、本当に数字を書こうと思っても手を動かせない。ペン先をノートの先に付けられない。…なんだろう、その瞬間に、自分が堕落した感じがしたんです。
それまで小・中・高校2年まで、「それなりに勉強ができるほうの人」であろうとしてきたんで。それがもう使えないっていうか。アイデンティティの1個でもあったものが無くなったって思って。今の時点でこれなら、これからもっと何が起きるか分からないぞって。そのうち全部無くなるんじゃないかって。
もう身ぐるみ剝がされたような感じでしたね。でもそれで「自分の素をさらけ出してみよう」っていうふうになったって、そんなの許容されないに決まってるって当時は強く思ってましたし。
だったらもう、身ぐるみ剝がされるんだったら、いっそ自分のことも消してしまおうって。言葉にしたものとして初めて「死にたい」とか思ったのは、多分それが最初です。「素の自分を見せる」っていうのが、この世の終わりみたいに怖かったです。
多分、楽観できなかったんでしょうね。ずっと「受け入れてもらった」っていう感じがしてなかったので。

「意を決して素の自分をぶつけた 大学受験」

「大学入れば一発逆転があるかもしれない」って。いろんな人に会いたいって思ってましたね。もしかしたら、すっごい面白い人がいるかもしれないし。大学で始めたことが、ものすごく自分にはまって、何かの活路になるかもしれないし。将来どうしようとかいうのが、はっきり見つかるかもしれないし。あとは、あわよくば「高校時代、受験勉強何してた?」とか「そのときに何があって」「学校行けなくなっちゃって」とかって話が、できる人がいたらいいのかなあって。
面接試験があって、「どうして本学のこの学部・学科を志望されたんですか?」っていう質問には、当時思ってたこと色々しゃべりました。そのときは、ここで自分を出さずしてどこで出す?みたいな。出し切れるものは出し切ろうっていう感じでした。
ただ、緊張でうまくしゃべれなかったのか、内容がいまいちだと思われたのか、あるいはペーパーテストの結果と合わせてのことだったのか分からないですけど、第一志望、面接まで受けて、合格じゃなかったんで。
不合格通知に英語の併記があって、「You have not been accepted.」って。受け入れられませんでしたよって。直訳すればそういうことなんで。
なんか、今まで、受験勉強手に付かなくなってみたりとか、学校にもなかなか行けない時期があったりとか、そういうのを全部経て、それでも、どうにかこうにか這いつくばってきた結果が「受け入れられなかった」っていうのは、正直ショックではあったなって。
学校行ってなかった間に、勉強がすごく遅れていたのがあって、自分で暗記用の教材を作ったこともあったんですよ。そこまでしてもだめだったか、っていうのは…なんか悔しいとか通り越して、虚無でしたね。

「2020年の春 コロナ禍のなか 第二志望の大学に進学」

切り替えはできなかったと思います。でも切り替えるしかないっていうのが現実でもありましたし、一旦フタしてました。そしたら、フタしてた上に、「入学ガイダンスやりません」「新歓やりません」「授業開始は1ヶ月遅れると思います」「パソコンで授業するからみんな頑張って」…。その状態で一人暮らしっていう。
「外に出るな」と言われてたばっかりじゃなくて、新しい環境、知らない場所に行ったのもあって、行動範囲がものすごく狭くなりましたね。もう本当に、たまにスーパー行くぐらいしか買い物もしなければ、知り合いもいませんし、バイトできるでもなく。特に授業の開始が1ヶ月ちょっと4月から遅れたりもしたので。時間を持て余してましたね。

「学生同士の交流はSNS」

もう出だしで遅れたくない、っていうのが強かったですね。高校の幕切れがちょっと良くなかったので。「再出発だ」って。ただこればっかりは、SNSが得意じゃなかったもんですから、全然できないし。これが後で会えるっていう前提ならいいんです。会えないんですよ。その状態だと、自分のことをどこまで話していいのか距離感がつかめなくて。地元がどこで、何でこの大学入ったとか、サークルどうしたい、とかいう話なんかも、なかなかできませんでした。

「リモート授業とレポート提出の日々」

レポートの主題がどういうことか分からなくって、自信無いなりに頑張って書いたんですけど、多分だめだっただろうなあって思っていたら、教授から「よく分かんないこと書いてた人いたけど」って感じのコメントがお知らせ欄に届いてて。あ、これやったな、やらかしたやつだ、って。でもその授業が、資料配るだけだったんです、完全に。ボイスメッセージを補助教材で出してくれるっていうのでもなくて。ただパソコンで作った文字だらけの資料が送られてくるだけっていう。
当時は、その科目ばかりがそうだったわけでもないと思います。他にも、いろんなところで同じようなことはあったのかなって。

「自分と脳内会話するようになった」

なんか、脳内にもう一人自分がいて、ずっと怒られるんですよ。「これぐらいできなきゃだめだ」とか。「こんなんで泣き言言ってるようじゃだめだぞ」とか。それに「すいません、すいません」って。平謝り。そればかりでしたね。一人暮らし始めたからっていうのもあったと思いますし、結局自分がどうにかしなきゃいけない問題だって思ってたので。
他に話せる人がいれば。それこそすごく近所とかに、この人になら話せるなって人がいれば、変わったのかもしれませんけど。

「ネットで目にした 大学生への批判」

あの当時、若いってだけで罪みたいに言われるような感じもしてたので。やりづらいなあって思いましたね。大学生が、リモート授業がもう嫌だと言って、SNSでハッシュタグを付けて投稿して、ツイデモみたいなやつをやっていた。そしたら、「みんな我慢してるんだから、文句言うんじゃない」「大学生でしょ?甘えるんじゃないよ」「好きで大学行ってんでしょ?勉強しなさいよ、遊んでないで」って。なんかそれは…なんか、どう思ってたとかじゃなくて、そのときは一人の一応大学生として、悲しくはなりました。大学生ってだけでこんなこと言われなきゃいけないんだ、って…。
多分その辺もあって、何ていうかな、段々疲れてきちゃって。授業も全然分かんないし。一旦パソコンとかだけ持って実家に帰ったんです。

「家族に相談しようとした でも―」

そのとき、父方の祖父母がちょっと具合悪くて、父が在宅勤務ができるようになって、祖母の世話をしながらその傍らで仕事する、みたいな。ずっと父が自分の実家にいたんですよ。そこに行くのも時間がかかりますし、あとヘルパーさんを呼んでいて、父が県外から来た人と接触したら、2週間ヘルパーさんはお休みさせてもらいます、怖いからって。それもあって、会いに行って話すっていうのができないって。
母が言うんですよ、「じゃあみんなで電話で話そうよ」って。画面越しの授業が嫌でこうなってるのに、また画面越しにお話しましょうって、それじゃ何も生まれない。実際、実家に帰る前にも電話で色々しゃべったことがあったんです。結局うまくコミュニケーションできなくて…。解決策も改善策も見つからず、だったんですよね。

今までのことがあったので、ちゃんとした話をしようとなかなか思わなかったのもありますし、いざ話してみようと思っても、まあ当時の情勢がなかなか許さない。でもあるとき、やっと父のほうから「大丈夫だから、来な」って、言ってくれたんです。そこで色々、何が大変で、どう思って、みたいな話もしゃべって。父は「ああ、じゃあ休学でもしときな。それがいいよ」って。生身の人間と、込み入った話をするっていうんですか。いつ以来だろうって思いました。

「休学中 ギターを弾き始めた」

初心者向けの安いセット売りみたいな、小物とか色々ついてるやつを買いました。アコースティック。モチベーションは、この曲がやりたいっていうのが何曲かあって。ビートルズが大きかったですね。「Here Comes the Sun」。なんかもう、アコースティックの良いところを全部詰め込んだみたいなメロディーラインだし、ああいう曲良いなって思ってたんで。
それを弾けるようになってから、次何やろう?って思ったときに、エリック・クラプトン良いんじゃない?って思ったんです。「Layla」のアンプラグド、アコースティック版。あれをやってみたら楽しくて。のめり込んだのはそれがきっかけだと思います。
クラプトンが何を思っていたかは本人にしか分からないですけど、でもあの人がやってることって、自分が思ってたこと、感じてたこと、つらかったこと、苦しいと思ったこと、全部音楽に表れてるなって。「Layla」に関してはそれをすごく思っていて。聴いててあんなにヒリヒリしてくる曲に僕は出会ったことが無いです。このヒリヒリ感は、自分が持ってるヒリヒリ感と近いものがあるんじゃないかって。

「1年後に復学 二十歳 大学の仲間との飲み会で―」

学園祭の結構直前だったと思うんですけど、何人かで居酒屋行って色々話し込んでたら、そのとき、せきを切ったようにしゃべっちゃって。コロナ対策と銘打ったいろんな制限が、効果があるとか無いとかじゃなくて、なんか、どこまで割を食えばいいんだ、みたいな感じだったかもしれないです。それが、ちょっともう我慢の限界だっていうふうになっちゃったのが、居酒屋の席だったんですけど。そしたら、周りの人がみんなポカーンとして、「そこまで考えたことないなあ」とか「今楽しいからそれで良くない?って思っちゃう」とか。何も言わずにジョッキを傾けるとか。それで、ああ、自分の素が受け入れられなかった、って。
同じ時代を、同じような立場として生きている、同じ世代の人間として、分かってほしいっていうのはありました。ただそれは、求めたからといって絶対に叶うものでもないですし、だからせめて、意見交換がしたかったなって思います。意見交換にもならなかったっていうのが残念だったし、せっかく話したのに、っていう感じで不完全燃焼でしたし。

次の日、休んで。
そのときは衝動でしたね。なんかもう発作的にというか。
2日後ぐらいに脚がしびれて動けなくなって。歩けなくて。当然、ステージに上がれるわけもなく。

「学園祭への出演中止 救急搬送」

出られなかった学園祭が、丸くは収まったんですよ。みんな頑張ってくれたから。僕が出るはずだったステージで、それが思いのほか良かった、結構盛り上がってたんじゃない?っていう感じだったんで。なんか、存在意義を見失った感じがしたんですよね。
それで、また一段へこんでいって。じゃあこういう話をどこかで誰かに話せたらちょっと変わるかなって思ったんです。
頼りにしてたのが、大学のカウンセリングルームみたいなところで。結構入学して早くの段階からお世話になってたところではあるんですけど、たまたま面談の予約を入れていたんです。だから、そこで話せるかなって思ったら、担当の相談員の方が濃厚接触者判定を受けてしまって「2週間出てこられない、面談の日をずらしてくれ」って。「じゃあ予定確認してあとで連絡します」って言って電話を切ったんですよ。そのときにもう、全身の力が抜けました。ああ本当に救いねえなって。ほんっと時代に嫌われてるなって。限界が来て。

救急車で運ばれて大きい病院入って、3~4日ぐらい点滴と飲み薬とで。入院先では一応、精神科医の診察もあったんですけど、なんか「他の人に話せたら良かったよね」って。誰かに話せれば良かったって、話した結果こうなったんだけどなあって。

「いろんなことを飲み込み 自分を抑えていた」

なんか、特に大学入ってからは、世の中みんなそうだったっていうのもあって、時代に嫌われてるんだから、それに文句言ったって何も変わんなくない?って。でも当然「何でこうなっちゃうんだよ」みたいなことも思う自分がいるわけで。で、僕はそういう自分を、ありていに言えば殺そうとしてた。そんなこと考えちゃいけない、って。抑えようとしてた。抑えられない、でも抑えなきゃいけないっていう無限ループが始まっちゃって。
人を責めたり、人に原因を求めたりしても、それで100%解決するわけではない。それでは物事はほとんど解決しない、解決できないっていうことを、それまでの経験から薄々感じてたのかなって。
救いを求めたときに諸事情でそれが「無理だ」って、「飲み込みなさい」って言われてきたのが、段々自分の中に浸透していったのかなって。

それでもいま、生きている理由

「サークルの仲間の言葉」

あるとき、委員長に「実はこういうことがあって」って話をちょっとだけしたんです。うつで大学入るくらいの頃からずっと困ってて、最近それがひどくなってて、ライブにも身が入らなくて、サークルに残るか辞めるか考えるところまできてるんだ、みたいな話をしたら、委員長が応えてくれて。「それは大変だったな。ゆっくり考えればいいから。もうちょっと元気になってから考えるんで良くねえか?」って。「一応待ってはいるからな」って言ってもらってから、ちょっと上を向いた感じですね。
その人の言葉には、なんだろう。血が通ってるなって思いました。「あんまり考えてなかった」とか「まあ良くない?」みたいな感じでさらっと流す言葉じゃなくて。なんだろう。向き合ってくれたなって。

「言葉では伝わらない気持ちをギターに」

多分ギターじゃなくてもよかったと思うんですよ。例えば、今年の何月かに観たい映画が上映されるから、それまではちょっと頑張ってみようとか。アートに限らなくてもいいですし、スポーツとかでも。ただ僕の場合はそういう、将来何があるから、とかっていうのは分かるには分かるんですけど、じゃあ今つらいのはどうしてくれるの?って考えちゃって。それを発散する術が、絶対に必要なんだろうなって思うんです。僕の場合はそれが音楽で、ギター弾くっていうことで。本当に運が良かったと思います。音楽がうまくハマってくれたっていうのが。
使える言語が増えたって感じですかね。だから、ふつうにしゃべるばっかりじゃなくて、立ち振る舞いとかで分かるところもあるでしょうし。僕の場合はギターで、悲しく弾くでも、激しく弾くでもいいですけど、それをやってると、自分の中の言葉にならないものが、言葉じゃないんだけれども何か伝わるものに変わって、音になってる、っていう感じがするんです。サークルで言われる「お前のパフォーマンスにはパッションがあるよ」「なんか、小手先じゃないんよ」っていう、そのパッションって、それなのかなって。
その人の内面に抱えてるちょっときれいじゃないところ、きれいじゃないほうの「ありのままの部分」なのかなって気はしますね。

「コロナ禍 苦しんだ同世代に伝えたいこと」

あまりにもタイミングが悪かった。その状態で救いを求めて、いろんなことをした人だっていたでしょうし、みんなそれぞれに自分で模索したところもあったと思うんですよ。僕だってそうです。でも、それが救いには繋がらなかったりとか。ただ、意外とどこかに救いが転がってたりすることも、あるのかなあって。
時代には見捨てられるかもしれないけど、だからといってその時代を生きている人全員に見捨てられたと思っちゃったら、悲しいのかなって。それにもし、本当に全員に見捨てられたとしても、「こういうものが好き」っていうものに見捨てられることって、よほどのことがない限りは無いと思うので。
僕の場合は元々音楽が好きで、自分でやってみたら、すごく助けになるってことが分かって。多分それが無かったら、大学辞めてたでしょうね。だから、何だろう…救いは、あるようで無いし、無いようである。ですかね。

クイーン

2020年の春に大学進学し、コロナ禍のなかで新生活を迎えた。
人と関われない日々に追い込まれ、休学を経験。
休学中に始めたギターで、言葉で伝わらない苦しさを別のかたちで表現し始めた。

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