スガカオル

生きるのが苦しいと感じたとき

「初めて『死にたい』気持ちが芽生えた 小学校生活」

小学校4~5年生ぐらいのときで、校舎の外で、遊んでる中でいじめがあったんですけど、そのときに初めて、「死にたいなぁ」っていうふうな気持ちが芽生えたのが初めて。
いじめてた人たちっていうのは、所属していたスポーツクラブの、みんな体力がすごいある人たちで。でも自分は、もともと生まれたときに心臓病があって、体力がない中で鬼ごっこをしていたんですね。私がタッチをしてもずっと鬼をやるはめになるっていうか、私に向かってタッチをしてくるっていう状況で。
なんか、終わりが見えない鬼ごっこをずっとやっているっていうところで、心も体も疲れていった。「逃げれないな。死にたいな」っていう感情になっていった。同じチームで同じスポーツをしている仲間なのに、なんか、一人だけ「仲間じゃないよ」って言われてるような感じだった。
みんな気が強い子たちだったから、自分の力を見せつけたいっていうふうに思ってたのかなって。私はどちらかっていうと気が強いほうでもなくって、体力もないから、標的にされやすかったのかなって思って。その人たちと一緒にスポーツをしてるときは楽しいんです。でも、それ以外の時間、学校にいるときも一緒にいなくちゃいけなくなって。ほかの同級生たちは「あの子たちは私たちとは違うから」って言って。体力の差とかも違ったし、ほかの同級生たちからも疎外されて、その仲間内でも疎外されて。先生たちは職員会議で忙しくてっていう感じで。
なんか、頼れる大人がいなかったっていうところで、孤独感とか、「大人は頼りにならない」とかいうふうな思いを持っていたのが大きかったかなぁって思います。

「厳しかった母 家族の関係」

「学校に行きたくない」っていうふうに初めて母に言ったときに、母は忙しく掃除機をかけていたんですけど、「いいから行きなさい!」って。「忙しいんだから」みたいなふうに突き飛ばされて。父には、父のことが好きだったんで、いじめられていることも話さないで、いつも楽しく笑っている私でいることが、父を喜ばせることだと思っていたし、嫌われたくなかったっていうのが大きかったと思います。

学校で突然息が苦しくなって、ヒューヒューって喘鳴が鳴ってしまって。すぐに保健室に行って、先生に「病院に行こう」って言われたんですけど。母が学校に呼び出されてタクシーで来て、そのまま病院に向かったんですけれど、その道中に「忙しいのに呼び出すな」っていうふうに、言われてしまって。「ああ具合悪くなっちゃいけなかったんだなぁ」とか、思ったりもしたんですけど。
病院の先生からは「ストレスがたまって、大人がなるぜんそくになっている」って、親が説明を受けている話をちょっと聞きながら、「ああストレス性のぜんそくなんだあ。大人がなるやつなんだ」ってちょっと苦笑いしながら。「ああそんなに自分、つらい状況だったのかな」って。
そのときっていじめもあったし、家庭内の両親の不仲っていうのもあったし、なんか、どこにも安らぐ場所がなかったような感じもあって。それがたぶん体に出てしまったんだろうなぁって思います。

でも、父は、仕事が忙しかった人ですけれど、平日に早く帰ってきたときに、一緒にテレビを観て笑ったりとか、休みの日に一緒に遊んでもらったりとか、スポーツの試合に応援に来てくれたりとか。やっぱり父のことは好きだったので、だからこそ困らせたくなかったっていう気持ちが大きかったんだと思います。
兄がいるんですけど、とても優しい人で。取っ組み合いのケンカとかもよくしたんですけど、でも、いざっていうときに助けてくれる存在でした。父と母がケンカしているときに、「こっちおいで」って言って、兄の部屋に連れてきてくれて、一緒にゲームして紛らわしてくれたりとか。私の中ではちょっと、ヒーローのような感じで。

「いじめは中学校でも続いた」

中学にあがってからも、部活が小学校のメンバーがそのまま一緒だったので、引き続きっていう感じで、仲間外れだったり、無視だったりとか、あざ笑うかのような発言が多くあったりとか。そんなことが多かったですね。メンバーは減ったんですけど、変わらないメンバーも残っていたので。なんか、終わらないなぁっていうふうに思いながら過ごしていました。
でも、2年生のときに新しい顧問の先生になって。私を仲間外れにすることとかは見えないところでやっていたので、どこまで気付いていたかは分からないですけど、先生が、中2のお正月に「一生懸命やっていれば、ぶつかったり悩んだりすることもある。でもその頑張りで道は拓くよ」って書いてくれた年賀状をくれて。ああ、ちゃんと見てくれてるんだなって。そこで初めて、ああ信頼できる大人もいるかもしれないって、思えたような気がします。

その先生も、だからといって問題を解決するっていうことには至らなかったですけど、その中でも、「ちゃんと見てるよ」っていうことを示してくれたような気がしているので、それだけでも私には大きな力になった気がします。『いない存在』じゃないよって、言われてるような。母には、なかったことにされた気がするんですけど、なんか、味方になってくれてる人がいるような気がしたから。

「高校進学 姿を消してしまった母」

新しい環境で、私のことを知ってる人も少なくって。なんか、新しい生活の始まりだーと思っていました。でも、相変わらず夫婦仲は良くなくって。6月ごろになると、アルコールとパチンコ、ギャンブルの依存によってすごく多額の借金をつくった母が、突然いなくなってしまって。父から、パチンコで借金をつくって、いられなくなったから、もう出てってしまったみたいだっていうことを聞いて。これは大変なことになったぞ、と思って。
学校生活もあるし部活も入ったし、でも、私が家のことをやっていかないといけないし。なんだろう。母がいなくなったことによるさまざまな負荷の証しとして、初めて、夜にリストカットをしました。思いもよらなかった、なんでそんなことになってしまったんだろう?っていう衝撃が大きかった。あとは、少し振り向いてほしかったのかもしれないですね。一度だけでも。母に。でもそれが叶わないし、生活は大変になるし。

母は厳しくて、よく怒っている人でもあったんですけど。小さいころ、小学校にあがる前とかに、締め出されて家に入れてもらえないことがあって。たぶん、今だったら通報されたりっていうこともあるんだろうなって思うんですけど。外に出されて入れてもらえなくて、泣いてお願いするんですけど、無視されていたりとか。辺りが暗くなってごはんの用意の音とかが聞こえてきて、ごはんの前になると「もう入りなさい」って入れてもらって、無言で食べる、みたいな。なんか、そんなことが当たり前に起きていたので。

それでもどうにか母に好かれたいとか、振り向いてほしいって思っていて。母はミシンをやる人だったんですね。洋服をつくったり、人の服の直しをしたりとか。私は母のようになりたくて、誕生日プレゼントか何かのときに父に「何が欲しい?」って言われたときに、「ミシンが欲しい」って言ったんです。母のようになりたかったし、ミシンをやれば少し近づけるんじゃないかと思って、それでお願いしたんですけど。でも、やっぱり買ってもらったのはおもちゃのミシンで、母とおんなじような大きいミシンではなかったし、同じようにはいかないなぁって思いながらも、でも、ちょっと同じことをしてるような気分になった。それが嬉しかった。

「高校で出会った友人たち 向き合ってくれた先生」

お弁当つくっていって、朝練して、授業受けて、遊んで、部活して、家帰って、料理して、それでまた自主練で走りに行って、それからごはん食べて洗濯物やって、って毎日ハードスケジュールで。そのころから睡眠が4時間半だったんですね。勉強は大してしてないのに、時間がなくて。それだけ生活をまわしていくのに必死だったと思います。
でも、友達には恵まれて、同じように家庭の中でいろんな理由で恵まれなかった友人たちと一緒に、心の内とか話したり、「満たされない!」とか話したりして、そういう友達がいたから、乗り切れたんだろうなって思います。
高校の先生たちっていうのは、とても頼りになりました。私は中学3年生ぐらいのときから過換気症候群が始まって、不安になると過呼吸みたいになってしまって。でも、高校の先生たちが、授業のときも、いきなり涙が止まらなくなると「保健室行っていいんだぞ」ってぼそっと言ってくれたり。悩みを聞いてくれた生物の先生とか。
生物準備室で先生が、サイフォンでコーヒーを入れてくれて。お菓子のクッキーをひと袋だけ、渡してくれて。コーヒーを飲みながら、なんだろう、大したこと話してないと思うんですよね。でも、そのときは聞いてほしくってたまらなかったんだと思います。ただコーヒー入れて、「そうか」って。「おお、それは大変だな」ぐらいの返しだったんですけど、それでもちゃんと聞いてくれる大人がいるっていうのは、すごく安心できる時間でした。
そんな先生がほかにもいて、数学の先生なんですけど、みんなで「ベクトル」って先生のことを呼んで。ベクトル先生に「そんなお前ら『満たされない満たされない』って言ってないで、足るを知れ」って言われて。高校生ですよ。(笑)それもみんな家庭内別居だったりとか、両親が離婚してっていう家庭だったりとか、そんな人たちが集まってる中で、「今あるものの中から喜びを見いだせ」と諭されて。みんなで先生に「そんなの無理―!」って叫んでたんですけど。なんか、そういう時間があったから、やってこれたのかなって思います。
ベクトル先生とは、今も交流があって。もう生徒と先生ではないけれど、あのころとはまた違った話をしたりとか。新しい関係性をつくったりしています。

高校で初めて、ちゃんと先生たちと向き合って話をして、つらい気持ちとかもちゃんと言えたような気がします。その当時の先生たちとは今でも年賀状のやりとりをしたり、実際に会ったりとかして。
学校が居場所でした。母がいなくなってから、家の中が険悪な雰囲気になって、父ともぶつかることが多くなって、部活も過呼吸起こしながらでしたけどやっていて。友達には恵まれて、先生たちにも恵まれて、あまり勉強はしてなかったですけど、学校は楽しかったです。

「高校卒業 精神科への受診のきっかけ」

まず考えたのは、大学に行くことが学費の面で可能なんだろうかっていうところで。奨学金っていうのはそのときの私の中の選択肢として無くって。ただでさえ家計が借金のことで自己破産をしていたりとかしたので。不安定でもあったし、学校生活を続けられるかっていうことも不安でしたので、大学に行きたいけれど、それとは違う選択をしなければならないなっていうふうに思っていて。学費が安くて、手に職を付けられる、看護学校に進学しようと思いました。
看護学校に行ってからも忙しい日々だったんですけど、演習のときにパニック発作を起こしてしまって、そのときの学校の先生が看護師を経験されてた方たちだったので、「1回ちょっとカウンセリングに行ってみたらどう?」って勧められて。休学をして、カウンセリングに行くことになりました。
でも、カウンセリングで話したいことなどなくって。っていうのも「自分のことなんて分かってもらえない」っていう想いが根底にあって。カウンセリングの時間のほとんどをしゃべらずにいたんですね。“しゃべられずにいた”っていうか。すぐに精神科のほうに紹介されて、それで精神科の医療につながることができました。本当なら高校のときに、リスカをしていたときとかにつながっていたら、もっと楽だったのかもしれないですけれど、たぶん私のタイミングはそのときだったんだと思います。
精神科を受診するようになって、学校も続けられないなぁって感じ取って、それで、退学をして治療に専念することになりました。

「20代 無意識のまま自殺未遂をしてしまった」

20代のころは、症状としてはやっぱり強い「死にたい」っていう気持ちがあったり。でも、誰かに操られてるような感じでもあったんですね。操られるように、死に向かって行動を起こしてしまうとかが多くて。バイトをしては体調が悪くなって、入院するっていう生活を繰り返していて。
あるとき、新しいバイトをし始めた直後に、大事件が起きてしまって。寝ていたと思ったら、気が付いたら総合病院のベッドの上で。
ICUに20日間もいたので、すごく大けがもしたし、そのときの意識もなかったので。家族にはすごく、迷惑をかけてしまったなって思っていて。

それでもいま、生きている理由

「後輩との別れ」

その事件があるちょっと前に「自傷行為とかはやめよう」って、覚悟を決めたきっかけがあって。高校のときの部活の後輩が、当時、初めて私のことを好きになってくれたのが後輩だったんですけれども、その子が病気で亡くなったっていうことを人づてに聞いて。
その子のことはとても思い出深くて。私が、部長兼キャプテンとして部活をやりながら、でも過呼吸を起こして、それでもどうにか引っ張っていこうとしていた中で、後輩から「先輩は強いのか弱いのかどっちか分からないや」って言われて。その言葉がすごく印象的で。
その彼が亡くなったっていうことを聞いて、そのころ私はすごく死に向かって突き進んでしまっていたので、「なんてことをしてしまっていたんだろう」って。その子は二十歳で亡くなってしまっていたので、まだやりたいこともあっただろうにって思って。「このまま自分が死に向かって突き進むことはできないな」って思って。自傷行為をやめようっていうきっかけになっていたんですね。そのあとでの未遂の事件だったので、すごく悔しくって。でも、自分ではどうにもできないことで。それが「解離」という症状だったので。どうにもできない悔しさみたいなのがあって。自己不全感みたいなのを感じていました。
でも、ちゃんと解離性障害について一から学ぼうって思うようになったし、今の主治医と出会って、主治医のもと、少しでも乗り越えていけるように…死にたい気持ちがあっても、それでも抗って、治療をしていく。負けたくないって強く思っているし。だから、自分の中で、未遂の事件はすごく大きなことではあったんですけど、その代わりに、生きなきゃとも思ったきっかけでもありました。
でも治療をしていく中で、過去に起きたことだったりとか、無意識の中に押し込めて、無かったことにしたことも出てきたりして。「自分は虐待を受けていた」っていうことと、「いじめを受けていた」っていうことと、それともう1つ、「性被害を受けていた」っていう事実を、ちゃんと受けとめなきゃって思って。

「過去の自分と向き合い始めた」

未遂の事件があってから、自分の中にトラウマがあるっていうことを知って。その過程で、解離性障害という病気があるっていうことを勉強会か何かで知って、その講師をしていたのが今の主治医で。その主治医に会って初めて、幻聴っていうものが「人格たちの声」だったり、「声のフラッシュバック」だっていうことが分かって。被害妄想も「事実に基づく予期不安だよね」っていうことが分かって。なんか「これってどういうことなんですか?」って謎解きをしてるかのような。

たぶん私の中に、小さいときの自分だったり、高校生のとき、中学生のときの自分だったりっていう、複数の自分が存在していて、今の私は「死にたい」気持ちはないけれど、過去の私が「死にたい」気持ちを抱えたまま癒やされずにいるっていうことが大きかったのかなっていうふうに思っていて。やっぱり、その昔の自分も含めて自分自身を癒やしてあげるっていうことがこれからの課題なのかなっていう。治療として進めていくこともあるのかなっていうふうに思っていて。
未遂をしてしまったのは、そのときは「生きたい」気持ちでいっぱいだったけれど、過去の自分がまだ傷ついていて、新しいこと、バイトを始めてストレスがたまったときにこう、過去の自分がワッて出てきてしまって。自分のコントロールができない中で未遂が起きてしまったのかなって思ってます。

そのとき何が起こったのか、自分の中で説明できなくて。今のように説明できるには、やっぱりそれなりに知識も入れたし、勉強をしてきて、たくさん本を読んで、主治医にも聞いてみたりとかして。その中でようやく、自分がどういうときに解離が起きやすくなったり、どういうことが脳の中で起きているのかとか、ようやく解明できるようになってきていて。でも、それには多くの失敗もしたし、そういう失敗も必要だったのかもしれないし。だから学ぶ姿勢を取れたっていうこともあったし。分からなかったから、学ぼうと思えたし。
やっぱり、自分として生きていく上で、自分で説明ができないという状況に陥りたくないって、未遂の件から大きく思うようになって。だから、もっと自分を生きやすくしたいし、もっと楽に生きるにはどうすればいいかっていうことを、学んでいきたいと思うし。
こう…自分を、解き明かしながら、いたわっていく作業っていうのが、私には必要なのかなって思っていて。

まだどこがゴールとか分からないですけれど、トラウマに対しても回避している自分もいますし。今でも死にたくなることもあるけれど、精神障害には負けたくないと思っていて。それはやっぱり、私の周りにはたくさんの人がいてくれて、友達もそうだし、ベクトル先生もそうだし、今の主治医もそうですし、今通ってる施設の人たちもそうですし。たくさんの人たちが関わってくれて、その人たちの優しさを感じられるから、いま生きていられるというか。
どれだけ自分がその人たちに何かを返せるだろうか、と思うけれど、それは自分が、生き続けることなのかなって、思います。

「昔もいまも支えてくれる 高校時代の仲間たち」

高校生のときに、私がリストカットをして傷が付くからって、「人形をプレゼントしてあげるから、それに傷付けて。私が何度でも直すから」って言ってくれた友達がいて。いま、その子は看護師として働いていて、医療者として頑張っているのをすごく誇らしく思う。そんな彼女だから、そう言ってくれたんだなって思うし。その子とも今でも年賀状のやりとりをして。
「満たされない!」って言い合った友達とも、今でも電話したり会ったりしますし。こないだ会ったときは「死にたーい、って普通に言えると良いよね」って話をしながら、カフェでパンケーキを食べて。なんか、そういう人が周りにいてくれるから、私も飾らなくて、ありのままの気持ちを言えたりできるようになったんだなって思うようになって。

24~25歳だった気がするんですけど、すごく孤独感が強くて、つらい気持ちが大きくなったときに、ベクトル先生にメールか何か送ったと思うんです。そのときに「いまは部屋で一人かもしれないけれど、ちゃんとつながってるから」って言ってくれて。
たしかにそのとき部屋に一人だったけど、そう言葉を返してくれるベクトル先生は電話の向こうに存在していたし、電話帳を見れば友達の名前とか、ちゃんと私の周りには人がいたし、「ああ、いまここには一人しかいないけど、ちゃんと人はいるんだな」って感じられた。
好きな人たちが存在してくれているから。だから私も「存在し続ける」っていう役目を果たさなきゃいけないなって思います。

いまこうして生きられているっていうことは、なんか「まだ死んじゃだめだよ」「まだこっち来ちゃだめだよ」って、好きになってくれた後輩が言ってくれたんじゃないかって思う。
まだ後輩に合わせる顔がないというか、いま会ったところで強くなったとも言えるかどうか分からないし。まだ、やれるんじゃないか?とか、やり残してることもあるような気がするし、まだ会うわけにはいかないから。
いろんな人が助けてくれていて、いろんな人が、気にかけてくれているし、だから負けるわけにはいかないって、思っているから。

「ライターとハンドメイドの制作活動」

今の夢は、寿命を全うすることと、書くことで生活できるようになること。書くことっていうのは好きなことなので。私はしゃべるのがなかなか下手くそなんですけど、文章を書くことで伝えていきたいこともあるし、家で作業をしながら、社会との関わりを持つこと。そのためのボランティアだったり、施設への通所だったりすると思うので。今の生活を続けながら、活動を広げていくこと。
ライターとして文章を書くことっていうのは、自分の表現でもありますし、あと自分自身の考えを客観的に捉えて人に伝えることのツールの1つだと思ってます。ハンドメイドも、ライターの文章を書くこともそうなんですけど、作業に没頭することで、例えばネガティヴな感情だったりとか、過去のトラウマに囚われてしまっている現在だったりとかを、飲み込まれないようにコントロールする役目があると思ってます。だから、書くこととハンドメイドっていうのは、自分にとっては安全な方法で、で、体調を良くしていくことにも役立っていると思っています。

「過去の自分に伝えたいこと」

「生き延びてほしい」って。いまつらい状況にあるかもしれないけれど、ベクトル先生が言うように、部屋に一人きりかもしれないけれど、周りを見渡せば人はどこかに必ずいる、って。過去の自分に言うなら、「死にたい気持ちがあるのは否定しないし、そう思っちゃうよね」って。その気持ちに飲み込まれないでいられる方法があるかもしれないから、ふんばってほしいなって思う。でも「死にたいって思っちゃうよね」って。「そうだよね」って、共感もしてあげたい。でも、「まだ諦めちゃだめだぞ」って。言ってあげたいです。
今の私は、諦めないです。たくさんの人が、いてくれるから。

スガカオル

解離性障害・複雑性PTSDの当事者。虐待サバイバー。性被害サバイバー。
自身の経験をつづるなど、WEBライターとして活動中。
ハンドメイド雑貨の制作活動も行っている。

PREV

Page Top