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東京進学を前に語る ふるさとのこと、生き方のこと

この春、東京の大学に進学した、古川真愛(まなと)さん、18歳。古川さんは東日本大震災で母や弟、妹を亡くしました。当時は小学2年生。祖母と父と一緒に岩手県釜石市で暮らしてきました。
古川さんが東京に進学する前、対話に臨んだのは“恩人”の菅野祐太さんです。菅野さんは中学・高校生活で古川さんの学習支援をしたNPOの職員で、進路相談や受験勉強、それに防災学習まで古川さんの学生生活を幅広く支えてきました。
対話の後編では、古川さんの学校生活やふるさとのこと、そしてこれからの人生について、語り合いました。

(盛岡放送局 記者 市毛裕史)

《対話の前編を読む》

古川 真愛(まなと) さん (18)
岩手県 釜石市で小学2年生のときに被災。津波で母、弟(当時6歳)と妹(当時3歳)の3人を亡くす。
震災以降、硬式野球チームの監督である父の勧めで野球を始めたほか、高校時代は、防災行政無線を使った避難の呼びかけ方を独自に研究。全国の場でも発表した。この春、東京の大学に進学した。趣味は本を読むこと。
菅野 祐太さん (34)
NPO法人「カタリバ」ディレクター・大槌町教育専門官
大手人材サービス会社に勤めていたが、東日本大震災を機に祖父母が住んでいた岩手県でボランティアを始める。被災地の放課後学校の立ち上げなどを手伝うようになり、事業を手がけるNPOに転職。
現在は大槌町教育委員会で教育専門官として町の教育施策の立案にも携わっている。

震災があったから始めた野球

震災後、野球を始めた古川さん。父が硬式野球チームの監督であったことも後押しし、小中高と野球に打ち込んできました。人生の一部となった野球も震災がきっかけで始めたと言います。

菅野:俺ちょっと聞きたいなと思っていることがあってさ。「震災で得たものは何ですか」みたいな質問を、古川は結構受けると思っていて。なんだけど、逆に「あれがあったら本当はこうだったのにな」って思うことがあるのかなと思って。例えば、家族とかでもいいし、震災があったからこそ変化があったこと。「震災があったから俺こういうことできないのかな」とか、「こういうふうに感じちゃうようになっちゃったのかな」とかって、自分の中で思うこととか。

古川:なるほど。いっぱいありますね。いっぱいかな?ないこともないですね。おそらく震災がなかったら、こんなに野球やってないですね、俺は。

菅野:知らなかった。そうなの?

古川:そうだと思います。

菅野:なんで?

古川:そもそも野球始めたきっかけが、父親はずっと野球をやらせたいと思っていたみたいですけれど、それが前に進んだのが、震災で。震災があったけども、ちょっと気分転換にやってみないかっていうふうに誘われたのが始まりなんですよ。その父親の知り合いがやっているチームがあったんですけど、そこに誘われたのが始まりだった。

菅野:じゃあ父親は震災前は特段、野球を勧めてはこなかった?

古川:どこかでやらせるとは思っていたみたいですけど、すごく勧めてきたわけではないです。なので、それがきっかけで始まって。あとは多分そこからものすごい厳しくなったので。やっぱり野球ってなると違うみたいですよ。

菅野:なるほど。

古川:あと震災なかったら、もっと本読んでましたね。

菅野:それはどうして?

古川:野球始めて本読まなくなったんですよね。それはちょっともったいなかったなと思ってますけど。時間がなくなったし。

古川真愛という人間を見てくれている町

甲子園を目指すために一度は県外の野球名門校に進学した古川さん。しかし、環境になじめず、すぐに地元・釜石に戻り、大槌高校に転校しました。一度県外に出たからこそ感じる、ふるさとの良さとは。

高校生の頃の古川さん

菅野:全然聞いたことないけどさ、真愛にとって、生まれ育った釜石市の鵜住居とか大槌町みたいなふるさとっていうのはさ、自分の中で重要なものなの、それとも別にそんなものではないのか。

古川:県外の高校から戻ってきてからの3年間で、重要なものに位置づけられたかなと思いますね。県外の高校行くまでは、「こんな、なんにもねえ町、早く出たいな」と思っていたんですけど。でも戻ってきてから、この“何もなさ”っていうのが、すごく心地いいなとか思いましたね。

菅野:別に将来はここで働きたいとか、そういうことではない?

古川:ここで働きたいとかは思ってないですね、あんまり。ただ、働きたいものがここにあったら来ますけど。

菅野:その感じる心地良さって、もうちょっと言うとどういうとこなの?ふるさと?

古川:余計な事を考えなくて済むっていうのは大きいかな。みんなと話したりする時とか。なんにもないからこそ…難しいな。

菅野:それ面白い表現だよね。

古川:例えば、人が増えれば増えるほど何かいろんなコミュニティーも増えて、つば迫り合いも増えてっていう気がするんです。それこそ一度通った県外の高校でも、同じ寮の中だけで、例えば俺の家の周りの人たちよりも多い人数が普通に寮の中にいたりする。

菅野:そうかもしれないね、確かに。

古川:その中とかでも、「●●先輩についていけばいいから」「●●先輩と俺この前ご飯行ってきた」みたいな会話があったんですけど、こっちはそういうことは、ほとんどないんですよ。 例えば、俺がたまに道歩いていたり、ランニングしていたりすると、ほぼ出会う人全てがみんな俺のことを知っている。しかも、高校をやめた人間がいるのに、普通にそういうことを関係なく接してくれるみたいな。「高校やめたんだな、そうなの」くらいで済む。そういうコミュニティーがあったというのに気付けてなかったなって思ったんですよね、帰ってきた時に。だからすごく、精神的な面では住みやすいなって思いました。

菅野:ある種この地域っていうのは、失敗とか関係なく、古川を受け入れるみたいな?

古川:そうですね。だから、人を見てくれている。この前、NPOのイベントで大学の先生が言っていたんですけど、「田舎では人を見て、その人が信頼にあたるかどうかとか、その人の発言を取り入れるかどうかを決める」ということを言っていたんですよ。まさにそれだな、と思って。俺がどこに所属していようとか、どんな実績を上げてようと関係なく、「古川真愛」という人間として、信頼できるかどうかを見てくれているのかなって、思いました。

菅野:でもやっぱりそれは大槌町から出ないとわからないものなのかもしれないね。

古川:そうですね。そういう意味ではちょっと、少しの期間ですけど、出て良かったかなと思っています。

取り組んできた防災のこと

震災の経験から、防災について関心を抱いてきた古川さん。高校時代の「総合的な探求の時間」の授業では、防災無線や発災時の避難の呼びかけについて調べました。菅野さんたちは、古川さんの研究をバックアップ。全国の高校生が優れた探求学習を発表する大会「マイプロジェクト アワード」で防災の研究について発表するなど、注目を集めました。

高校時代、防災について研究していた古川さん

菅野:俺と話してきた中で、印象に残っていることって何かあるの?

古川:印象に残っているのは、「古川の姿を見て、この子だったら多分、どの分野でもトップレベルになれる人材なのかもしれないと思った」って言っていたんですよ。

菅野:なるほどね。懐かしいね、その話。でも、今でもそれは変わってないよ、それは変わってない。言ったことの気持ちはね。

古川:そうなんですね。

菅野:ただ、どの分野でもって言ったかは、ちょっとわからない。古川がiPS細胞の分野で1位になるか、ちょっとわかんないけど。

古川:それは多分、厳しいものがある(笑)

菅野:こと防災のことに関しては、今でもそうなるかもしれないなと思っている。

古川:防災…。いやもう、ほんと難しいんですよね。どの分野に行っても難しいことは難しいと思うんですけど。防災がすごく難しいなって思ったのは、これはどういうふうにとらえられるかわからないんですけど、結局すごく回りくどいけど、「津波が来たら上へ逃げろ」って言っているだけなんですよ、最終的には。

菅野:そうだね。結論は非常にシンプルであると。

古川:結論が見えているけど、できないっていう現状があって。シンプルに言うと、「上に逃げろ」っていう共有がひとつ必要なんです。あとは、沿岸に家を建てるなとかそれで済む話を、すごく回りくどくいろいろな研究を用いて「こうなんですよ」っていうことが、本当に難しいなって感じますよね。

菅野:すごく面白いこと言うね。今すごく思っているのは、“べき論”があふれていると思っていて。なんかこう、“何々するべき”なんだよね。例えば、教員は○○するべきであるとか、学校ではこういうことを教えるべき、であるとかが、すごく多いんだけど。なんか“べき”にならないところに、本当の理由があるはずなのに、そっちが消されて“べき”を主張する。ひと言で言えば、「津波が来たら高台に逃げるべきだ」――もうひと言で終わりだよ、それで。で、みんな「それはそうだよね」ってわかったつもりになるけど。けど、それができなかった理由にこそ、本当に人、命を救う意味があるはずで。何かあるはずなんだよ、そこに。そこに古川が気付いているのは、すごく面白いと思っていて。

古川:やっぱり研究したからこそなんでしょうね、それは。

菅野:そうそうそう。俺は別に古川の研究が、高校2年生から始まったとは思ってないから。小学生の頃から、ずっと思っていたことだろうし。俺は古川に防災をやり続けてほしいとは思ってないんだよね。防災でトップレベルになれるかもしれないってさっき言ったけど、そんなトップレベルにならなくたっていいから。なんだけど、その“べき”がうまくいかない背景に何があるかっていうのを、津波から逃げられなかった構造と同じように世の中のいろんなものを捉えていく。「なんでできないんだろう」っていうところから、例えばその問題に踏み込んでいくとか。“べき”を越えるというのをさ、なんかテーマとして持っていってもらえると嬉しいなと思って。

古川:確かにそうかもしれない。いま初めて言語化されたような気がしました。なんとなく思っていたことではあるので、「なんでこれはこうすべきなんだろう」って聞いても教えてくれないことのほうが多いぐらいですけど。自分で見つけないといけないから。それを研究テーマにするっていうのは面白いですね。それこそ、なんで学校に行く“べき”なのかっていう。

菅野:そうそうそう。だから、変に惑わされずに大学で学んでほしいな。

活動するNPOの人を見て…

菅野さんたちNPOの職員たちは、大槌高校に「魅力化推進員」として常駐し、探求学習などの授業に関わり、生徒たちの生活を支えてきました。古川さんは町外から訪れ、見ず知らずの子どもたちのために活動するNPOの人たちの姿に刺激を受けたと言います。対話は“生き方”にまで話題が及びました。

菅野さんたちNPOの職員らは「魅力化推進員」として大槌高校に常駐

菅野:ちなみに、じゃあ推進員についてちょっと聞いてみたいんだけどさ。彼らが高校にいて良かったなって思うこと、率直に。

古川:思います、それは。多分いなかったら、大学に行けてないですよ。多分。俺はそう思うんですよね。

菅野:なるほど。逆に、彼らの生き方に影響を受けたところとかってなんかある?

古川:生き方はどうだろうな、「すごいな」と思うことはあるけど。ただ将来、私もああいうふうに誰かのためになりたい、とか言うことはまだできないですけど、ただ「すごいな」っていうのは思いますね。なんで、こんな田舎の見ず知らずの高校生にこんなに尽くしてくれるんだろうというのは、ほんとにすごいなと。むしろそれ聞きたいですね。なんでそういう仕事ができるのか。わかんないですけど、自分のお金のためにやる仕事だったらこういう仕事しなくてもいいじゃないですか。はっきり言って。何でそこまでできるのかなっていうの、不思議ですよね。

菅野:いつかなくなる命とかって言葉を結構言う人いるじゃん。“一生に1回なんだから”とか、あと“一生短いんだから”とかいろんな言葉あると思うんだけどさ。その1回きりの人生、私だったらどう生きたいって、考えた事ってある?真愛。

古川:あります。

菅野:ちなみにどういう結論だったの?自分の中では。

古川:いや、もう自分のために生きるっていう結論に至っています。今のところですけどね。

菅野:今、じゃあ自分のために生きられている?

古川:と、信じたいですけど。多分そこまで自分のために生きていたわけではないので、これまでの人生は。だからこそこれからは、ほんと正直に生きられたらいいのかなって思っていますけどね。

菅野さんは震災前、東京の大手人材サービス会社の事業企画部門で働いてました。社内で将来を嘱望されていましたが、震災をきっかけに生き方を考え直したといいます。

菅野:明日死ぬかもしれないのに、「なんでいま、東京でパソコンのキーボード打っているんだろう」って、俺はすごく思ったんだよね。いつ死ぬか選べる状態に、あるっちゃあるじゃん、人っていうのは。そう選べない状況が震災だったかもしれないけど。その時に、「じゃあ、いま死なない理由は?」って言った時の答えを、「東京でキーボード打ちたいからです」というふうにはやっぱり言えないなって思ったのが大きいかな。真愛も昔、言っていたような気がするけど、人のためにとかってさ、偽善と何が違うんだってよく感じることもあったけど、それが自分のやりたいことだったら、それは偽善だろとは言えないなとも思っていて。

古川:なるほど。深いっすね。自分は、ちょっと逆ですけど「死にたい」って思っていた時に、それに近い結論が出たんですよね。高校をやめて大槌に戻ってきた時に自殺するつもりで…。その時に、「なぜ自殺するのか」って考えた時に、いろいろ考えた時に、結局は「あれ、別に自殺する必要なくね?」と思ったんです。もしかしたら70年、80年あるかもしれない自分の残りの時間を、この一時のために、一瞬のために犠牲にするのかって考えた時に、いや、ここは死ぬ所じゃなくて、おそらく残りの期間を有効活用というか、自分のために使った方が、何か意味を持つことがあるんだろうなって思っていました。だから、さっきの菅野さんの言葉借りれば「死ぬ理由がキーボード叩くことではないよ」みたいなことに近いんですかね。

菅野:学校でそんなにうまくいかなかったことはあるし、自分の命を落としてもって。

古川:もったいないなと思ったんです。

菅野:“見え”とかは全部こう取り払った時に、何をしたいって思うんだろうねと思っていてさ。

古川:難しいですね。でも確かに“見え”とか何かいろいろ取り払った時に、最後に何が残るのかなっていったら、その答えはわかんない…。

菅野:東京は“見え”というか、ラベルで人と会話しなきゃいけないから。何か“2枚目の名刺”みたいなさ、そういう考え方があるっていうか。大槌だったらさ、例えば、いろいろな所属をしているわけよ。あの人の勤め先はここ、家族の中ではこのポジション。お祭りの中ではこことか。自治会の中ではこのポジション。PTAだとか、いろんなさ、3枚目4枚目の顔を持っている訳だよね。東京だと、私はこういうものですっていうふうに言わないと、自分を表現できないみたいなところがある気がしてて。何かそれさえもいびつというか。あなたが何者であるのかということを、ラベルをつけないと話すことはできない。

古川:難しいな。そういう意味では、こっちの方が心地いい部分ありますよね。

菅野:そうだと思う。でも逆に俺がいづらかったなと思うのは、あなたは何者っていうのが全くない状態でここにいることを俺自身がね、なんか許せなかったというか。「菅野さんってどういう人なの?」って多分地域の人が聞いた時に、例えば「俺は○○大学出身です」っていうことを答えるのが東京のアイデンティティーの出し方なんだけど。ここではどうでもいいというか、何者なのとかで聞かなくても、その人自身を見られているというか、そういう見られ方の違いにすごく最初は苦しんだなって思う。

古川:それは面白いな、確かに。

菅野:これからもしかしたら真愛が苦しむかもしれないと思ったのが、やっぱりラベルで人がなんなのかを判断していくから、それ大学名じゃなく、恐らく“被災地で育った古川真愛”というラベルを、どのタイミングで使うか・使わないかということを選ぶのが多いかもしれないじゃん。あんまり、気を遣わせたくないなとか思ってね。でもその時に、自分がこのラベルを使わないことで受け入れてもらえないっていう孤独を感じ始めないかなとかって、ちょっと不安ではあるんだよね。大学のLINEグループの中では自己紹介した?

古川:してないです。

菅野:なんか自己紹介をね今後ね、するタイミングが出て来た時に、何ていうかだよね。

古川:何ていうかですね、それは。最初に全部言うのか。

菅野:そうそうそう。

古川:難しいですね。

菅野:ここの町ではさ、ラベルしなくても「古川真愛ね、ちっちゃい頃から知っていてね…」とか言って、全部知ってくれているんだよね、みんな。それが突然そうじゃないところに行ってね、どうなるかなみたいなの、ちょっと楽しみだな。

古川:それが楽しみなのは確かですね。

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